第一章 その一 始まり
第一章
その一 始まり
ああ、やってしまった。そう心の中で立花雷斗はつぶやいた。雷斗は今、自分が弁当を忘れたことに気がついた。今日は所属する部活動のため、学校に向かっていた。試合がすぐそこまで迫っていることもあり、休憩時間も短く午後まで練習があるのだ。しかし、そのことを意識しておらず、弁当はおろか財布まで家に置いてきてしまった。今から取りに帰ろうか、それとも昼に取りに帰ろうか、いっそ昼飯を食うことあきらめようか、雷斗は迷っていた。昼食とは関係ないが、竹刀と木刀だけでなく、防具まで毎回持ち運ぶのはすごくだるい。家の影響もあるのだが、それ以上に部室にそこまで置くスペースがなく、三年になるまで防具は持ち帰るという規則がある。ある程度特別扱いされている雷斗とはいえ、そこに関しては特例を認められなかった。どうしようとかメンドクサイとかいろいろ考えていたそのとき、背後から大きな声が轟いた。
「ちょっと、あんた! 待ちなさい!」
振り返るとそこには、弁当袋を持った少女が雷斗をにらんでいた。この少女は雷斗の妹、立花このはである。追いかけてきた理由は分かっているものの、あえて気づかない振りをして呼びかけを返した。
「どうした? お兄ちゃんが恋しくて、追いかけてきちゃったのか?」
そう言うと、明らかに嫌悪した顔でこのはが投げやりに答えた。
「弁当いる? いらないならもう帰るけど」
「ってスルーかよ。お弁当はいります。ありがたくいただきます」
「はあ、最初からそういえばいいじゃない」
あきれているこのはに、なんとなく日頃の感謝を伝えたくなった。
「ありがとう。いつもいつも、世話かけさせてるな。こんなんなのに面倒見てくれて、本当にありがとう」
そういうと、このはは少しの間面食らったような顔をしていた。そのあと、少し怒ったようにそっぽを向いた。
「急にどうしたの? なんか変なものでも食べた?」
いつもと違うことをしてみても、相手の反応はいつもとかわらないことに少し安心感を覚えた。このとき、自分でもなんで感謝を伝えたくなったのか雷斗には分からなかった。ふと、このはを見て気づいたことがあった。
「このはも学校に行くのか? テスト期間だし、試合の近い部活以外は練習禁止だろ?」
「テスト期間前の予選で負けるような弱小チームで悪かったわね。うちじゃ集中できないから学校で試験勉強すんのよ」
このはの入っているバスケットボール部は、元々大会で優勝を目指しているような部活動ではなく、楽しくやることを主としているところである。その上今年はくじ運が悪く、初戦で毎年ベスト4に入る実力のチームと当たってしまい、善戦するも力の差は歴然でダブルスコアで負けてしまった。試合会場が近かったこともあり雷斗もこの試合を見ていたが、やっている本人たちが満足そうに試合を終えていたから勝てなくてもいい試合だったのかと思っていた。しかしこのははこのはで思うところがあったらしく、その話に繋がりそうなことを口走ってしまうと、自虐して勝手にむくれるといったことを日課みたいにしている。
「あのー、そういうつもりではなかったのですが……。俺もいいところで負けちゃうしさ、今年は相手が悪かっただけだって」
そういうと少しにらんで不機嫌そうな顔をした。
「へー、ふーん、そう。あんたはいっつも決勝までは行ってるけどねぇ。……本気出せば大会で優勝もテストの成績トップも余裕のくせに…… このまま機嫌なおらなかったら今日の晩ご飯あんたの分だけ無いかも」
途中何を言っているのか聞き取れないくらいの小声だったが、予想以上に不穏な言葉が聞こえたのであわてて取り繕った。
「ううぇあ! ちょっと待って! 待ってください! ごめんなさい、それだけはやめてください!」
そういうとその不機嫌そうな顔を雷斗に見えないように隠した。
「こういうときって、ちゃんとした頼み方あるよね?」
その言葉にあまり考えることも無く言葉を返していた。
「晩ご飯を作らないのはやめてください。何でもしますのでお願いします」
そういった直後、やってしまったと思ったが、もはやこのはの作戦勝ちでその場は終息していた。
「ふーん、何でもかぁ…… じゃあ、お昼は私のところに来なさい。私の作ったお弁当を持ってね」
何を命令されるのか、恐怖に支配されながら待っていたが、考えていたものとは方向性が全く違ったため少し拍子抜けしてしまった。
「えっ、そんなことでいいの?」
「何? もっと凄まじいことがよかった?」
邪気をはらんだ笑顔で返されてしまっては、こたえなんてひとつしかなかった。
「いえそんなことはありません! 部活内でもボッチのわたくしにはありがたい話であります!」
そういうと先ほどまで邪気をはらんでいた笑顔は、一瞬晴れやかな様相を見せた。
「最初からそう言えばいいのよ。ていうか急がなくていいの?」
時間を見るアクションをとったものの、あまり見ずに返答した。
「うちはそこまで厳しい部活じゃないから、少しくらい遅れてもいいんだよ」
実際は少しでも遅刻をすると結構怒られるのだが、雷斗だけは遅れすぎなければ特別何も言われない。
「ふーん、そう…… でも、変に目立ちすぎない方がいいでしょ? 少し急ごう」
「それもそうか。そうだな」
そういって急ごうと歩くペースを早めたとき、雷斗の耳は何かの音を拾った。
「……や……」
きっと人の声なのだろうが、小さくて確信は持てなかった。しかし、なぜかその声のする方向に行かなくては行けない気がした。
「ごめん、ちょっと先行ってて」
そう言ったが、このはは先には行かなかった。
「どうしたの? 体調悪いの? 病院行くならついていくよ」
「いやそう言うことじゃないんだ。今声聞こえなかった? 行かなくちゃ行けない気がするんだ!」
雷斗の要領を得ない説明に、このはは混乱しながら文字分で整理していた。
「体調は大丈夫。私には何も聞こえなかった。行くなと言っても聞かないのは分かってるから、行ってもいいけど私もついてくから」
そういうこのはのことも気にせず、雷斗は声の発生源とおぼしき方向に向かって走り始めた。何か特別な理由はないが、ただ何となく行かなくてはならない気がする。その思いだけが雷斗の足をひたすら動かした。ここ最近では、これほどまでに執着して何かをやらなくてはいけないと感じたことはなかった。わけはわからないが今ここで行かないと、これから先どんなことも中途半端にしかできず、生きている意味もわからないままにただ過ごすだけになりそうな気がした。現状は似たようなものだが、これからもこのままでいいと思っている訳ではない。そう簡単に変えられる訳がないと思いつつも、現状を変えるきっかけさえあればとずっと思っていた。本当に変えられるかはわからない。実際に行ったところで、今までと何ら変わらないかもしれない。でもそれ以上に、変わろうと努力できる自分への言い訳が欲しいんだと雷斗は感じていた。だから、衝動のまま動く自らの足を止められないままでいる。四つ目の角を曲がったとき、またさっきの声が雷斗の耳に入った。さっきよりは人の声とわかるものの、なんといっているかわからない程度の音量で。
「……めて……」
その声で何となくもうすぐその場に着くような気がした。これもまた明確な理由はないが、何となくそう直感した。このとき久しぶりにこのはの様子を確認したが、ついてくるのはそれほど辛くはなさそうに見えた。チームはさほど有名でないくらいの実力とはいえ、練習で走り込みや基礎練習はしっかりやっているので体力には問題ないだろう。だが、二度目の声も聞こえてはいないようだ。聞こえたならば、すぐに雷斗に話しかけていただろう。そうこう考えながら走っているうちにもうすぐ到着すると直感が告げていた。目の前の角を曲がれば、きっと聞こえていた声の正体もわかるだろう。
「もうすぐか……」
思わずつぶやいていた。もうすぐその正体が分かる。期待と恐怖の入り交じった胸の鼓動がいやに高鳴っていた。
思い切りよく最後の角を曲がると、そこは黒い靄のようなものに包まれていた。急ブレーキをかけようとしたが、雷斗と同じペースで追いかけてきていたこのはが、雷斗の背中で前の状況もわからず雷斗の背中に突っ込んできた。黒い靄に突入するとき思わず、目をつむってしまったがそれは失敗だった。このはは思った以上に勢いを殺さず突っ込んできたようで、思い切りあごを地面で強打してしまった。その直後気を失うくらいの威力であった。
「……え。ちょっと起きなさいよ! 早く目を開けなさいってば!」
一瞬うるさいなあとは思ったけど、その直前のことを思い出し雷斗は勢いよく飛び起きた。
「声の主は? って。あ、あれ?」
しゃべりながら周りを見渡すと気を失う前と似て非なる光景が広がっていた。さっきまでいた路地と同じようだが、周りの建物はコンクリートではなくレンガを積み上げたような見た目になっているし、地面もアスファルトではなく石を敷き詰めたような見た目になっている。困惑して周りを見回している雷斗にこのははようやく周りを見たようで、雷斗以上に混乱していた。
「えっ、ちょっと待って。これどういうこと?」
このはの混乱具合に少し冷静になったものの、このよくわからない状況においていうべきことを思い出した。そのとたんその言葉を雷斗は思わず口に出していた。
「ここはどこだ?」
その問いに答えを出せるものが、その場には存在していなかった。