第百三話 白いイルカ
この世界のどこか、未だ人の訪れたことのない地に建つ神殿に、ふたつの声が響いていた。
「ねえ。本当に彼をここへ来させるつもり?」
ひとつの声は女性らしい、澄みきったものだ。
「さあ。どうしようかしら? 正直、迷っているの」
もうひとつの声も女性のものだ。だが、それは気怠く暗い、それでいて少し幼くも感じられる声だった。
「珍しいわね。あなたが迷うだなんて」
澄んだ声が響くと、それに応えて、
「だって彼は特別だもの。それは分かっているでしょう?」
今度は幼い声が響く。
「そうね。彼は私たちにとって特別な存在。でも、そうしたのはあなたでしょう?」
同意と、そして少し咎めるような言葉が投げかけられた。
「いいえ。違うわ。私がそうしたのではなく、彼がそうしたの。だってそうでしょう。お姉さまたちとは違って、私の存在は彼に依っているのですもの」
幼い声の持ち主はそう言って、もうひとつの声の咎めだてなど、意に介する様子はない。
「だから今度も、私が迷っていようとどうだろうと、来るかどうかは彼が決めること。でも、もう彼の中では答えは出ているようね」
「よくそんなことが言えるわね。彼がここへ来るように、お姉さまに手はずを整えさせたのは、あなたでしょう」
澄んだ声の持ち主は、もうひとつの声に苛立っているように続ける。
「だってお姉さまたちは勝手すぎるわ。自分でもそう思わない? お姉さまたちだけがいい思いをして、私には何もなしだなんて。そもそも私がいなければ始まらなかったことなのに」
今度は幼い声に逆に咎められ、澄んだ声が守りに回る。
「私だってあなたと同じ、誰も訪れることのない失われた淋しい世界ですもの。私の支配する地に住んでいる者なんて、お姉さまからこっそり横取りした、ほんの少しの人たちだけ」
澄んだ声が言い訳するように、少し苦しそうに響くが、幼い声は容赦なくその声に続けた。
「お姉さまはまだましよ。私なんて姿さえなかったのだから。私のことを考えてくれたのなんて彼くらい。お姉さまが彼を連れてきてと言ったとき、とても嬉しかった。だから彼は逃がさない。ずっとこの世界にいてもらうの」
そう言う幼い声は、昏さを増したように聞こえる。
「怖いわね。でも、そんなことをしたらまずいことになるって、お姉さまが言っていなかった?」
澄んだ声は今度は遠慮がちに問いかける。だが、もうひとつの声の持ち主には、それは些かも響かなかったようだ。
「ええ。そうよ。だって、起こりえないことが起きているのですもの。その代償は当然あるの。そして、お姉さまはそれを防ぐことはできない。だって、私にそうお願いしてきたのはお姉さまなのだから」
幼い声には今度は嬉しそうな響きが混ざっていた。
「お姉さまがどう考えようと、あちらの世界に具現化してしまったお姉さまには、あなたに対抗する手段はない。それができるのはあなただけですものね」
澄んだ声の持ち主はもう咎めることを諦めたのか、その言葉は、もうひとつの声に迎合するようにさえ聞こえる。
「そう。そして私は、この世界がどうなろうとどうでもいいの。だって私は存在しない存在。この世界に仮寓する泡沫のようなものですもの」
その声を最後に、神殿には静寂が訪れた。
船室で休む俺の下に船員がやってきた。
「ランファート様がキャプテンにお出でいただきたいそうです」
『サンタ・アリア号』は相変わらず、東に向かって進んでいる。女神の護りのおかげで魔物には襲われないし、俺はかなりの時間を船室でゆっくり過ごしていた。
正直、王都やカーブガーズにいたときより、ゆっくりできている気がする。
「分かった。すぐに甲板へ行くよ」
航海士ランファートが俺を呼ぶなんて珍しいなと思いながら、俺は返事をして、そのまま甲板へ向かう。
俺が甲板に行ったところで、航海に関する知識なんて皆無なのだから何の役にも立たないのだが、判断に迷うことでもあったのだろう。
そういった時は自分だけの判断で進めてしまうことなく、必ず俺なんかの意見を聞いてくれる。
ランファートは、名目上の船長でしかない俺でもきちんと立ててくれるような、男の俺でさえ惚れ惚れしてしまう、律儀な海の男なのだ。
「キャプテン。あそこをご覧ください」
甲板に上った俺はランファートが指さす先に視線を送った。
(そろそろ来るかとは思っていたが、やっぱりおいでなすったか)
『サンタ・アリア号』の先を、時々ジャンプする姿を見せながら、案内するように泳いで行くのは白いイルカだった。
(女神セヤヌスの使いか……)
あの島でその名と、白いイルカの話を聞いた時から、俺はきっとそいつに会うことになるのだろうなと思っていた気がする。
そして俺の予想どおり、そいつは俺の前に姿を現した。
やはりこの世界はRPGの世界なのだ。神の使いに導かれて新天地にたどり着くだなんて、建国神話とかにはありそうだが、実際にその御使いに会うことなんてそうそうできるはずがない。
「先ほどから、この船の先を誘うように泳いでいます。今は奴を追いかけて船を走らせていますが、このままだと予定した航路から少し北へ外れそうなので、ご判断をいただきたいと思いまして」
彼の言うとおり、白いイルカが俺たちの前を行く姿は、いかにも不自然に見える。
イルカは好奇心が強いから、船に寄ってきて一緒に泳いだりすることはあるようだが、こんな風に導くように泳ぎ続けることなんて普通ではないのではないだろうか。
俺たちがイルカについて行っているから、そう見えるだけとも思えるが、イルカは潜ってしまうこともなく、ずっと海上を行っているようだし、何より目的地があるかのように、ほぼ真っ直ぐに進んでいる。
ただ、その針路が俺たちの予定針路よりも、少し北にずれ始めているということだった。
「予定した航路と言ったって、概ね東の方向ということでランファートに決めてもらっただけじゃないか。特段、目標地点があるわけでもないし、あいつについて行ってもいいんじゃないか」
俺の出した答えにランファートは、
「アイアイサー!」
勢いよく応えて舵を操る。
島の人たちからすると、彼らや彼らの先祖が白いイルカに救われて命を拾わせてもらったのだから、正しく神の使いとして崇めるべき存在のようだ。
だが、俺たちは船が難破したわけでもなく、彼らのように奴の善意を信じていいものか分かったものではない。
そうは言っても、どうせ水か食糧を半分消費したところで島へ折り返し、補給して、再度探索をすることを何度か繰り返そうと思っていたのだ。
ランファートに言ったように、取り敢えず奴について行くのは悪い選択ではないだろう。
「白いイルカなんて、なんだか神秘的ね」
アグナユディテが船の先を行くイルカを見ながら言うと、
「いや。だけど泳ぐ姿は可愛らしいな。いいものを見せてもらったよ」
エディルナも退屈していたのだろう、甲板に姿を見せてイルカを眺めている。
だが、アリアはその姿に視線を留めて、厳しい表情を崩さなかった。
「賢者アマン。あの者からは何か強い気配が感じられます。禍々しいものとまで言ってしまっていいものなのかどうかは分かりませんが」
彼女の真剣な眼差しに俺は、
「ユディには何か分からないか?」
アグナユディテにそう聞いてみた。
それまで無邪気にイルカを見ていた彼女は、真剣な顔で改めてイルカを注視して、
「だめだわ。そう言われてみるとすこし不自然な気もする。でも、もともと海の上は水の精霊の力が強いから、それに隠されてしまっているのかも知れないけれど分からないわね」
残念そうな顔でそう言う彼女に、ベルティラが言葉をかぶせてくる。
「残念ながら私にも分からぬな。いや、水の精霊もそうだが、風の精霊の力も少し異常ではないか」
言われたアグナユディテも慌てた様子で、精霊と会話しているようだ。そして、
「確かに風の精霊が異常だわ。もしかしたら嵐が来るのかも」
少し悔しそうにベルティラに視線を送り、俺にそう言ってきた。その時、
「十一時の方角に巨大な雲の塊が見えます!」
マストの上の見張りから大きな声で報告が入り、甲板の上は急に慌ただしくなった。
「キャプテン。申し訳ありませんが退避します」
ランファートはそう言って、面舵いっぱい、白いイルカから離れ、船を大きく転回させていく。
やはり、あの白いイルカは俺たちにとっては有り難い神の使いなどではなかったようだ。
いや、神が俺に悪意を持っているのかも知れないが。