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第二章 鬼の棲む山(三)


 ふと、何やら良い香りに鼻をくすぐられて俺は目を覚ました。

 寝ぼけ眼で隣を見たら、髪を解いた猪助が眠っている。なに、この状況?

 頭の中で無数のハテナマークが乱舞したが、周りを見渡してみて思い出した。そうだそうだ、猪助の里に行く途中、日が暮れたので荷台の上で二人して休んだのだった。



 見張りとか火の番とかしなくていいのかしらと思ったが、猪助曰く、危険な獣が近づけば自分が気づくし、火を焚けば獣よりもっと厄介なもの、要するに山賊を招きかねないので、かえって危ないとのことだった。

 野宿の経験などない身としては、あらまほしき先達の意見に異論を差し挟むことはできない。




 城で聞いたところでは、現在は天文十四年の五月ということだったから、俺の知る暦にあてはめれば1545年6月くらいということになる。まあ旧暦と新暦の関係がこの世界でも通用するかはわからないし、そもそも気候が同じという保証もないのだが、この地に来てからの気温は感覚的に初夏のそれと同じだったから、たぶん大きな違いはないだろう。



 ただ、初夏とはいえ夜の山中は冷える。火も焚けない以上、身を寄せあって眠るのはなんらおかしいことではない。そんなわけで、俺は猪助と並んでぐーすか寝ていたのである。

 先ほどから鼻をくすぐる芳香は、布団代わりに二人の身体を包んだ猪助の打掛(うちかけ 羽織り物)から漂ってくるものであった。

 甘さの中に苦みが混ざったよう独特のこの香り、打掛だけではなく猪助からも漂ってくるのだが、お香か何かだろうか。猪助によれば強い香りは虫除けにもなるそうなので、そのあたりの理由で常用しているのかもしれない。





 俺は打掛を猪助にかけなおすと、そのまま荷台から下りた。屈伸を行って凝った身体をほぐし、なんとなく頭に浮かんだフレーズを口にしてみる。

「箱根の山は天下の険、函谷関も物ならず、か」

 童謡の一節を口ずさんで周囲を見渡せば、木立の隙間をぬって差し込んでくる朝日が視界をまばゆく染める。周囲の枝葉が宝石のように輝いているのは、表面に浮かんだ朝露の滴が朝日を反射しているからだろう。

 息を吸い込めば清涼な山野の空気が肺を満たし、小鳥のさえずりが耳をくすぐる。向こうでは、俺たちを運んできた牛が一心不乱に周囲の草を食んでいる。

「平和だ……」

 思わず、しみじみと呟いてしまった。




 この心地よい朝のひと時は万金にも換えがたい――と言いたいところだが、山中で夜明かししたせいで服は湿っているし、風呂はもちろんのこと、井戸や川さえなかったので身体を拭くこともできていない。ぶっちゃけ身体中がかゆいです。城にいる間はいちおう風呂も使わせてもらえたので、この手の不便さ、不快さは初体験だ。

 あと、歯をみがいていないので口の中が、なんというか、ねちょねちょする。ちなみに俺が城でもらった歯ブラシは房楊枝(細い木の枝の先をブラシのように細かく切り、丁寧に梳くことで歯を磨けるようにしたもの)であり、木だから当然痛い。使い慣れていない俺はちょいちょい歯茎に引っかかって血が出た。おまけに、これにつけるのが塩なので、当然染みる。

 これを毎日やるのかと正直げんなりしていたのだが、こうなってみると房楊枝のありがたみがよくわかる。文句いってごめんなさい。



 やはり城で世話になっている俺は相当に恵まれているのだな、とあらためて実感する。

 城といえば、弁千代は大丈夫だろうか。北条家にしてみれば、いきなり俺が姿を消したとしか思えないだろうし、見張り役が何をしていたと叱責されていなければ良いのだけれど。

 無用な心配をかけないためにも文の一つでも届けられればいいのだが、あいにくこの時代に郵便ポストなんて設置されていないし、そもそも紙と筆がない。それ以前に猪助が許すはずもない。

 となれば、猪助が抱える厄介事を早めに片付けて戻るしかないのだが、その厄介事の内容が、また面倒なのである。



 昨日、猪助から聞いた話を思い返した俺は、思わずため息をはいていた。




◆◆




 駿河国と相模国との間に聳え立つ天下の険、箱根の山。

 古来、箱根以東を坂東と呼ぶが、これは箱根山北部の足柄坂より東の地という意味であり、この地が東国への入り口として世に知られていたことがうかがえる。

 つけくわえれば、このあたりは山づたいに甲斐国とも接しているため、三勢力の角逐の地でもある。

 北条家が大規模な山賊討伐に乗り出せない理由がここにあった。ヘタにこの地で兵を動かすと、たちまち武田、今川との関係が抜き差しならないものになってしまうのだ。

 だからといって少数の兵で討伐を行うには箱根の山は広大に過ぎる。北条家にとっては痛しかゆしというところであろう。



 猪助のいう「足柄山の連中」はその間隙をぬって山賊活動に精を出しているらしい。

 猪助によれば、彼らの活動が活発になってきたのはここ半年ほどのことだという。もともと山賊自体はその前からおり、何十人もの屈強な男たちが幅を利かせていたそうで、猪助の側は人数でも屈強さでもとうてい彼らに及ばなかった。



 しかし、山賊たちは北条家の討伐を恐れてか、北条方の城や砦のある場所には近づこうとせず、結果として猪助たちが生き延びる余地が出来ていたという。

 山賊が北条家の間隙をぬって暴れていたのなら、猪助たちは山賊の間隙をぬって生き延びていた、ということになろうか。

 猪助たちは身の軽さや山の地形を利用して、時に山賊を翻弄し、出し抜いたりもしたそうだ。




 その状況に大きな変化が生じたのが半年前のこと。足柄山の山賊たちのもとに一人の旅人がふらりと現れてからだった。

 猪助いわく、齢十五の若年ながら身の丈は六尺(約180cm)に届き、その膂力はただ一人で岩塊を持ち上げることもできるとか。振るう得物は八尺(約240cm)あまりの金棒で、ようするに自分の身長よりも大きな鉄の塊をぶんまわして暴れまわっているということになる。実際、箱根を通ろうとした三十人近い隊商を、護衛の者ごと叩き潰してしまったこともあるそうだ。



 ……なんだ、そのリアル鬼みたいな化け物は?



 おまけに、そいつは北条家の砦の一つにまでちょっかいを出した。人と馬とを問わずに頭蓋を叩き潰してまわり、それを見た北条兵が竦んで門を閉ざすと、その臆病をあざ笑いながら悠々と引き上げていったそうな――酒壺片手に。



 ……もう一回いうけど、なんだ、その日本版張飛みたいな山賊は?



 思うに、猪助が捏造した風魔小太郎の名が妙な発展を見せた理由のひとつはそいつにあるに違いない。





 実のところ、その話を聞いてからこちら、そいつと戦えとか無茶振りされないか戦々恐々としていたのだが、起き出した猪助はあっさりと首を横に振った。

「さすがにそこまで無理は言わない。アイツはオレが討つ。仲間を殺された恨みもあるしな」

 そう言いながら猪助がむしゃむしゃと食べているのは塩漬け肉で、罠にかかった猪のものだという。俺にもくれたのだが、塩がきき過ぎていて舌がバカになりそうだ。



 俺が顔をしかめたのに気づいた猪助は、こちらも顔をしかめながら言った。

「我慢しろ。猪の肉はうまくさばかないと臭いからな。こうでもしないとまともに食べられない」

「つまり、これはさばくのに失敗した肉なのか」

「オマエな、オレたちみたいな子供が、あんな何十キロもある肉の塊をうまくさばけると思うのか? 里に引きずって帰るだけで一苦労なんだ。血抜き、臓抜きもあわせれば半日がかりだよ。臭くもなる」

 それを聞いた俺は内心で首をかしげた。まるで里に子供しかいないような猪助の口ぶりが気になったのだが、どうせこれからそこに行かなければならないのだし、すぐに理由はわかるだろう。



 それに、わけてもらった食べ物に文句を言うのは礼儀に反する。まあ、半ば誘拐された身としては、誘拐犯相手に礼儀を守る必要はない気がするが、はじめはどうあれ、今は拘束(簀巻き)も解かれて自分の意思で付き合っているのだし、そのあたりは気にしないようにしよう。

 ちなみに牛車の荷台には、猪助が小田原の町で買い求めた米や味噌、魚の干物などが載っているのだが、猪助はこちらには一切手をつけていない。これらは里で待っている者たちのため、ということらしい。






 そんなこんなで食事も終えて移動再開。

 里に向かう道すがら、俺は猪助の計画を聞くことにした。俺のような大柄な人間を探していたという以上、なにがしかの腹案があるのだろうと思ったのだ。

 俺の問いに猪助はうなずいてみせる。

「そうだな。率直にいえば囮だ。オマエを敵の目に晒して、風魔小太郎ここにあり、と足柄山の連中に見せ付ける。そうすれば連中は怯むだろう。ついでに、件の金棒男は良き敵ござんなれと駆け寄ってくるに違いない。そこを討つ」

「……猪助どん。世の中には飛び道具というものがあるのは知っているかね?」

「なんだ、猪助どんて? もちろん飛び道具があるのは知っているが、そこはかわせ。礼ははずむとは言ったが、危険がないとは言っていない」



 危険がない仕事で大金を払うはずがないだろう、と猪助は言う。確かにそれはそのとおりだと頷かざるを得ない。

 ただ、それはそれとして、この様子だと、山賊たちが猪助の計算に反して風魔小太郎の名前に怯まなかった場合、俺が自力で対処しなければならないっぽい。

 そして、日々、命のやりとりを繰り広げているような賊たちが、身長や鬼の面ひとつで逃げ腰になるとは考えにくい。件のリアル張飛でさえ六尺には届いているのだ。



 早くも計画の失敗を予感して青ざめる俺を見て、猪助は苦笑を向けた。

「安心しろ。お膳立てはこちらで整える。何も単身で敵の前に出て行けとは言わないさ」

「そうか、それは良かった。んなこと言われた日には後先考えずに逃げ出していたところだ。それで、そのお膳立てっていうのは?」



 俺が問いかけると、白髪の少年はついっと俺から視線を逸らした。おもむろに木々の隙間からのぞく前方の山間を指し示す。

「あそこがオレたちの里だ」

「そうか。で、お膳立てっていうのは?」

「……皆、腹を空かせているだろうから、急がないとな」

「そうだな。で、お膳立てっていうのは?」

「…………」



 とうとう黙り込んでしまった猪助に向かい、俺はぼそっと呟いた。

「実はけっこう考えなしだろ、お前?」

「うるっさい!!」

 冷静な仮面の下から素の表情をのぞかせた猪助が、顔を真っ赤にして吠え立てる。特徴のある外見や雰囲気から勘違いしていたが、実はけっこう直情的な子であるらしい。もちろん、この年齢の子供にしては十分すぎるほど思慮深いのは言うまでもないけれど。



 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる俺たちの前方では、荷車を引っ張っている牛が、うるせえなあ、というようにこちらをちらっとかえりみていた。





◆◆◆





 粗末な山砦の各処から、悲鳴とも嬌声ともつかないい女たちの声が聞こえてくる。

 それまでつまらなそうな顔で酒盃を傾けていた十五歳の少年――太田武庵おおた ぶあんはついにたえかねたように立ち上がった。

 六尺を越える筋骨逞しい身体は、ただ立っているだけで他者を怯ませる威を備えている。そこにいかにも不機嫌そうな顔つきが加われば、あえて武庵に話しかけようとする者はいなかった。



 山砦の外に出た武庵は大きく伸びをすると、呆れたようにぼやく。

「あー、もう、うっさいなあ。どいつもこいつも朝っぱらから盛ってんじゃねえよ」

 先夜の襲撃では、金品や食料の他に女性もかどわかしてきた。そのため、さして広くもない山砦の中は、日がのぼってからも酒と女の匂いで満ち満ちているのである。



 別段、武庵は山賊たちを醜いとは思わないし、女性たちを哀れとも思わない。

 むしろいつもは武庵も参加している側である。今日、その気にならなかったのは、さらってきた女の中に気に入った相手がいなかったのと、もうひとつ、先夜の襲撃の相手があまりに弱すぎて白けてしまったからだった。

 ついでにいえば、その気分は昨日今日だけのものではない。思えばここ半年というもの、気分が高揚したことは片手で数えられるほどしかない。



 はあ、と武庵はため息をもらした。

「殿と資正兄の命令とはいえ、ここまで退屈とはなあ。北条領内に潜入して暴れまわるっていうから、もっと楽しめるもんだと思ってたのに」

 と、武庵がぼやいた瞬間だった。



「……武庵殿」

 唐突に武庵の背後から殺気を帯びた警告の声が発される。

 見れば、いつの間にか武庵のすぐ後ろに黒い影が立っていた。武庵とは正反対の小さな身体からは存在感がほとんど感じられない。

 ただ、武庵はその人物の接近に気づいていたらしく、驚く素振りも見せず、嘲るように問いかけた。

「ふん。なんの用だ、犬?」

「この地で我らの素性をにおわせる言葉を発することは厳に禁じられておりまする。ご注意を」

「それは聞き耳をたてている者がいればの話だろう。壁に耳あり障子に目ありとはいうが、ここには壁も障子もないぞ?」



 わざとらしく周囲を見渡す武庵に対し、犬と呼ばれた小柄な男は顔色をかえずに応じた。

「その油断が蟻の一穴となることもありえる、と申し上げておきます」

「ふん、蟻だけにありえる、か。資正兄の飼い犬は冗談もいえるように仕込まれているのだな」

 けらけらと笑う武庵を、犬は――太田犬之助おおた いぬのすけは無表情に見上げた。




 反応を示さない相手に、武庵はちっと舌打ちし、すぐに笑いをおさめる。

 犬之助は武庵の配下ではなく、族兄の太田資正の配下であり、あまり自侭に振舞うと、後々面倒なことになるかもしれない、と自重したのである。

「犬よ。そんなことより彼奴らの里の場所はまだ掴めないのか?」

「ネズミが一匹、罠にかかりました。今、手の者に後をつけさせておりますれば、間もなく判明するでしょう」

 犬之助がそう答えた瞬間、武庵はそれまでの不機嫌さが嘘のように晴れやかな表情を浮かべた。あまつさえ、犬之助を称するように両肩をばんばんと手荒く叩く。



「おお、そうか! よくやったぞ、犬之助。これであの小太郎とかいう小生意気なわっぱをこらしめることができる! よしよし、早速他の連中をたたき起こして戦の準備をするとしようッ!」

 そう言うと、武庵は飛ぶような足取りで山砦に取って返した。おそらく、交歓の最中にある者たちを、文字通りに「たたき起こして」まわるつもりなのだろう。

 一応、この山砦には頭だった者たちがいるのだが、すでに実質的な頭目の座は武庵に移っている。武庵が戦うといえば、大半の者がそれに従うだろう。それがすすんでのことか、しぶしぶのことであるかはさておいて。



 武庵の背を冷めた眼差しで見送った犬之助は、彼の姿が山砦に消えるや、今しがた武庵に叩かれた両肩に手をやり、汚いものでも落とすかのように何度も払った。

 そして、目に冷徹な光を浮かべる。

「風魔の小太郎か。武庵殿が飼いならせる手合いとは思えぬ。ヘタをすれば返り討ちに遭ってしまおうが、死んだら死んだでかまうまい。そも、あの方が失いたくない人材であれば、この地に送り込まれることなどなかったのだから」

 どれほどの剛強を誇ろうとも、他人に使われることしかできない人間は捨て駒にしかなれないのだ。



 底冷えのする声で呟くと、太田犬之助はゆっくりとした足取りで山砦へと戻っていった。



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