春兎の特訓
神社でそんなことが起きている頃、裏山へ入ってた春兎は、
「ふぇ〜。疲れたぁ〜……」
そんなことを言って、草むらにコロンと寝ころんだ。
「なんだ、だらないのぞ。もうお手上げなのか?」
「もう、疲れたよぉ〜。みんな、遊ぼう遊ぼうって容赦ないも〜ん……」
寝転がった春兎の周りには、森に棲む生き物たちが何十匹も集まっていた。
「ミズハさ〜ん。この訓練、何か意味があるの〜?」
動物たちを呼び寄せたのは、ミズハと呼ばれた森の女神だ。その動物たちは春兎の身体に乗って、もっと遊んでと強請っている。
「おぬしの霊気の見え方は特殊なのだ。それを克服せねば、将来困るのはおぬし自身だぞ」
ミズハは大きな樹の下に浮かんでいた。そこから見下ろすような感じで春兎を見ている。
「うう〜。お父さんも同じことを言ってたけど、今のままじゃダメなのかなぁ?」
「そのままでは問題があるから、鍛えておるのではないか」
寝ころがる春兎の額に、リスが乗ってきた。そこに横から近づいてきた子グマが、春兎のお腹を枕にするように、コロンと転がって甘えてくる。
「何度も言うておるが、おぬしの霊感能力は、すべてにおいて高い。情報を読み取るだけなら完璧だ。だが如何せん、おぬしの霊気の見え方はかなり特殊だ。それに振りまわされんように鍛えんと、苦労するのはおぬし自身だぞ。これを一三歳になる前に身体に叩き込んでおかぬと、下手をしたら一生身につかぬのだぞ」
「そう言われてもなぁ〜」
ミズハの苦言を聞かされながら、春兎は頭に乗ったリスに指を近づけた。リスはその指の先をガシッとつかみ、鼻を近づけてクンクンしている。
「ほら。隠れた邪気探しの続きだ。おぬしから半径五メートルの中に、おぬしなら見えるはずの邪気を込めた罠を仕掛けてある。早う見つけぬと痛い目に遭うぞ」
言われる春兎の横に、ハトが近づいてきた。そのハトが、春兎の耳をついばむ。甘噛みのようなついばみ方だ。
そのハトに手を近づけると、翼を広げて腕に飛び移る。それに驚いたのか、春兎を枕にしてた子グマが慌てて飛び起きた。
「あ、この子、脇腹をケガしてる……」
春兎が羽毛に隠れて見えないはずのケガを見つけた。
「さすがにケガや病気を見つけるのは上手いな。それこそが、おぬしの見え方の賜物だが……」
ミズハが空中に浮いたまま、すうっと春兎に近づいてくる。そのミズハを睨むように見た春兎が、
「そういうミズハさんは、今日も本を読んでるだけぇ〜?」
と文句を言った。ミズハは空中に座るように浮かび、膝に開いた本を載せている。ミズハはいつも春兎を指導しながら、木陰でずっと分厚い本を読むのがいつものスタイルだ。
「アニスちゃんも……」
その木陰では、母グマが子グマを見守りながら休んでいる。アニスはその背中で本を開いて読んでいた。背丈が三〇センチほどのアニスには、身長の半分以上ある大きなものだ。アニスは妖精の世界にいた頃からの本の虫。今は物語の世界に没頭して周りが気にならないのか、瞳キラキラとを輝かせながらページをめくっている。
「気にするな。それよりも今のおぬしは霊感覚を鍛えることが優先だ。人には学び時、鍛え時がある。一三歳になるまでは体感を鍛えよ。それが過ぎたら、嫌というほど本を読んで暗記せよ。そして理由を考えるのは一五を過ぎてからで十分だ」
ミズハが本を読みながら、春兎に言って聞かせる。おしゃべりと読書が同時にできるとは、なんとも器用だ。それに、
「お母さんみたいに勉強、勉強言わないのは助かるけど……」
と零した春兎が、手を太陽の方へ伸ばして目に影を作る。
「ボクの霊の見え方、どこが違うのかなぁ?」
春兎が当然の疑問を持った。
視覚は誰もがその人にとって「当たり前」のものであるため、他の人が違って見えることを、普段はほとんど意識しない。せいぜい色が足りない方の色覚異常や、近眼を意識する程度だ。
だが、実際には物の見え方は、一人一人微妙に違っている。その原因を作っているのが脳だ。人は目から入ってきた映像を、そのまま見ているのではない。それを脳が処理したあとの映像を見ているのだ。この脳がブラックボックスであるため、他人との比較を難しくしている。
まして霊視能力という特殊能力となると、他人との比較は更に難しくなる。それでも能力を持つ人から見れば、明らかに「何かが違う」ということはわかるだろう。ただ当人である春兎にはそれが普通のために、なかなか意識できないのも当然といえば当然だ。
「おぬしがなぜ悪くないものを『悪霊』と思い、霊感の弱い者ですら危ないと感じるような強い『邪霊』『悪霊』や『漂う邪気』をどうして危険と感じないことが多いのか。その原因を探って正さねば危なっかしいからな」
「違う違うって言われるけど、そんなに違うのかなぁ?」
春兎の太陽へ伸ばしてる腕を、リスが螺旋を描きながら登っていく。その前に小鳥が先に手のひらに乗って、登ってくるリスを邪魔しようとしてきた。
「幻覚ではないのだけはわかっておるが、錯視か、共感覚か、何が理由だろうな。それとも生まれてくる時に、魂に何らかの封印を掛けられたのか?」
「封印? そんなことあるの?」
「おぬしが運命の神に選ばれたのなら、そういうこともあるだろうな」
「運命の神? それ、すごいの?」
春兎がミズハの話を聞いて、ぴょこんと起き上がった。それに驚いた小鳥が空に逃げ、手に乗っていたリスは慌てて春兎のお腹へ飛び移っている。
「それは運命の神次第だな。物語やゲエムの主人公のように大活躍する運命かもしれないし、人にはない苦労を背負い込むかもしれん」
「ええぇ〜。苦労の方はイヤだなぁ〜……」
「だから、そうならないように特訓してるのではないか。少なくとも迂闊に危険な悪霊や邪気の漂う場所へ近づかないようにせねばな」
「うん。言ってることはわかる……」
春兎がミズハから、視線を周りにいる動物たちに戻す。
「それはそうと春兎よ。まだ危険な気配がまだわからんのか?」
「わかんない。ボクにも見えてるはず……だよね?」
「それは答え合わせまで、わからんな。おぬしに見えておって邪気を感じてないなら、今日の仕掛けは大成功だ」
ミズハがそう言って、ようやく本から顔を上げた。その視線に気づいた春兎が、またミズハを見てムッとする。
「このお母さんグマってオチじゃないよね?」
「安心せい。ろくに準備もせんで、命にかかわるような特訓などせん。ただ、わたしもどんな発動の仕方をするかまでは知らぬがな」
指を差された母グマが、首を持ち上げて春兎を見た。だが、今も子グマが甘えてる様子を見て安心したのか、また身体を丸めてのんびりする。
その背中では、今もアニスが本を読んでいた。
「早うせんと、そろそろ時間切れだぞ」
「その言い方。時間が来たら罠が動くものじゃないのか……」
「おぬし。本当に邪気を感じておらぬのか? 動物たちはわかっておるみたいだぞ」
「つまり、誰もそこに近づいてないってことだね」
春兎がそう言って、集まった動物たちを見た。そのほとんどは春兎の周りにいる。あとは木陰にいるミズハ、アニス、母グマぐらいだ。
「木から何か落ちてくる……とか……」
次に上を見た。枝には何も異常がない。
「枝は折れない……よね?」
春兎の霊力は、生き物の具合いを診ることができる。枝の根元に亀裂も腐りも感じないから、枝そのものが落ちてくることはなさそうだ。
「少し目を閉じて、目からの情報を断ち切ってみよれ。人は目から入った情報を九割信じてしまうからな。だが、おぬしの目は信用できないだろ?」
「わかった。やってみる……」
春兎が素直に目を閉じた。
「……あ、あった!」
目を閉じた途端、何かの気配を感じたようだ。そして目を開けて顔を向けた、まさにその時、
「あ〜、このオチはないですよぉ〜」
いきなり読み終わったアニスが、ページをパタンと閉じて本を蹴飛ばした。
「危なっ!」
春兎は間一髪、飛んできた本を避けられた。
「ふむ。そういう発動の仕方をしたか。最後に春兎の頭に当たるようにだけ細工をしたが、まさか蹴飛ばしてくるとは……」
ミズハはそんなところに感心していた。その一方で本を蹴ったアニスは、
「うく、うくく……」
母グマの背中の上で、本を蹴った足を抱えてうずくまっている。
「うわぁ……。あれ、もしかして呪いの本じゃ……」
草むらに落ちた本から、怪しい邪気が立ち昇っていた。
「呪いではなく、読者たちの強い怨念に染まった本だ」
「怨念? いったい何の……」
「あの物語は読者をぐいぐい引き込むほど面白いそうなのだ。それなのに最後の数ページの結末がひどくて、そこまで読んできた読者たちの裏切られた感からくる激しい怨み節が積もり積もったという……」
「そこまで怨まれる終わり方って……」
春兎の想像を超えていた。
「さて、どんな内容かのう? わたしはあの怨念の禍々しさに、手を出したくないが……」
「それ以前に神さまが小説とか読んでるとこ、一度も見たことがないけど……」
春兎はミズハが物語系の本を読んでるところを見たことがなかった。それとは正反対にアニスが雪兎の手伝い以外で、小説以外の本を読まないことも知っている。
「アニス。どんな物語だった?」
「口にするのも憚る酷さです」
アニスが今もうずくまったまま、ミズハに答えた。
「アニスちゃん。あんな本、読んでたの?」
「こやつの嗜好は、もう普通の本では満足できなくなっておるからな。強い刺激を求めるあまり、今では曰く付きの本を求める、困った性癖持ちだ」
「『性癖』なんて言わないでください」
アニスが復活した。春兎の頭の上まで飛んできて、ミズハに文句を言う。そのアニスが、
「えっと……。これで今日の特訓は終わり……ですよね?」
と確認しつつ、春兎の頭に着地する。
「終わりだ。そんな早く帰りたいのか?」
「春兎さんのお守りは疲れるんですよ」
「アニスちゃん。ずっと本を読んでただけ……だよね?」
春兎がそうツッコんで、頭に乗ったアニスに白い目を向けた。
そんなことのあった日の夜。
「今日は唐揚げ丼を作ってみたわ。載せる具はここにある分だけだから、お替りからは早いもの勝ちよ」
古色堂では店と居間の間を衝立で仕切って、一家団欒が始まっていた。
今、食卓を囲んでいるのは、雪兎、加々美、春兎、心々美の家族。それとアニスとユエメイだ。
加々美からは普段見えないユエメイだが、ご飯の時だけはしっかりと姿を見せている。ご飯の用意を忘れられないためだ。そのユエメイの前にも、みんなと同じ丼が置かれている。
ちなみにアニスの前にはくだものだ。これが本来の小妖精の食事。そしてアニスの残した分は、そのあと家族がデザートとして平らげるのである。
「あ〜、女狐がいないだけで、今日はとても平和ねぇ〜」
加々美は上機嫌だった。それを、
「お母さん。口が悪いの」
と注意したのは心々美だ。加々美はいい反面教師となって、いい子に育っている。
「あ、今、赤い幕がかかったわ。雪兎。この時、何があったの?」
加々美は食事の傍ら、畳にノートパソコンを置いて今日あったお祓いの記録映像を流していた。これはケイが後学のために記録していたものだ。
「それ、前に心々美がいたからじゃないか?」
「緋袴の赤が掛かったのね。なんだ、霊障じゃないのか……」
加々美は相変わらず心霊写真や動画が好きだった。それを見た春兎が、
「お母さん、お行儀悪いよ。ボクたちにはちゃんとしろって言ってるのに……」
と注意するが、
「そうよ。こういう大人になっちゃダメよ」
加々美はすっかりダメな大人の手本になっていた。
そんな母親を、兄妹が白い目で見ている。
さて、もう一人、雪兎に山に置き去りにされたシズクは、
「それは災難だったな。まあ、飲め!」
「いえ、わたしはお酒は……」
山でお酒派の精霊たちの宴会に巻き込まれていた。