第百二話 姫の守護騎士
『女神セヤヌス』
何だかまた危険な香りのする名前が出てきたな。
(いや。エレブレス山の女神の名前かな)
そう考えた俺は彼女の姿を思い浮かべ、
「おーい、女神よ。あなたの名前はセヤヌスなのか」
そう問い掛けたのだが、何故か返事はなかった。
「アマン。いきなりどうしたんだ?」
アンヴェルがそれに驚いて、そう問い掛けてきた。
「アマン。さすがにまずいわよ」
アグナユディテも困惑気味といった様子だ。
確かに傍から見たら、これでは完全に危ない人だ。さすがに軽率だったかなと反省だ。
「いえ。ちょっとこちらの都合です。気にしないでください」
俺はそう言って誤魔化すしかなかった。せっかく友好関係が築けそうなのに、危ない奴と思われるようなことは、しない方が無難だろう。
ミリナシア姫の家臣たちに尋ねてみると、どうやらセヤヌスという女神は、噂の白いイルカを遣わして人々を魔物が跋扈する海からこの島へと導く、この島の守り神らしい。
トゥルタークに聞けば何か知っているかもしれないが、生憎、トゥルタークは船を守っていて、この場にはいない。
「白いイルカは魔物を遠ざけ、漂流する我々をこの島へと誘ってくれるのです」
ミリナシア姫の家臣によれば、この島に住む人たちは姫の祖先のジグサーマルトをはじめ、みなそうしてこの島へたどり着いた者やその子孫らしかった。
俺も女神の護りのおかげで、ランダムエンカウントなしでこの島まで航海して来たから似ている気もするが、どうも少し違和感がある。
屋敷にいる人たちからはそれ以上の話は聞けなかったので、後は船の補給など実務的な問題だ。
こうなると俺は役に立たないので、エディルナとトゥルタークと交代で、アンヴェルとベルティラに船を守ってもらうことをお願いだけして、後は浜辺でのんびりと過ごすことにした。
アンヴェルは、
「確かにそろそろエディルナと代わってやらないとな。彼女も退屈しているだろう」
すぐに納得してくれたのだが、ベルティラは、
「どうして勲功第一の私が我が主の側にいられないのだ」
と不満タラタラな様子だった。
いや、大活躍だったのは認めるけど、一度は猛毒にやられているし、少し大人しくしていることも大切だと思うぞ。
交代でやって来たトゥルタークに女神セヤヌスのことを聞いてみたが、
「聞き覚えのある気もするが、はっきりとは思い出せぬな。塔の書斎には何か資料があると思うのだが」
珍しく自信なさげだ。
そう言えば、船は大丈夫だったのだろうかと思って俺が聞くと、
「もちろん、大勢押し寄せて来たぞ。むしろ相手の主力は船を狙っていたのかも知れぬな」
平気な顔で、そう言った。
確かに俺たちは瞬間移動で姿を消してしまったから、船に逃げ込んだと思われたのかもしれない。そうなると後は船を追い払うか、沈めてしまえば、彼らからすれば問題解決だ。
「どのように戦われたのですか?」
トゥルタークが不覚を取るとは思えないが、大勢で押し寄せられると対応は面倒ではある。
「なあに。アイシクル・ストームで海を凍らせ、アイシクル・ランスでその厚い氷を次々に断ち割ってやったら、奴らは肝を冷やして降参しおったぞ。アスマットよ。まあよい。魔法は直接、相手にぶつけるだけがその使い方ではないのだ」
そう言ってにっこりと笑う可愛い少女は、だが、かなり派手に大魔法をぶちかましたようだ。きっと爽快だったのだろう、何だか満足しているようだ。
俺たちは砂浜を歩いたり、波打ち際の木陰で休んだりして、ゆっくりとした時間を過ごしていた。
これならベルティラもこちらにいても身体を休められたかも知れない。彼女には言わない方が無難だろうが。
ミリナシア姫は、そんな俺たちにずっと付き添ってくれていた。
自ら人質となっている訳でもないだろうが、まあ、俺たちはかなりやらかしたから、暴漢が襲い掛かってくるなど不測の事態もあり得る。それに備えてくれているのだろう。
彼女は年齢的にも俺より一つか二つ下くらいだろうか。くどいようだが、この世界の俺とだ。
見た目の年齢がかなり近いので、すぐに親しく話すようになった。
まあ、エディルナがいてくれたことも大きかった気がするが。
彼女が誰とでもすぐに仲良くなれるのは、一種の才能と言っていいくらいだからな。
「姫様の家はずっとこの島で、貴い血筋を守られてきたんだな。わたしには想像もできないな」
エディルナが感心したといった様子でそう言うと、ミリナシア姫は、
「私の祖先は確かに王族だったのかも知れません。でも、それはもう何百年も前のことです。
家臣たちが私のことを思ってくれているのは痛いほど分かるのですが、私の周りにいるのは小さな頃から大人ばかりで、友だちもいません。ですから、皆さんとこうしてお話しできるのがとても嬉しいのです」
そう言って少し哀しそうな顔をした。
「ですから皆さんには、私のことを姫様などと呼んでいただきたくないのです。ミリナシアとお呼びください」
姫様のお言葉ではあるが、さすがに呼び捨てはまずいだろう。俺はそう思って、
「では、ミリナシア様とお呼びします。家臣たちもいますから、その辺りが限界でしょう」
武力にものを言わせて、尊貴な姫を侮辱したと思われるのも不本意だ。それにまた、アグナユディテに偉そうだと言われるのが目に見えているからな。
「分かりました。では、私もアマン様とお呼びします。アマン様は王国大宰相なのでしょう。そのくらいの敬意は払わせてください」
ミリナシア姫は俺のことを様付けでお呼びくださるようだ。
今までそんな風に呼んでくれる人にあまり心当たりはないから、何だか新鮮だ。
大体が呼び捨てか、下手をすると「魔法使い風情」とか言われていたからな。
そう言ったミリナシア姫の顔は一瞬、輝いた様にみえたのだが、すぐにまた暗さを感じさせるものに戻ってしまう。
「先ほどエディルナさんは、私がずっと血筋を守ってきたとおっしゃってくださいましたが、私には自分の家系が呪われたものとしか思えないのです。
何百年も前からの因縁を未だに引きずって、帰る当てのないクレスタラントに今なお怨念に似た思いを持ち続けている。そんなの普通ではないとお思いになりませんか」
大人しい方だとばかり思っていたミリナシア姫が急に強い言葉で語られたので、俺は驚いた。
でも、先ほどベルティラに捕らえられた時も狼狽えたりされることなく、ご自分の意思を表された方だから、心には強いものをお持ちなのかもしれない。
今は、お付きの者も少し離れて見守っているし、俺たちは部外者だから、逆に安心してご自分のお気持ちを話してくださっている気もする。
俺の考えを肯定するように、彼女は続けて言った。
「家臣たちには言えませんし、我が儘だと分かっています。でも、もう自由になりたい、解放してほしい、そう思っているのです」
俺は『エターナル・バインド』の魔法で彼女を縛り付けてやろうかと考えたのだが、俺がそうするまでもなく、すでに彼女は祖先の怨念に縛り付けられていたようだ。
「私は自分が生まれて育ったこの島が好きなのです。見たこともないクレスタンブルグが私の居るべき場所だなんて言われても」
(うん。俺もそれは同感だな)
ある意味、俺だってそのために冥王ゼヤビスを探しているとも言える。
それにこの屋敷での彼女の家臣たちの振る舞いを見ていると、申し訳ないが、趣味の悪い王宮のカリカチュアを見せられている気がする。
あんな大人たちの中でずっと生活するなんて、俺だったらとても耐えられないだろう。
「俺も王都はそれほど好きではないな。でも、ミリナシア様はまだ若いのだから、一度や二度は王都に行ってみるのもいいと思うぞ」
俺の言葉にミリナシア姫は、
「アマン様も私と変わらない年齢でしょうに、急に年上の方のようなことをおっしゃるのですね」
そう言って、クスクスと笑ってくれた。
だが、彼女は真顔に戻ると、
「ですが、ここでは私は正統な王位の継承者だとずっと言われて来ました。その私がクレスタンブルグへ行って、問題にならないでしょうか?」
「いや。まったく問題にはならないな」
俺の即答に、ミリナシア姫は驚いたようだ。
「だってミリナシア様のご先祖が王位を争ったのは、もう五百年も前のことなんだろう。悪いけれど、ミリナシア様が王都で王位継承権を主張しても同調する人はいないから。
それに俺は仮にも王国大宰相だ。その俺の大切なお客様を問題にするような奴がいたら、そいつの方こそを問題にしてやるよ」
こんな時くらい大宰相としての権力を多少は振りかざしたって、いいだろう。普段は苦労させられているのだし。
「アマン様は私を王都へ客人として迎えてくださるのですか」
ミリナシア姫はさらに驚いたといった様子で、俺に問いかける。
「ミリナシア様さえ良ければ歓迎するよ。それに今、クレスタンブルグにいらっしゃる女王様はとてもお優しい方だから、ミリナシア様を歓迎してくださると思うよ。危害を加えたりされるはずがない」
でも、ことは王位の正統性に関わることだからな。
まさか女王様、急に厳しい為政者としての姿を見せられたりはしないよね。
「アマン様は女王様を信頼されていらっしゃるのですね。何だか羨ましいです」
ミリナシア姫は俺の言葉を信じてくださったようだ。うん。きっと大丈夫だ。女王様は信頼できる方だからな。
そんなことを話しながら、俺たちは一週間、この島で過ごした。
船員たちも久しぶりに上陸して英気を養うことができたようだ。
水や食料の補給もしっかりとして、これでまた航海を続けられそうだ。
トゥルタークは忙しそうに住民からこの島のことを聞き取ったり、周辺を探査したりしていたが、どうやらこの島には冥王ゼヤビスはいないようだった。
ゼヤビスがいるのは「未だ知られぬ地」なのだから、おそらくこの島ではないだろう。
そう言えば、浜辺で俺を魔王バセリス扱いした人たちは、どうやら魔族に襲われたボムドーの町からやって来た人たちらしい。
彼らは町から逃げ出した後、もう世界は魔王の支配下に置かれてしまうと絶望し、恐怖に駆られて海へと漕ぎ出したようだ。
そして難破してしまい、白いイルカに導かれてこの島へたどり着いた島では新参者らしかった。
もう魔王は滅んだのだが、そこは伝わっていなかったようだ。
出発の朝、俺たちは屋敷にミリナシア姫を訪ねた。
この一週間、かなり親しく話をさせていただいたので、仕方がないのだが、ここでお別れするのは寂しい気がした。
彼女も、
「アマン様。もう行ってしまわれるのですね」
名残を惜しまれるように、そうおっしゃってくださった。
「また必ず参りますから。王都にもお招きしたいですし」
俺の言葉に、彼女は少し笑顔を見せてくださり、
「そうですね。それに私は騎士を見つけましたから。寂しくはありません」
突然、そんなことをおっしゃった。
(えっ。ナイトってアンヴェルのことだよな。いつの間にそんなに親しくなったんだ)
確かにこの一週間の間に、彼も何度かこの浜辺には姿を見せているが、まさかそんなことになっていようとは。
領地を訪れた騎士とお姫様のラブロマンスなんて、よくあるお話のような気がする。
俺がついていながら、そんなことになったのならティファーナに申し訳が立たない。
アンヴェルは真面目だから、そんなことは起きないと思っていたのだが、考えてみれば、こればかりは分からないところがあるからな。
「いや。実はアンヴェルには、すでに結婚を約束した相手がいるんだ」
俺はかなり焦って、ミリナシア姫にとても大切な情報をお伝えしたのだが、彼女はきょとんとして、
「いえ。アンヴェル様のことではありません」
少し女王様に似た感じもする華やかな笑みを浮かべた。
ナイトって、てっきりアンヴェルのことだと思ったのだが、まあ何かの比喩かも知れないし、俺は深く考えないことにした。
そんな俺の横でエディルナが小声で、
「わたしがついていながら」
と頭を抱えるようにしていたが、ミリナシア姫はアンヴェルではないとおっしゃってくださっているし、エディルナが責任を感じる必要はないと思うぞ。
最初は敵対することになってしまったが、俺たちの出航を多くの人たちが見送ってくれた。
冥王ゼヤビスを求め、『サンタ・アリア号』は島を後にして、さらに東の海へと乗り出したのだった。