シーン1
かたかたと馬車の車輪が回る音が響いていた。
それに随伴する者の土を踏む足音がばらばらと続く。
時に談笑しながらのんびりと歩く男達の手には武器が携えられている。
点々と雲が浮かぶ空からは太陽の光が降り注ぎ、武具がそれをぎらりと反射していた。
青々とした草の海原の中を進む馬車の御者台では、赤い服の少女が顔に帽子を乗せて、背もたれに反り返るように体を預けている。
「大将、異常はありやせんぜ」
「んぁ、りょうかいでーす」
馬車に近づいた男が話しかけると、少女は眠たそうな声で応じる。
顔に乗せた帽子をずらすとその鳶色の瞳が覗いた。
寝ぼけまなこを擦るとうん、と伸びをする。
慎ましやかな身体に細い腕、小柄な彼女はこの隊列の中で異質な存在だった。
「いやー、平和なものですねぇ」
「それが当たり前だと思いますがね」
御者台で二頭立て馬車の手綱を握るのは両手剣を携えた壮齢の男だ。
背筋の伸びた姿勢に隙のない雰囲気を感じさせる。
「チョーさん、御者、交代します?」
「いやぁ、隊長が手綱を握るのもおかしな話でしょう」
「えー、別に良いじゃないですかー」
歩くたびに揺れる馬の尻尾を目で追いかけながら、ぱたぱたと足を振る姿は駄々をこねる子供そのものであったが、その実、彼女こそがこの傭兵隊を率いる主なのである。
少女の名をルリーナと言う。元貴族にして、傭兵達もまだ知らない部分の多い不思議な少女だった。
解っている事と言えば、戦慣れをしており、女好きで、よく食べる。それくらいの事だ。
今もまた、ルリーナは懐から二つの胡桃を出していた。
握りしめると、ぱきっと良い音がして殻が割れる。
「チョーさんも食べますー?」
「……前々から思っていたのですが、よく食べますな」
「んー? そうですかねー」
チョーは若干呆れたように彼女を見る。
暇さえあれば何かを口に入れている気がするのだが、彼女の細い体のどこにそれが行くのだろうか。
よく食べる割に貧相だ、と言った男をルリーナが見事な笑顔のまま投げていたのは記憶に新しい。
勿論、体の一部の話だ。彼女にその手の話題は鬼門だと傭兵達の間では暗黙の了解となっている。
「しかし、こんな仕事でよかったのですかい?」
「まぁ、移動ついでに何もないのは、なんか悔しいですからー」
「そんなもんですかねぇ……」
後ろを振り返れば、葡萄酒の樽が馬車の荷台に満載されていた。
深き森の街から広大なる平原の街まで積み荷を運ぶのが、今回の傭兵隊の仕事だった。
それは隊商の定期便を逃した大陸産の葡萄酒だったが、護衛の特権でちょいとちょろまかしたところ、妙に酸っぱい一品だった。
いくら海を渡ってきたとはいえ安物に違いなく、これほど仰々しい護衛が必要だとはとても思えない。
事実、その報酬額は雀の涙程度で、新たに用意した馬車の分も補填出来ない程度だった。
葡萄酒の味と共に銀貨の入ったとても軽い袋を手にして、珍しくルリーナは渋い顔を見せていた。
このお嬢様はどちらかと言うと葡萄酒の味にご不満なのだろうが。とはカメの一言だ。
傭兵達はお互いの過去を知らない代わりに、現在では随分と打ち解け始めている。
規律には厳しい隊だったが、それ故に寧ろ、傭兵達は結束を強めていた。
「コウさん達もすっかり馴染みましたね~」
「コウ……? ああ、元盗賊の」
先ほど、ルリーナに異常なしの報告を行ったのも彼だった。
今も数人を引き連れ、馬車に先行して道を確かめている。
「奴も中々、働きますな」
「ですね~」
ルリーナは胡桃の殻を捨てると、あくびを噛み殺した。
懐から硝子細工を取り出して日に透かしてみたりする。
目に見えるのは空、雲、平原、平原、更に平原、森、時々小川。
夏の日差しを浴びようと、相争って高く伸びる草花が風に揺れる様は実に豊かな美しさを湛えていたが、数日走り続けていれば飽きもするだろう。
馬車を曳くスリーピーとスケアリーの二頭も心なしか飽き飽きしているように見える。
白黒斑のスケアリーは始めこそスリーピーにもびくびくとしていたが、我関せずな彼の態度にすっかりと慣れきってしまった。
相変わらず眠そうに歩くスリーピーと比較して、辺りをきょろきょろと見渡したり、スリーピーに首を寄せてじゃれついたりと、寧ろ好奇心が旺盛なのかも知れなかった。
いまもスリーピーに絡みに行って適当にあしらわれていた。
ルリーナはそれを見て微笑む。
「あとどれくらいですかねー」
「そうですな、今日中には着くかと思いますが」
旅程の消化は実に順調に進んでいた。当初の予定よりも早いくらいだ。
道々の安全と状況は斥候たちが確認するので、歩くだけの主力部隊は実に楽な物だった。
「あら? あれは……」
平原の向こうに何かがうぞうぞと動くのが見えた。
何かの軍勢のようにも見えたが、斥候が戻ってこない事を考えれば問題は無いのだろう。
歩を進めるうち、それが何者かはすぐに知れた。
「羊、ですな」
「わー! もこもこしてますよ!」
一面緑の草原に、茶色とも白ともつかないもこもこ毛皮の群れが歩いている。
草を食み、群れから離れようとすれば牧羊犬が追いかけて連れ戻す。
それを街道の端から眺めているのは羊飼いだ。
羊飼いの象徴たる長い外套こそ着ていなかったものの、羽飾りのついたつばの狭い帽子と、手に持つ長く先の曲がった杖は羊飼いの物で間違いない。
身に着けたベストの、沢山のボタンが陽光に煌めく。
傭兵を一顧だにもせずに羊を見守る彼を見送った後も、街に近づくにつれて同じような羊の群れを幾つも見かけた。
順調に進んでいた隊列が立ち止まったのは、そんな時だった。
「……広大なる平原の街は、羊毛で栄える街なんですぜ」
顎に手を当て、考え込むようにそう言ったのはショーだった。
「へー、そうなんですかー」
ルリーナはぼんやりと言葉を返した。
目の前には、羊の河が流れている。
「いやぁ、申し訳ねぇですだ」
「いえいえー、お気になさらずー」
隊列が立ち止まって、そろそろ四半刻にもなるだろうか。
道を横切って、羊の群れが大移動をしていた。
牧羊犬と羊飼いが必死に追い立てているが、暫く流れは止まりそうにない。
「容赦してくだせぇ」
「仕方ないですよー。羊のすることですからー」
羊飼いも冷や汗をかいている。
強面の傭兵達の行軍を遮ったのでは、何をされるか解ったものではない。
必死にもなろうものだ。
「街まではあとどれくらいですー?」
「一刻も歩けば着くと思いますだ」
「あー、意外と近いのですねぇ……」
傭兵達は荷物を置き、車座になって休憩を始めた。
「そういやこの前のツケ、払ってくれねぇか」
「おう、ちょっと待て、誰かサイコロだしてくれや」
「お、一勝負するか?」
「すぐに増やして返してやるぜ」
「おい、だれか賭けるやつはいねぇか」
「あ、僕は遠慮させてもらいたいのですが……」
「んなつれねーこと言うなって、な?」
わいわいと暇つぶしに賭けを始める傭兵達を横目に、ルリーナは空を見上げる。陽が傾ぎ始めていた。
いつもは賭けに参加しないリョーも強制的に巻き込んで、実に小さい悲喜こもごもが起きている。
できれば夕飯は街で摂りたいな――などと思いながら更に四半刻ばかり経っただろうか。
遂に最後の一頭が街道を渡り切った。
「すんません、旦那様……」
「いえいえー、暗くなりそうですし、羊飼いさんもお気をつけてー」
実に申し訳なさそうな羊飼いに手を振って、改めて馬車を進ませる。
傭兵は長い事立ち止まっていた所為で重くなった腰を上げ、渋々と歩き出した。
「おう、手前ぇら、出るぞ!」
「うす」
「結局、負けちまったなぁ」
「おめぇ、しっかり金返せよ」
「もうちょいやってれば勝てそうだったんだよ」
「ショーの旦那、すんやせんちょいと覚書きお願いしやす」
「おう、賭け料は俺が控えとくから心配すんな」
「勝っちゃいました……」
「もっと喜べ喜べ、気になんなら後で奢ってくれや」
雑談を交わしながら、気が抜けた調子で傭兵達は歩く。
だらだらと隊列は伸びているものの、ルリーナは特に注意することも無かった。
斥候に出ていた数名も、既に隊列に戻っている。
「街までの路に異常は有りませんぜ」
「了解、道中ご苦労ー」
ルリーナは歌うように言って右手を庇に道の先を見る。
ぼんやりと石造りの城壁が見えていた。
こうなれば後少し、傭兵達の足も心なしか軽くなる。
「さーって、夕飯は街で食べられそうですねー」
「王都、って言うからには期待できそうですぜ」
馬車の横に追いついてカメが言う。
そう、今見えている街、広大なる平原の街は獅子王国の首都なのだ。
金糸で縁取りがされ、赤地に獅子を刺繍された旗が翻るのが見える。
更に城壁の外には幾つもの色とりどりな旗が掲げられていた。
その一つにはエレインの家、リュング城伯の鷲の紋章もある。
野外用の天幕と煮炊きの火も所狭しと街から溢れ出していた。
祝宴の為に獅子王国の貴族たちがこの街へ集まっているのだ。
「お疲れ様ですー」
掘りを越え、石積みの城門を抜ける。
余りにも広い街で、城壁の左右が何処までも続くようだった。
脇に控える衛兵に軽く挨拶をしながらそこを抜けると、所狭しと建物が立ち並ぶ。
街は幾つかの区画に別れているようで、門から見える目抜き通りの先には更にもう一つの城壁が見えた。
その上には武骨な城が顔を覗かせている。
中央通りは多くの人と馬車で溢れていた。街頭に立った公示人が、御触れを声高く読み上げている。
それらの生む喧騒が街全体を包み、実に栄えた印象を与えた。