第九十七話 女神の護り
俺の本名、いや、もう元いた世界の名前と言ってもいいだろう、その名前で呼びかける者はこの世界に一人しかいない。
しかも彼女は俺がこの世界にすっかり飽きて、もう存在してほしくないと思うようになるまで待ってくれると言っていた。そう思ったらいつでも彼女を呼べばいいとも。
(いったい何故、女神が急に俺に呼び掛けるんだ)
もしかしたら、何か俺は彼女との間で交わした言葉を違えることをしでかしたのではないか、そう考えると恐ろしかった。
何しろ彼女の元の姿であるエンシェント・ドラゴン・ロードは、トゥルタークの盟約違反に一切容赦をしなかった。
彼女がそうかは分からないが、理不尽とさえ言えるあの対応が、まだ記憶に新しい俺の頭に「強制送還」、「世界の終焉」の文字が浮かぶ。
「どうしたの? アマン。顔色が真っ青よ」
「我が主よ。何かあったのか?」
動きを止めて虚空を睨み、冷や汗を流す俺に、さすがにアグナユディテとベルティラが異変に気づき、そう声を掛けてきた。
ベルティラの言葉で、俺はやはり女神の声は俺以外には聞こえていないことを理解した。
俺の耳には彼女の声がはっきりと聞こえたから、俺のすぐ側にいたベルティラに聞こえなかったはずがない。
俺は一度大きく深呼吸すると、彼女たちを安心させようと笑顔を浮かべようとした。
だが、演技が下手な俺ではぎこちない笑みがせいぜいで、それは叶わなかったようだ。
相変わらず心配そうな二人の周りに、彼女たち以外のパーティーメンバーも集まって、俺に皆の視線が集まった。
俺はエレブレス山があると思われる方を向き、王都で見た輝く女神の姿を脳裏に浮かべ、彼女と話したいと強く念じて声を出した。
「久しぶりだな。王都で会って以来、ずっと音沙汰なしだったのに。急にどうしたんだ?」
「アマン。急にどうしたんだ」
アンヴェルがそう俺に問い掛けてきたが、勘のいいアグナユディテは俺が誰と話そうとしているか分かったようだ。
人差し指を立てて唇に当て、静かにしているように伝えてくれた。
(あなたが私の庇護できる場所から離れようとしているようなので、警告を与えなければと思ったのです)
再び、女神の声が俺の頭の中に響く。そしてまた、
(どちらへ行こうというのですか?)
そう問い掛けてきた。
(これは気がつかなかったな)
俺は自分が女神と話せることに思い至らなかったことに、呆れる気がした。
だが、それは今、そう知ったからこそ思えるだけだ。そんなことは考えてもみなかったというのが実状だ。
トゥルタークにでも女神のことを話していれば、彼が気がついたかもしれないが、彼女の存在は俺がこの世界の存否を左右する存在であることに直結するため、そこを隠して、上手く説明できる自信がなかったのだ。
「庇護できる範囲って、どこのことだ?」
俺がそう問うと、女神は、
(西はクレスタラントから、チヤナカラ海峡を渡って東はカーブガーズまで。その陸の上が『ドラゴン・クレスタ』の世界すべて。あなたが一番そのことをご存じのはずです)
女神は俺が予想していたとおりの答えを述べた。
(俺って、彼女の庇護を受けていたんだな)
俺自身にそういった自覚はない。この世界では苦労ばかりさせられているような気がするからな。
だが、王都の大貴族の中には、
「高貴な血など一滴も流れておらぬ魔術師風情が、今や大公、王国大宰相か。忌々しいが奴には神、いや悪魔の加護でもあるのかもしれんな」
そう言う者もいると聞いたことがあるから、傍目にはちゃんと、そう見えていたのかもしれない。
取りあえず、俺はいきなり元いた世界へ帰されることはなさそうだ。
考えてみれば俺はあの時、女神との間で約束やら盟約やらを結んだわけではなかった。
だから違背行為を責められて、ペナルティを与えられることもないはずだ。
「冥王ゼヤビスに会いに東の海の彼方、未だ知られぬ地まで」
俺が力強くそう言葉を発すると、何となく遥か彼方のエレブレス山で、女神が息を吞んだ様な気がした。
言葉は通じるが気配などは感じられないから、まったくの俺の気のせいかもしれないが。
(何を考えているのかは分かりませんが、冥王があなたの言葉に耳を貸すことはないでしょう)
そう言う女神に俺は、
「いや。俺もこの世界には愛着があるし、ずっといたい気持ちもある。だが、いつか元の世界に戻ったときにすべてを忘れ、右も左も分からなくなっていたのでは困るんだ。だから何か上手い方法がないかと思ってね」
そう正直に目的を話した。
(私があなたをこの世界に滞在させ続けるために、あの後、どれほど苦労したか、分かっておられないようですね。いえ、それは私の側の事情でした。ですが、これ以上の譲歩を冥王から引き出すことは現実的ではないと思いますよ)
俺には今度は、女神のため息が聞こえたように思えた。
彼女も苦労していたと知って、俺は何となく女神に親近感がわく気がした。
俺も元の世界ではサラリーマン生活で、この世界でも何だかずっと、苦労をさせられてきた気がするからだろう。
まあ、彼女に敵意を抱いたりする必要がなくて良かったのだが。
(いずれにせよその程度の船で、ここから先の海へと乗り出すのは無謀すぎます。仕方がありません。私の護りをお使いなさい。船のマストに貼るのですよ)
黙っている俺が諦めないと思ったのだろうか。彼女がそう言ったかと思うと、空の上から一枚のお神札らしきものがひらひらと降って来た。
それは俺の目の前に降りてきたので、簡単に右手で掴むことができた。
朱色の印が押してあるところまで、元いた世界の神社のお神札にそっくりだ。だが、記された文字は縦に読むのか、横からなのかさえよく分からない。
無造作にお神札を掴んだ俺がそれを眺めていると、アリアが驚いた様子で俺に近寄り、震える右手で文字を上からなぞるようにしていく。
「これは神聖文字です。『この世界を訪れたすべての者を楽しませるために我は存する』そういった意味の言葉が記されています。この世界に住まう私たちへの神の恩寵を象徴する言葉です」
そう言った彼女は顔を上げると頬を紅潮させ、潤んだ瞳で俺を見て、
「賢者アマン。やはりあなたは神がこの世へ遣わされたお方。私は生涯、すべてをあなたに捧げます」
そう容易ならざる宣言を、しかも皆が見ている前で口にして、俺の前に跪いた。
お神札の言葉だって俺からすれば、「ロールプレイング・ゲーム『ドラゴン・クレスタ』をご購入いただきありがとうございます。お楽しみください」という程度の意味合いだと思うのだが、当たり前だが彼女にはそうは思えないようだ。
まあ、ゲームの制作スタッフはこの世界の造物主にも等しいのかもしれないからな。
「いや。アリア。そういうのは勘弁してくれないかな。俺はそんなに立派な人間じゃないし」
そう言っても、彼女は跪いたまま、まったく動く気配を見せない。
仕方がないので、俺はコホンと空咳をして、
「聖女アリア。あなたにはこれまでどおり、俺とともにいてほしい」
三文芝居と言っていい、ぎこちない言葉で、そう彼女に告げると、
「はい。ありがとうございます」
彼女はそう言って顔を上げる。
その表情は幸せに溢れ、だが、頬には涙が伝っていた。
俺が手を差し伸べるとアリアはその手を取り、ようやく立ち上がってくれた。
頬を染める彼女の様子に他のパーティーメンバー、アグナユディテもリューリットも、エディルナでさえ茫然とし、ベルティラに至っては口が半開きになっていた。
唯一、アンヴェルだけは「そうか。アリアはとうとう信仰の拠り所を見つけたのだな」と何やら満足そうに頷いているようだが、それでいいのか。
(ううっ。重い、重すぎる……)
それにしても、これまでずっと軽~い感じで生きてきた俺に、このシチュエーションは重すぎる。
伯爵や大公に叙爵され、大宰相に就任したときでさえ(まあ、仕方ないか)で流してきた俺だが、さすがにこれは、その比ではない気がする。
そういえばサマーニの町で、俺にも厳しく正しい道を示してくれた以前のアリアに戻ってほしいと思ったのは、ついこの間のことなのに、ますますそこから遠ざかることになっているようだ。
アリアの驚愕の宣言があってすっかり忘れていたのだが、俺と女神との会話は彼女がお神札、もとい、護りを俺に授けたことで終了したようだ。
船に戻った俺は護りのお神札をマストに貼ってくれるよう、航海士に頼んだ。
上下もアリアに見てもらったから間違いはないはずだ。
今回、女神と話した一番の収穫は、だが、この護りのお神札ではないと俺は思っていた。
もちろん、アリアの一件でもない。
冥王の存在とその居場所が間違っていないことが女神の言葉から分かったのだ。
俺が一番怖れていたのは、それがただの「おとぎ話」で、払った多大な労力がすべて無駄になることだった。
「古竜王の真の姿である女神は、冥王ゼヤビスが東の海の彼方、未だ知られぬ地に居ることを否定しませんでした」
船室で待っていたトゥルタークに俺がそう伝えると、
「当り前じゃ。アスマットよ。師の言葉を疑っておったのか? まあよい。わしの言うことが正しいことが、これで分かったであろう」
そう言葉を返してきたが、その顔は得意そうで、本気で俺が信じていなかったと不愉快に思っているわけではなさそうだ。
俺は信じていなかったというより、トゥルタークの今の姿から、おとぎ話を想像してしまっただけなのだが。
「ところで女神とは初耳じゃの。詳しく話してもらおうかの」
少し安心していた俺に、トゥルタークはそう言って説明を求め、俺は自分の部屋へ帰れなくなってしまった。
翌朝、準備を整えた『サンタ・アリア号』は、寝不足気味の俺を乗せ、誰も訪れたことのない東の海へと針路を取ったのだった。