シーン6
ルリーナの説明にベアトリスはいまいち釈然としないままにも取り敢えずの納得を得た。
アイラは椅子に座ると、地面に着かない足をぷらぷらと振っている。
取り敢えず蜂蜜酒と食事、と言って銀貨を握らせたところで、戻っていた下男が外に走っていく。
今回は出ていくことを免れた酒場の亭主だったが、ベアトリスに押されて厨房に追いやられていった。
「お姉ちゃんは、どうして逃げてたか聞かないの?」
「ええ、大体想像はつきますしー」
言いたくなければ、言わなくてもよい、とルリーナが言うとアイラはあからさまにほっとした息をついた。
「でも、悪戯はほどほどにしないと駄目ですよ?」
「むー、お姉ちゃんもそんな事言う」
だって仕様がないじゃない。暇なのだもの。
そう嘯いてアイラは机に伸びる。
「ま、多少の息抜きは大事ですからね」
「でしょでしょ!」
ぴょん、と跳ね起きて腕を振り上げる。実に表情豊かで見ていて飽きない。
下男が置いていった薄めた蜂蜜酒を飲むと、深く息を吐いた。
厨房からは肉を煮る香りが漂ってくる。
「あれ? 隊長お帰りでやしたか」
「娘さんですかい?」
「そんな訳ないでしょう……私を幾つだと思っているんです?」
食事の匂いに釣られて降りてきた傭兵達が口々にそんな事を言う。
「おう、そんな若い娘さんを連れ込んで……」
「その先言ったら叩き切りますよ」
何か下らない事を言おうとしたカメがすすっ、と数歩下がる。
「あっ、そういえばカメさんもトーナメント出るんですね」
「ああ、俺以外にも数人出ますぜ」
その実、ルリーナは一人一人の名前を憶えていなかった。
カメと話していると、きゅっ、とアイラが袖を握る。
どうやら人見知りしているような様子で、ルリーナの後ろに隠れた。
「ほらほら、恐いおじさんはあっち行ってください」
「恐い……おじさん……」
しっしっ、と追い払われ、離れていく背中には若干の悲しみが負われている気がした。
「はいはい、食事できたわよ」
「おおー、今日は何です?」
「燻製肉とキャベツを煮たもの、よ」
どん、と置かれた木の大皿にはごろりとした、脂が湧き出る桃色の豚の燻製肉と、千切りにされたキャベツが湯気を立てる。
机に置かれたパンは、今朝焼かれたばかりだろう、小麦の芳醇な香りを漂わせていた。
「わ、すっごい」
「豪快な料理ですねー」
どうやって食べるのかしら? と首を傾げたアイラの横で、ルリーナはパンをちぎると、それで柔らかくなったキャベツと燻製肉を掬う。
口に入れれば、まろやかな酸味とがつんとした塩味、発酵したキャベツと燻製の香りが広がった。
「うん、美味しい」
それを見たアイラが真似をして食べる。うんうん、と頷いて見せた。
辛子が有れば尚良いのだけれど、と思うが、それは贅沢な悩みだ。
アイラとルリーナは旺盛な食欲で食事を平らげていく。
寧ろ周りの傭兵が呆気にとられるくらいの勢いだった。
「ふー、満腹です」
「まんぷくー」
食後に出された林檎まで食べ、二人は椅子に体を預けて満足気な溜息をつく。
はしゃぎすぎて疲れたのか、アイラはくしくし、と目をこすった。
傭兵達は午睡の為に部屋に戻ったり、外に繰り出していったりと思い思いに散って行った。
酒場にはアイラが食器を片づける音だけが響き、昼下がりの、緩んだとした空気が流れている。
「眠いのですか?」
「うん、すこし……」
と、言いながらもこっくりこっくりと船を漕ぎ始めている。
「ふふ、寝てもいいのですよ?」
「うーん、もったいない、気がするのだけれど……」
ぱたん、と肩に頭を預けるように寝入ったアイラに微笑みを向けて、ルリーナは扉の方を向く。
それほど時を待たずして、そっと音をたてないように一人の男が酒場に入ってきた。
それに気づいたベアトリスが声を上げようとするのを、その男は手で制する。
「どうも、座ったまま失礼しますー」
「いえいえ、お気になさらず」
その男は、白い髪を後ろに撫でつけ、温厚そうな顔つきをした……アイラを追いかけていた老人だ。
「お嬢様がお世話になったようで」
「すみませんね、何だか」
「いえいえ、お嬢様もお楽しみの御様子でしたから」
勿論、と老人は腰に提げた、立派な拵えの剣に手を当てて付け加える。
「害意が有るようでしたら、それなりの対応をさせていただくつもりではありましたが」
「あら、奇遇ですね。私もそのつもりでした」
にやり、と互いに笑う。
うん、と声を上げて体を動かしたアイラを見て、二人そろって口をつぐんだ。
しばらくして声を低めて話し出す。
「……それで、あなたが保護者、ですか?」
「ええ、そんな物です。詳しい事は言えませんが……」
この事はご内密に、但しこちらも言及しないから、と老人は銀貨の入った袋を取り出す。
「いえいえ、それは受け取れませんよー」
「食事代、とでも思って下さい」
これ以上に固辞すれば、逆に失礼という物だろう。
渋々、と受け取ると、異様にずっしりとした物だった。
「えーっと、もしかして結構危ない話でした?」
「おそらく、想像はついていたかと思いますが……」
ですよねー、とルリーナは微妙な笑みを浮かべる。
一人の為に誂えたようなドレス、手入れの行き届いた髪、すべすべの手指。
いずれも、彼女の身分を表す物だ。
そして、優秀な家臣、だろうか。見失った振りをしつつ、アイラ達の後を尾けていたのを、ルリーナは気付いていた。
逆に、彼もまた、気付かれていることは知っていたようだ。
「ご婦人はトーナメント出られるのですかな?」
「ええ、そのつもりですー」
「では、御武運を祈っております」
それだけ言うと老人は、そっとアイラを背に担ぐ。
「ではまた」
「ええ、また」
「ふぁ……ドミニク? あ、おねえちゃん……」
「またね」
「うん……ばいばい……」
ルリーナは寝ぼけたままのアイラに手を振る。アイラもそれを受けて手を振った。
そのまま老人の背中で再び寝息をたてはじめる。
アイラを追っていたもう一人、異様に立派な鎧の兵が扉を開けて待っていた。
そっと扉が閉じられるのまで見送ると、ルリーナは一つ伸びをした。
「……何だったの?」
「んー、忘れた方が良い事かもしれませんねー」
「そう……」
後に残されたのは呆気にとられたままのベアトリスと、満足気なルリーナだけだった。