第百四話 海に消えた賢者
「積乱雲の進路は?」
甲板にランファートの大きな声が響き渡る。
「真っ直ぐこちらに向かって来ているようです!」
マストの上の船員から、こちらも叫ぶような大声が返ってくる。
『サンタ・アリア号』は大きく右方向へ旋回し、遁走するかのように元来た方向へ船首を向けた。
だが、これまでは追い風だった風向きが向かい風となったこともあり、ジグザクに進むために、段々と雲に迫られているようだ。
「こちらに向かって来ているのであれば進行方向の左右、どちらかへ避ければ良いのではないか」
珍しくリューリットが意見を述べるのは、彼女もさすがに不安を感じているのだろう。
俺もそれは考えていたのだが、おそらくそんなことは熟練の航海士であるランファートには分かり切ったことだろうと思って、口には出さなかったのだ。
案の定、それから船は方向転換を繰り返しながらも、その針路を南向きに変更したようだった。
だが、再び、
「だめです! 相変わらず真っ直ぐにこちらに近づいて来ています!」
甲板に響く船員からの報告は、今や悲鳴のように聞こえるものだった。
「アマン。魔法でなんとかならないのか?」
アンヴェルの顔にも珍しく焦りの色が見える。
俺は彼に向かって頷くと、チヤナカラ海峡を渡った時を思い出しながら呪文を唱えた。
「トーネード・ミデタリア!」
強力な竜巻が甲板の上に巻き起こり、船の帆に大きな推進力を与える。以前よりコントロールができているから効率も良さそうだ。だが、
「積乱雲。速度が上がったようです」
船員の声に俺は唖然とした。これってもしかして追われている?
さらにはランファートからも、
「キャプテン。これ以上はマストに負担が掛かり過ぎます」
そう忠告されてしまう。確かに竜巻で船を進めるのは、非常手段にしても酷い発想かもしれない。
俺は慌ててトゥルタークを顧みるが、彼も首を振って、
「いや。いかに高い実力を持つわしらとて、さすがに嵐には……」
そういった後、考え直したように、
「だが、何もせぬわけにはいかぬようじゃな」
トゥルタークは杖を構えると、海に向かって呪文を唱えだした。
「ルカデヴィー ヴァヨ トゥーラ ヴォネドゥーロ トゥーリ ギュノ」
ゆっくりと確実に刻まれる詠唱の声に、俺はトゥルタークがこの魔法に込めようとしている膨大な魔力を感じる。
「アイシクル・マーヴェ!!」
力ある言葉に、船から真っ黒な雲に向かって海面が一気に凍りついていく。
膨大な海面を凍結させた魔法に、いったいどのくらいの魔力を使ったらこんなことができるのかと恐ろしい気さえする。
(そうか。水蒸気の供給を絶ったわけか)
一面、氷に閉ざされた海からは、もはや雲の元となる水蒸気は供給されないだろうし、氷の上で冷やされた空気は周りに向かって流れだし、上昇気流の発生を止めてくれるだろう。
(学校の授業で習った気がするけど、よくそんなこと思いつくよな)
さすがは大賢者だと、俺はわが師トゥルタークへの尊敬の念を新たにしたのだった。
だが、俺のそんな思いも一瞬のことだった。
「積乱雲。引き続き向かってきます!」
船員の声は、相変わらず嵐の接近に警鐘を鳴らし続けていた。
「これは何か魔法的なもののようじゃな。精霊使いには分からぬか?」
肩で息をしながら、トゥルタークがアグナユディテとベルティラにそう呼びかける。
どうやらトゥルタークはかなりの魔力を消費したようで、疲労が激しいように見える。
「さっきから風の精霊にも、水の精霊にも呼び掛けているのだけれど、うんともすんとも言わないの。彼らは何者かに完全に支配されているみたい」
アグナユディテに続けてベルティラも、
「精霊王でさえ何も応えを寄こそうとしない。これは完全にお手上げだな」
そう言って両手を挙げる仕草をする。いや、ある意味肝が据わっているのかもしれないが、諦めるのが俺並みに早いな。
「海の神々がお怒りだ。生贄を捧げて、お怒りを鎮めなければ」
そんな不穏な声が周りで聞こえだした。
「何を言っているんだ。俺の船でそんなことは絶対にさせないからな」
俺はそう言ってあたりを見廻すが、もともと俺は名目上の船長に過ぎない。
そんな俺の言葉に威厳などあろうはずもない。
唯一、希望が持てるのは、
「ふざけたことを言うな! 早く持ち場に戻って自分の仕事を果たせ!」
ランファートがそう言ってくれていることだろう。
だが、船員がいなくなれば船は動かせないから、彼らを排除する訳にはいかない。
それに人数は圧倒的に彼らの方が多いのだ。
ランファートの命令に従ってくれる者は多そうだが、そうでない者たちが数を頼んで、一斉に寄せられたら危険かもしれない。
生贄が選ばれるとすれば、操船に役立っていない俺たちのうちの誰かだろう。
エルフのアグナユティテや、ダークエルフのベルティラは、おそらくその候補の筆頭に挙げられそうだ。
その時、
「賢者アマン。あれを」
アリアの声に俺が彼女の視線の先に目を遣ると、そこにはいつの間にそこにいたのか、あの白いイルカの姿があった。
イルカは海面から顔を出し、俺をじっと見ている。
俺が目を合わせると、その目が青く光ったように見えた。
そして、俺の頭に女性の声が響いてきた。
(アスマット・アマン。その者の背中に乗って、私のところへいらっしゃい。歓迎しますよ)
また、このパターンか。俺はそう思った。
おそらく俺以外の者にはこの声は聞こえていないのだろう。
「俺に呼びかけるのは誰だ。女神セヤヌスか?」
俺が大きな声を出すと、案の定、周りの皆は驚いた顔を見せた。
(それは人間たちが勝手にそう呼んでいるだけ。そう呼びたければお呼びなさい。私は私以外の何者でもないわ)
女性の声はそう言うが、つまりは人間にとっての彼女は、女神セヤヌスで間違いないということだろう。
白いイルカを遣わして、乗っていた船が難破したり、漕ぎ出した海を漂流したりする者を助ける慈悲深い女神というふれ込みだったはずだが、俺たちに対しては荒ぶる海の支配者としての姿を見せたということのようだ。
「俺を呼びたければ俺だけに声を掛ければいいだろう。関係ない者を巻き込むな。この船をどうする気だ!」
俺の叫ぶような声に、だが、女神は、
(あなたが私のところへ来てくれるのなら、そんな船になど興味はないわ。好きなところへ向かいなさい)
平然とそう言い放った。
「俺がそこのイルカの背中に乗れば、船は嵐に巻き込まれないんだな」
再度、俺は念を押すが、もう女神からの返事はなかった。
だが、他に選択肢はなさそうだ。
あの嵐が女神の手によるものならば、『サンタ・アリア号』はおそらくそれによって沈められ、海に投げ出された俺は白いイルカに連れられて、彼女の許に向かうことになるのだろう。
「だめよ。アマン! そんなことはさせないわ!」
アグナユディテがそう悲痛な声を上げる。
「我が主よ。やめてくれ! 行かないでくれ」
ベルティラも泣きそうな声で俺を引き留めようとしてくれる。
「アマン。他に何か手があるはずだ。早まるな」
アンヴェルもそう言って俺に翻意を促す。だが、その言葉だけで十分だ。
俺は仲間を失う辛さを、この世界でもう何度も味わった。あんな思いはもう本当にたくさんだ。
「いや。ちょっと行ってくるだけだ。ランファート。船を島へ戻しておいてくれないか」
「キャプテン……あなたは。いえ……アイアイサー!」
ランファートはそう言って、俺に向かって最敬礼をした。
真っ黒な積乱雲がますます近づき、風が強く吹き付け、船はかなり揺れだしている。もう一刻の猶予もなさそうだ。
「アマン。待って。私も……私も行くわ」
アグナユディテがそう言って、甲板の端へと向かう俺に近づいてきた。
「ありがとう。ユディ。でも、呼ばれているのは俺だけだ。それに俺は死んだりしない。これまでだって、そうだっただろう」
自分でも完全にセリフが死亡フラグだなと思いながら、俺は彼女に笑顔を見せる。
多少、ぎこちなさはあったかも知れないが、俺にしては上できだったと思う。
俺は『レビテーション』の呪文を唱え、甲板の端から海面へと降り立った。
白いイルカが俺を背中に乗せ、海の上を滑るように走り出す。
「アマーン!」
イルカの背中に掴まり、海の上を行く俺の耳に、アグナユティテがそう叫ぶ声が聞こえたような気がした。