シーン3
「隊長、隊長。そろそろ夜明けですぜ」
「もうそんな時間です……?」
結局、前夜はその後ヨアンも呼び出しての方針会議や、状況の確認に費やし、就寝したのは随分と夜が更けてからだった。
「んじゃ、俺はもう少し寝かせてもらうんで。ああ、眠みぃ」
「お疲れ様ですー」
今は最後の当直交代の時間だ。この時刻にもなれば所々目を覚ましている者もいるが、武具が擦れ合う音や、焚火の爆ぜる音ですら、遠く響く程の静けさに包まれている。
日の昇る前の早朝は冷える。身震いをしてルリーナは毛布の前を掻き合わせた。吐く息も白い。
「あ、隊長おはようございます」
「おはようございますー。いやー冷えますね」
その通りで、と付近を流れる川から水を取ってきたところか、水に満ちたバケツを持ったリョーが答える。これから食事を作る所だろうか。
そう思っていたら、顔を洗うのに、と桶に水を汲んだ。中々に気が利く。冷たい水で顔を洗えば、眠気も覚めてくる。
「どうです? 戦場には慣れましたか?」
「いやぁ、昨日は生きた心地がしませんでしたが」
騎士に追い回される恐怖を思いだしたか、一瞬肩を震わせてリョーは若干引き攣った笑みを浮かべる。
流石に昨日の様な事はそうそうないだろう。半ば賭けのような手に出たが、普通ならば避けている状況だ。
「まぁ、少なくとも今回の戦闘では昨日の様な事にはならないと思いますが」
「そうであることを祈りますよ……」
実際、傭兵隊からも数人が亡くなっている事だし、と、共同坑を見て微妙な表情になる。
それほど長く過ごした訳ではないにせよ、知り合いが居なくなるのは応えているようだ。
「ま、深く考えないことですよー」
そういえば、リョーは別に傭兵をしていた訳でも、農村で暮らしていた訳でもないのだったか。
大陸では比較的、良い環境で過ごしていたようである。どうしてこんなところに居るのか、は余計な話だろう。
食事を作りに行くリョーに別れを告げ、ルリーナは騎馬の元に向かった。戦利品として得た黒鹿毛の馬はよっぽど疲れていたのか、地面に寝転がっている。
馬は普通、立ったまま寝るものである。人間ほど長く眠る必要もない。ちょちょい、と鼻面をつついてやると目を開いてのっそりと立ち上がる。
体についた草や土を払って櫛を当ててやると、あくびをして見せた。
「あなたにも名前をつけなくてはいけませんかねー」
ふんふん、と鼻を鳴らす馬の首を撫でながら、たてがみを整えてやる。
やはり、騎士の乗っていた馬だけあって、よく躾けられている。鞍を乗せて腹帯を締めても、特に気にした様子はみせなかった。
「よっと」
高い背中に何とか飛び上がって、ルリーナは手綱を握る。空を見上げれば、空と地の際は青く明るんでいた。
馬腹に脚を当てると、ぐん、と力強く歩き出す。体が大きいだけに、その背の揺れも、スリーピー達ポニーとは大違いである。
軽く慣らしながら、前線に立つ当直の兵達に軽く敬礼を投げていく。当直らは一瞬躊躇ったように見えたが、敬礼をして見せた。
エセルフリーダの隊からして見れば、ルリーナの扱いには戸惑う所だろう。まぁ、領主の知り合い、というだけで旦那、という扱いではあったが。
前線の兵ら、農民ら、民兵らは単純明快で良い。ここに騎士らが居れば、調子に乗っているとでも文句の一つは言われただろう。
「相手方も、まだまだやる気みたいですねぇ……」
竪琴王国側の陣は相変わらず兵を並べて、煌々と篝火で照らしている。
その数はこちら側の陣営に並んだ兵よりも尚多く、戦力を誇示しているようにも見える。
しかし、それは下がり続ける士気を維持するためではないだろうか。或いは押されている状況に不安を持っているのかもしれない。
ルリーナは小高くなった丘から見下ろして、敵陣を眺める。しかしながら、敵の真意は勿論うかがえない。想像をしたところで、彼我は全くの別物なのだ。
こういう時に相手の気持ちになって、などと考えると失敗をすることが多い。人間は、自分の都合が良いように考えるのが常である。
それを互いにしていれば、手段と結果が食い違うのは当然というわけだ。
時に数が少ない方が多い方を打ち破り、机上で行われるような理知的で美しい戦争というのは往々にして発生し得ない。
「気合だー、気合がすべてだー、ってマッチョも居ますがね」
ふと、ルリーナは一人の男を思い出した。口の端を苦笑の形にゆがめる。
かつて所属していた傭兵隊の長がそんな者だった。訓練、訓練また訓練。勝利か死かのスローガン。
確かに効果的ではある。訓練それ自体に意味があると言うよりは、あれだけ辛い事をしたのだから、負ける訳はない。という精神面での効果を期待している。
そして、撤退さえしなければ、確かに最終的に勝利を得ることはできる局面がある。数に差があったとしても、全員が全員、戦闘に参加するわけではない。
撤退を行えば、追撃で更なる血が流れる。勝利を得れば勿論それが一番、追撃出来ない程の痛手を与えられればそれもよし。
結果的に、初期の出血が多い方が、最終的な出血が減る場合もある訳だ。この考え方自体は、ルリーナにも影響を与えている。
「ま、そんな事、下っ端は知らないですけれど」
その傭兵隊長は、訓練の厳しさにおいて凄まじい勢いで恨まれていたし、しかし同時に戦場での頼りになる姿を尊敬されていた。
いかにもむさくるしくはあったが、その実、よく考えられていた。そのことに気付いたのは、その隊を抜けた後ではあったが。
「こんなことを考える、という事はまだまだ、ですね」
馬の手綱を引いて、自陣に引き返す。もう少し、上手くできたのではないか。
戦となれば、被害が出るのは避けられない。それが多いか少ないかでしかない。
しかし、もっと被害を少なくすることはできなかったのか。自身の指揮に問題はなかったか。鞍上では考えることが多い。
「切り替えて、行きましょうかね」
脚を馬腹にあてて、速歩で走らせる。すぐに駈歩。
空を見れば、もう全体が深い青に彩られている。地平線は白ずみ、草の露は陽射しに煌めく。
僅かに水気を含んだひんやりとした風が頬を撫でていく。実に気分が良い。今日も、また戦が始まる。
そうすれば、考えることは減るだろう。