第九十八話 ジャイアント・オクトパス
俺たちの乗る『サンタ・アリア号』の航海は順調だ。
大陸の東端を離れ外洋に乗り出したところで、次々に魔物が襲い掛かってくるのだろうと俺たちは身構えていたのだが、そんなことは起こらず、俺は拍子抜けした思いだった。
まあ、その方がありがたいのだが。
どうやら女神の護りが俺たちを魔物の襲撃から守ってくれているようだ。
だが、航海士が言っていた「魔物がうじゃうじゃ」というのは本当らしかった。
船が進むすぐ横を以前、見たことのあるシーサーペントやシードラゴンだけでなく、巨大なサメのような魔物などが泳いでいる姿を俺は何度も目撃した。
最初はその度に船内に警戒態勢が敷かれ、何度かは俺やトゥルタークが魔法で攻撃もしたのだが、そのうちに俺たちがちょっかいを出さなければ、奴らも襲い掛かってくることはないことに気がついた。
それからは魔物に出会っても、静かにやり過ごすようになったのだ。もちろん、警戒は緩めないが。
「まさか外の海をこんなに静かに進めるだなんて。思ってもみなかったです」
航海士はそう言って驚きを隠せないようだった。
ランファートと言う名の彼は父親も船乗りだったと言った。
だが、彼の父親は彼が子どものころ、外洋へ船を漕ぎ出して戻って来なかったそうだ。
「苦労して俺や弟たちを育ててくれた母は、もう十年以上も前に他界しましたし、妻も二人目の息子を出産した直後に亡くなりました。その息子たちも、今はもう生業に励んでいます」
航海が順調で思わぬ暇を得た俺たちは、皆で彼の話を聞いていた。
「だから、もうそろそろいいかなと思っていたんです。母が嫌がっているのが分かっていたのに私が船乗りになったのも、きっと私に父と同じ想いがあったからなんでしょう。誰も見たことのない海を見てみたいという想いがね」
彼は俺の船員募集に応えた理由を、そう話してくれた。
(やっぱり責任感のある人間って、こうあるべきだよな)と、俺は思った。
為すべきことすべてを為した後で、周りに迷惑を掛けることなく、だが、断固として自分の想いを実現するのだ。
俺みたいにみんな投げ出してそのまま異世界へ行ってしまうみたいなのは、本当に無責任野郎だなと思えてくる。
でも、俺は自分の選択でそうした訳ではなく、トゥルタークに召喚されて、やむにやまれずこの世界へ来てしまったのだ。だから悪いのは俺ではなくトゥルタークなのだ。
そういって責任転嫁する考え方が、いかにも無責任な奴のやりそうなことだと気がついて、俺はまた自己嫌悪に陥ったのだが。
そうして俺たちが話していると、突然「ドーン!」と下から突き上げられるような衝撃があり、俺は椅子から転げ落ちた。
「うわっ!」、「アマンっ!」
とっさに俺の右手に座っていたアグナユディテが手を伸ばしてくれ、俺はその手に掴まったのだが、衝撃が強かったことで、それがかえって災いし、俺は床に投げ出されただけでなく彼女の下敷きにされることになってしまった。
「アマン。大丈夫?」
俺に覆いかぶさるようになっていたアグナユディテは、すぐに身を起こしてそう尋ねてくれた。その時、
「ジャイアント・オクトパスです!」
甲板にいた船員なのだろう、慌てた様子で俺たちのいる船室の扉を開け、大きな声でそう報告してくれた。
「早くしないと大変だわ!」
アグナユディテがそう言ったが、俺は、
「そう思うのなら立ち上がってくれないか。俺が動けないし」
そう言うしかなかった。
彼女は俺に馬乗りになっていたし、この体勢のままレビテーションで甲板まで移動なんてありえない。
「ご、ごめんなさい」
珍しく素直にそう言って、彼女はスッと立ち上がってくれたので俺も立ち上がろうとしたのだが、その時再び、
ドドーン!
大きな音がして船が揺れた。
俺はまた倒れそうになったが、アグナユディテが伸ばしてくれた腕に掴まって、今度はなんとか踏みとどまった。
「ふんっ。良かったではないか」
ベルティラが不機嫌そうにアグナユディテにそう言ったが、良いことなんて何もない。
それに今は緊急事態だ。
「甲板へ上がるぞ!」
俺がそう言うまでもなく、決断の早いアンヴェルはリューリットとともに甲板へ駆け上がって行っていたし、トゥルタークでさえ、すでに階段へ向かおうとしていたので、俺が一番最後になってしまったようだ。
俺は慌ててトゥルタークに続き、甲板へと向かったのだった。
『女神の護り』に頼り切り、安心していた俺たちは明らかに虚を突かれた。
揺れる船に、何度か階段の壁に身体を打ち付け、転がり落ちそうになったところを、アグナユディテやベルティラに支えてもらいながら、俺はようやく甲板へたどり着いた。
トゥルタークが平気で階段を上って行くのを見て、俺は負けた気分になったのだが、もともとエリスはサーカスの軽業師だったから、この程度はお手の物なのだろう。
俺はそう思って自分を慰めた。
甲板に上がると、確かに巨大なタコの脚がマストに絡まり、船体を締め付けているようだ。
「マズーヴォセ トリードゥ キネーセ ヌゴネ ドゥカーラ」
俺が急いで呪文を唱えると、足下に赤く輝く魔法陣が姿を現わした。
そのまま俺はマストに巻き付く巨大な脚に魔法を放つ。
「ファイア・バレット!」
大きな火炎がタコの脚に命中する。
命中した箇所で脚を焼き切られ、ジャイアント・オクトパスはシュルシュルと根本の方を引っ込めていった。これで奴にメインマストを折られることはなくなっただろう。
だが、そう思っていた俺にアグナユディテが、
「ダメよ。アマン。セイルとマストが燃えちゃうわ」
水の精霊の力で俺が放った炎の延焼を防ぎながら、そう言った。
「船の上で炎を使うことは避けてください」
航海士のランファートにも、そう注意されてしまう。
俺は二人から責められて、ちょっと涙目になってアリアを振り返った。だが、さすがにこれは弁解の余地がないと思ったのか、彼女も俺の行為を正当化するようなことは何も言ってはくれない。
いや、俺は滅多に炎の魔法は使わないのだが、相手がタコだから焼いたら美味しいかなと少しだけ思ってしまったのだ。
タコ焼きって、でも実際には粉もんなんだよな。
トゥルタークも「アイシクル・ランス」で攻撃しようとして、途中で詠唱をストップしたりしている。
熟練の彼の魔法のコントロールの精度をもってしても、船に巻き付いた魔物だけを正確に攻撃することは、かなり難しいようだ。
だが、接近戦になれば、俺たちのパーティーにはアンヴェルとリューリット、それにエディルナがいる。
アンヴェルが英雄の剣で襲い来る脚を跳ね返したかと思うと、その右では、船体に巻き付いた脚がエディルナのバスタードソードの一撃でちぎれる寸前となる。
ジャイアント・オクトパスは慌ててその脚を引っ込めたようだ。
さらに船の後方では、死角から襲い掛かろうとしていた奴の脚をリューリットがサマムラで両断する。
俺が甲板に上がった当初は船からはギシギシと嫌な音が聞こえていたが、今はそれもなくなり、奴は確実に弱っているようだ。そして、
ザバーン!
巨大なタコの本体が海面の上にその姿を現わした。その瞬間、
「ライトニング・マールニュ!!」
俺の放ったライトニング系の最強呪文が、奴の身体に突き刺さる。
名誉挽回で、この敵は最後は俺が倒すと決め、さっきから呪文を唱えて待っていたのだ。
無駄にならなくてよかった……。
俺の理不尽な怒りを込めた魔法をその身に受けて、ジャイアント・オクトパスは閃光を放つと爆散した。
だが、俺はまったく考えていなかったのだが、奴の身体には大量の墨が入っていたようで、それを振り撒いて、辺りを黒く染めながら海の底へと沈んでいった。
「あー。身体がベタベタだし真っ黒よ」
アグナユディテがそう言って半ベソをかくが、俺だって同じように真っ黒だ。
退治できたのは良かったのだが、俺たちはその後、貴重な真水を身体を洗うのに使うことになった。
そして当然、なにも考えずに奴を爆発させた俺は、非難の集中砲火を浴びることになった。
女性陣はベルティラの「ダークネス」の魔法で、無駄に大きな暗黒の球体を甲板に出現させ、その中で身体を洗っていたが、着替え終えるとさっさと立ち去ってしまった。
俺とアンヴェルは仕方なしに、その後、樽に残された水で身体を洗った。
アンヴェルは鍛え上げられた肉体を日の下にさらし、堂々とした態度で身体を拭っていたが、現代人の俺はちょっとこういうのは遠慮したかった。
最後まで下着を脱がなかった俺は、逆に船乗りたちから奇異の目で見られていたような気がするし、下着を脱いだ後も慌てて拭いたので、何だかまだ少し墨が残っているようだ。
ベルティラも気を利かせて、俺にも「ダークネス」の呪文を使ってくれればいいのにと思ったが、この世界では、男性はアンヴェルみたいに堂々としているのが普通なのだろうか。
(いや、アンヴェルはいいんだ。彫像のように立派な肉体だからな)
俺はそう思った。でも、魔法使いの俺はそこまで鍛えているわけではないから、特に彼の横に立つと、その貧弱さが余計に目立ってしまう。
(あー。早く陸地に着いて風呂に入りたい)
もうすっかりこの世界に馴染んだと思っていたのだが、やっぱり俺は日本人なのだ。
豪華客船のクルーズでもない、この世界の船の上の生活には長くは耐えられそうにない。
もちろん、元の世界でも豪華客船なんて乗ったことはないのだが。
そんな俺の願いが通じたのか、それからそれほど時間を置かず、見張りの船員の声が甲板に響いた。
「島だ! 陸地が見えるぞ」
思ったよりも早くどこかの島に到着できたようだ。
俺は陸地を発見し喜ぶ船員たちの声を聞きながら、さっきのジャイアント・オクトパスは、この島に到着する前の強制エンカウントだったのだなと思った。
普通は島への人間の接近を防ぐ守り神とか言うのかも知れないが、ここがゲームの世界だと知っている俺からしたら、強制エンカウントと考えた方がしっくりくる。
女神の護りはランダムエンカウントは防いでくれるが、さすがにストーリーの進行に関わる強制エンカウントは除外されるのだろう。
つまり、俺たちはちゃんとストーリーの流れの上にいるということだ。
まあ、レベリング専用のダンジョンにも強制エンカウントが多数あったりするから一概にそうとも言えないが、きちんと陸地も発見できているし、あながち間違ってはいないだろう。
この世界の人たちからしたら、そもそもそういう発想が間違っているのかもしれないが。
上陸の準備に大わらわの船員たちの様子を眺めながら、俺はそんなことを考えていた。