シーン3
「ここですかね」
ルリーナは一つの看板を見上げる。
獅子の絵が彫り出されたそれは、随分と長い間そこに掛けられていたのか、多少色褪せてはいたものの、たてがみの部分に金箔が施されているのが見えた。
入口は街路から一段下がった位置に有り、注意して見ないと素通りしてしまいそうな、静かな雰囲気を漂わせている。
重い木の扉を押してやると、油がしっかり注されているのか軋む音一つなく開く。
中は昼尚暗い広間になっていた。
暗いながらも、如何にも荒くれ者といった風情の男達が集まり、中々な盛況ぶりである。
「こんにちは~」
「いらっしゃーい」
木のカウンターの向こうから、おそらく女将だろう。恰幅の良い女性が声を懸ける。
肉の焼けるなんとも言えない芳香を感じながら、ルリーナはそこに腰かけた。
「蜂蜜酒を一杯お願いしますー」
「あいよ」
女将はぱっとルリーナの足下を見ると、蜂蜜酒に満たされた木の杯を出す。
かっこん、と良い音をならして置かれたそれに、ルリーナは多少の色を付けて銀貨を渡した。
「ありがとさん」
「いいえ~」
羽振りの良い客に、女将もほくほく顔になる。
杯を傾けると、ハーブの効いた甘い酒が疲れた体に染み入るようだった。
「お嬢さん……いや、あんたも傭兵なのかい?」
腰に目を留めた女将が尋ねる。
「ええ、そんなものです~。こちらの宿をお勧めされて」
「ほう、果物屋の?」
「そうですそうです」
「しかし、女だてらに良くやるねぇ」
「こっちでは実力があれば関係ないと伺いましたので~」
「そりゃそうだけどさ」
すっかり長話モードに入った女将がカウンターに肘をついて話し始める。
「あたしもさ、昔は傭兵団で洗濯婦やってたのさ」
「洗濯婦ですか、中々大変だと伺いますけれども」
「大変なんてもんじゃないよ、男どもの泥やら血やらで汚れた服を洗ったり、飯をつくったりさ」
「ほうほう」
「それに荷馬みたいに酷く重い物を持たされるんだ。御陰様で乙女の細腕がこんなんだよ」
袖を捲って逞しい二の腕をを見せつける女将。
触ってみれば、確かに鋼のような筋肉だった。
「ほほぅ、これはなかなか」
「だろう? そこで旦那を見つけて、引退するってんで店を構えたんだ」
「あれ? でも看板は随分と古いような?」
「その店が上手くいかなくてね、困ってる時にここの前店主さんに声掛けてもらったんだよ」
「ああ、成程」
「成程、って何さね。うまく行かないのが当たり前みたいじゃないか」
女将は快活に笑うと冗談だ、とルリーナの背中を叩く。
「いたた、痛いですよ~」
そんな事をやっていると扉が開いて、大荷物を抱えた一人の娘が入ってくる。
「ただいま戻りました」
「おう、お帰り」
どっこいしょ、とその娘は袋をカウンターに置く。ごろりとタマネギが転がった。
カウンターから落ちたそれを、ルリーナが宙でつかみ取る。
「おっとと、どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
歳の程は十台後半、と言った所だろうか、妙齢と言える娘だった。
「あたしの娘でさ、マリーってんだ」
「この酒場で働いています、マリーと申します」
「これはこれはご丁寧にー、私はルリーナと……」
「おう、マリーじゃねーか!」
ルリーナの挨拶を遮るように、男の声が響いた。
むっとしてそちらを向くと、昼間から酔っぱらっているのか、赤ら顔の貧相な体つきの男がカウンターに歩み寄ってくる所だ。
「よう、マリー。今日も変わらず美人さんだなぁ」
「ちっ」
如何にもな酔っぱらいの風情で男がマリーを見る。
そのべたつくような視線が気持ち悪くて、ルリーナは隠しもせずに舌打ちをした。
「おお? 嬢ちゃんも別嬪さんじゃないか」
「アリガトウゴザイマス」
棒読みで応えつつ、ちらりとマリーの方を見れば困ったような愛想笑いが目に映った。
「なぁ、嬢ちゃんら良かったら一緒に飲まねぇか? 金なら出すぜ」
「いやー、見ず知らずの人におごられるのは気が引けますので~」
女将を見ると、困ったものだ、という反応。
他の客も、微妙に居心地の悪い様子だが、誰も立ち上がろうとはしなかった。
男に視線を戻すと、もしかしたら地元の名士の生まれなのかもしれない。
金の指輪がその節くれだった指に嵌り、蓄えられた髭も、整えられているように見える。
顔もそれほど悪くは無いだろう。赤ら顔と、粘つく視線で全て台無しになっているが。
「そんな連れないこと言わずにさぁ」
そう言って腰に回して来ようとした手を叩き落とす。
「気安く触ろうとしてんじゃねぇですよ」
「あぁ?」
不穏な空気を感じ取ったか、数人の男がそっとジョッキを抱えて壁際に寄る。
その男達の顔には見覚えが有った。
同じ船に乗っていた男達だ。
「終わったな」
「あぁ、あの嬢ちゃんに絡んじまったらな」
「どっちが勝つか賭けるか?」
「いや、賭けにもならんだろ」
「海に叩き落されたあいつ、生きてるかなぁ……」
「まだ陸地は見えていたからな……」
こそこそと話している声は、酔っぱらいの男には聞こえてはいない。
「俺の相手をしてくれれば、礼は弾むぜぇ?」
その下卑た言葉にそろそろ限界が近付いてきていた。
女将を見れば諦めのポーズ、マリーを見ると申し訳なさそうな表情をしていた。
「ふむ、御婦人にこんな顔をさせるのは駄目ですね……」
ぼそっとルリーナは呟く。
「なんだって?」
「良いでしょう、相手してあげます」
「そうかい!」
伸ばしてきた男の手首を掴むと、ルリーナは椅子を蹴って立ち上がった。
そのまま足を払ってやる。
前のめりになっていた男の体は、面白いように簡単に地面に叩きつけられた。
ぐぇっ、と蛙のような声を上げて地面にへばりつく。
マリーは口に手を当てて、驚きの余り声もでない様子。
女将は慣れっこなのか『何も見てませんよー』のポーズだ。
壁際の男達が『ああ、やっぱり』と言わんばかりの微妙な温度の笑顔になる。
ルリーナは広間の中央に二、三歩出て、他の客に優雅な一礼をする。
「いいぞー、もっとやれー!」
「スカっとするねー!」
「ひゅーひゅー!」
「やっちまえー!」
唖然としていた客から応援の声が湧きあがる。
ルリーナはそれに対して艶然と微笑み返して見せた。
「野郎……なにしやがる!」
「私は野郎じゃなくて淑女ですよ~」
倒れたショックからようやく立ち直った男が顔を拭いながら立ち上がった。
「ざっけんじゃねーぞ!」
男が鉄環に通しただけで提げていた剣を抜く。
細かい装飾の施されたそれは、中々に良い剣に見えた。
鞘走りの音に、瞬間酒場の空気が冷える。
「丁度、船旅で運動不足だったんですよ~、相手してあげます」
皆さんは離れていてくださいね。と付け足してルリーナは鞘を払った。
「負けんなよー!」
「俺は嬢ちゃんに賭けるぜー!」
「おう、俺もだ!」
「あいつ……無茶しやがって……」
「殺すなよー!」
ルリーナの言葉に再び観客が沸く。
自主的に机が壁に寄せられ、即席のステージになったそこで、ルリーナは軽く調子を確かめるように手首を回して見せた。
先の丸まった、斬撃に特化した幅広の刀身が、熱く高まった空気に晒される。
「このアマァ!!」
「これでも生まれは悪くないのですが~」
手首を回した調子のまま、横殴りに振られた男の剣に、剣を合わせる。
男も全く心得が無いようではなかった。
打ち払われた勢いのまま剣を回し、即座に切り返す。
だが如何せん、頭に血が上っているようだ。
ルリーナはそのまま数合、大雑把な攻撃をいなし続ける。
縦横無尽に刃を振るうその姿は、さながら舞踏のようだ。
撃ち合わされた鋼鉄が身の凍るような音を奏で、火花が仄暗い酒場を照らす。
誰もが固唾を飲んでその姿を見つめていた。
「こんなものですか~?」
「くそ!」
パッと弾かれたように男が一歩引く。
ルリーナはわざとその誘いに乗った。
間合いを開いた男が撓めた腕から鋭い突きを放つ。
マリーがはっと息を飲んだ。
ルリーナに深く刺さったかのように見えた剣は、伸びきる前にその根元から叩き落とされていた。
その勢いのまま、刀身の平で男の横っ面を張る。
重い打撃を受けた男は、そのまま倒れ込んだ。
「今の突きは、まぁまぁでしたね」
溜息一つ、ルリーナは飄々と言うと剣を鞘に納めた。
女将が男に駆け寄り、息を確かめる。
男に意識はない物の、胸が呼吸で上下している。
「生きてるね」
「うぉおおおおお!」
女将の言葉を境に堰を切ったように歓声の声が上がる。
「嬢ちゃん、いや、姐さんすげえな!」
「姐さん、惚れやしたぜ!」
「よくやってくれたぜ!」
「これは飲まなきゃな!」
「畜生、やると思ってたぜ!」
やいのやいのと騒ぐ中、女将が男の剣と財布の革袋を取って持ってくる。
「身ぐるみ剥ぐのは勘弁してやってもらえるかい? こう見えてこいつ結構なボンボンでさ」
「そうですね~」
ルリーナは唇の下に指を当てて考え込む。
「じゃあ、そのお財布から、皆に一杯ずつ奢ってあげて下さい。迷惑料です」
後は返して……と言いかけたところで更なる歓声が上がる。
喧嘩に負ければ身ぐるみを剥がされても文句は言えない世界だ。
しかも先に剣を抜いて、である。
「すげえな姐さん!」
「流石っす!」
「ひゅーひゅー!」
「只者じゃねーと思ってたんスよ!」
ルリーナは揉みくちゃにされた上に胴上げまでされそうになって、微妙な苦笑を零した。
まぁ、不埒な事を考えるような者もいないし、悪い気はしない。
「ほらほら! 皆さん席に戻ってください!」
「応!」
流石に胴上げは固辞して、団子になった男達を解散させる。
倒れていた男はいつの間にか居なくなっていた。
目が覚めて、居づらくなったのだろう。
男達が席の場所を戻し、女将と娘が走り回って酒を配る。
「それでは、お手を拝借ー!」
「それ違いますぜ!」
「失礼、ご唱和ねがいますー!」
酒の行き渡った頃を見計らって乾杯の声を上げる。
「かんぱーい!」
木のジョッキがあちらこちらでぶつかり、賑やかな音を立てた。
そこかしこで話し声が響き、日が陰り始め、蝋燭の灯りを灯した店内は心地よい喧騒に溢れる。
「その、ありがとうございます」
「いいですよー、寧ろすみません」
ようやく仕事が落ち着いたマリーが、頭を下げようとするのを押しとどめる。
「どうして謝られるのですか?」
「ここで一度懲らしめてやったところで、私はすぐにどこかに行ってしまいますからね~」
根本的な解決にはならないし、それどころか面倒事に巻き込まれるかもしれない。
あまり賢い手段とは言えなかった。
「それでも、嬉しかったですよ?」
「いえいえ、自分の為ですから~」
マリーに手を取られ、ルリーナは恥ずかしまぎれに言い訳をする。
水仕事で荒れた手であったが、とても温かい手だった。
「そういえばルリーナさんは御幾つなのですか?」
「ルル、で良いですよ。十六です」
「あら、やっぱり私よりも三つも下だったのね……」
「歳とって見えます?」
「あ、ごめんなさい。あれだけ強いからつい」
「ふふっ」
マリーの本当に申し訳なさそうな顔に、思わず笑いが零れる。
その笑顔は、歳相応のものだった。