第二章 鬼の棲む山(一)
自分が知っている名前、知っている歴史。しかし、そこには看過できない『ずれ』が存在した。
俺が陥った状況を簡単に説明するならば「鏡を通り抜けた先で待ち受けていたのは、戦国時代と似て非なる別の世界だった」ということになる。
――うん、我ながら何を言ってんだといいたくなる結論だが、しかし、これ以外に表現のしようがない。しかも、俺がやってくる何十年も前に、婆ちゃんとおぼしき女性がこの地に来ていたというのだから、もう何がなんだかさっぱりわからん、というのが嘘偽りない俺の心境だった。
襲撃の後、目を覚ました俺は北条幻庵と名乗る老女から様々な問いを向けられた。
あえて嘘を言う必要もなかったので、自分の名前や祖父母の名前を問われるままに答えていくと、幻庵はそれを聞いて莞爾として笑った。
ここで俺は、祖母が昔、この地に来ていたことを告げられる。容易に信じられることではなかったが、現実に俺がこの世界に来ている以上、ありえないと否定することはできない。それに祖母の武術と綱成のそれが同じであることなど傍証はある。
幻庵によれば、祖母は北条早雲――当時は伊勢宗瑞を名乗っていたそうだが、ややこしいので早雲で統一する――が京にいた頃からの朋友であったそうで、早雲の東国下向や伊豆討ち入りの際にも尽力したらしい。婆ちゃん、あなた何者ですか。
ともあれ、幻庵は幼い頃に祖母に世話になったらしく、恩人の孫である俺を客人として迎え入れる旨を明言してくれた。
かくて、俺は相模北条家の中で自分の席を得ることができたのである。
自分の境遇に納得したかと問われれば、していないと答えるしかない。元の世界に帰りたいかと問われれば、迷うことなく首を縦に振るだろう。
しかし、俺が納得しようがしまいが目の前の現実が変わることはなく、どれだけ鏡の表面をぺたぺた触ろうとも元の世界に戻ることができない以上、納得できるか否かに関わらず、事実を事実として受け入れるしかないではないか!
……と、まあそんな風に無理やり自分を納得させることができたのは、幻庵の話を聞いた翌日のことである。長い眠りから目を覚ました俺は、不思議と落ち着きを取り戻している自分に気がつき、首をかしげた。
これは腹が据わっていると表現するべきか、それとも単に鈍いだけなのか。そのあたりはあまり深く考えないことにしよう。
それに、異郷に放り出された身として、俺はかなり幸運な部類に入るはずであり、現状に不満を言い続けるのは非生産的だ。いやまあ、異郷に放り出された時点で十分に不幸なのだが、それはともかく、不法侵入した建物――これが小田原城の奥棟というのだから恐ろしい――の主である北条氏康も俺の逗留を認めてくれた。のみならず、不法侵入および家臣を薙ぎ倒した罪科も不問に処してもらえた。それどころか「恩人に刃を向けてしまって申し訳ありません」と頭まで下げられてしまい、かえってこちらが恐縮してしまったほどである。
この氏康が件の美姫であり、俺と取っ組み合いを演じた娘が北条綱成だとわかった時には、驚きの念はとうに飽和していた。
聞けば、二人とも二十歳に達しておらず、一方で現在は天文十四年(1545年)だという。あいにく北条氏康と綱成の正確な生年はおぼえていなかったが、少なくとも1545年に二十歳に達していないということはありえない。この世界が俺の知る歴史と似て非なるものである、と確信したのはこの時である。
……そもそも氏康と綱成、それに幻庵が女性であるということからしてありえないわけで、確信するならもっと早く確信しろよという話なのだが、そこはそれ、俺もなかなかに平静ではいられなかったのである。
ともあれ、いまさら十やそこらの年齢のずれについて考察したところで何の意味もなかった。そういうものだ、と納得するしかない。
たぶんこれから先も、この考え方にお世話になるのだろうなあ、と俺はなんとなく予感するのだった。
◆◆
「…………むう」
碁の盤面を睨みながら、いかにして相手の鋭い攻撃をいなすかを考える。正直なところ、戦局は押され気味なのだが挽回できないわけではない。
この相手、北条弁千代くんは落ち着いた物腰とは裏腹にやたらと攻撃的な碁を打ってくるのだが、一度いなしてしまえば勝利をもぎとることもできるのだ――まあ、いなせずにそのまま押し切られてしまうことも多いのだけど。というか、この対局は押し切られてしまった。ちくせう。
「これで戦績はまた五分に戻りましたね」
静かな声音の中にそこはかとない満足感と安堵感を漂わせながら、弁千代は言った。
俺は敗者の義務としてぐぬぬと悔しがりながら、そんな弁千代を見る。背筋を伸ばし、きちんと正座をした弁千代の姿は、端整な容姿とあいまって実に絵になるものだった。
しかし、だからといって負けた悔しさが薄れるわけではないのはもちろんである。弁千代が口にしたとおり、前局では俺が勝っているのだが、そもそも相手は十二、三の少年であるからして、互角の戦績では色々とこう年長者の面目が立たないのだ。
「ぬう、今日こそは勝ち越してやろうと思ったんだが」
「刀自の教えを受けた者として、碁で負け越すなど許されませんから。姉上にも叱られてしまいます」
そういって弁千代が微笑むと、蕾が開くようなえも言われぬ可憐さが漂った。はじめて出会ったとき、弁千代は切羽詰った厳しい表情をしていたので、俺はすぐに彼が少年だとわかったのだが、もしこういう形で出会っていれば女の子と間違えていたかもしれない。碁石を置く手も白くて華奢だし、なんというか男くささが全然ない子なのだ。老若を問わず、城内の女中衆の人気が高いのも当然というべきだった。
聞けばこの弁千代、姉である北条綱成と共に先代氏綱に気に入られて北条一門の養子となり、現当主氏康からは小姓頭に任じられているという。小姓というと使用人的なイメージがつきまとうが、実際は次代を担う俊英を当主の手許で教育する意味合いが強い。つまり、弁千代は将来的に北条家の屋台骨を支える重臣となることが期待されているわけだ。
まだ若い身でここまで厚遇されると、並の子供なら増長の一つもしておかしくないと思うのだが――俺なら間違いなく天狗になっている――弁千代はしっかりと己を律しており、他の家臣たちからの評判もすこぶる良い。
ちなみに容姿端麗、温厚篤実、将来有望な弁千代くんは城内のみならず、町中でも「北条の若様」として抜群の人気を誇っている。そらここまで取り揃えれば人気もでるだろうってなもんである。
そんな北条一門の期待の星である弁千代が、どうして昼日中から俺と碁を打っているのかといえば、それは氏康に命じられて俺の世話係になったためであった。
まあ実際は世話係というより監視役という感じなのだろうが、この地に慣れる意味でも弁千代のように物腰の柔らかい子が傍にいてくれるのはありがたい。どうやら氏康の命令はそのあたりも見越してのもののようで、俺は早くもあの少女に頭があがらないものを感じ始めている。
ふとあることを思い出した俺は、碁盤を片付けがてら弁千代に訊いてみた。
「そういえば、早雲公の教えで、碁や将棋を好む仲間は悪友だから付き合ってはいけません、というのがなかったっけ?」
「それは、為すべきことを為さずに遊びにうつつを抜かしている人間とは付き合うな、ということです。碁や将棋がいけないことだとは仰っていないと思いますよ。僕は幻庵刀自に討ち方を教えていただきましたし、氏康様も巧みに打たれます。刀自と氏康様の対局はすごいんですよ」
「ほほう。それは是非見てみたいな」
ちなみに、俺に碁を教えてくれたのは婆ちゃんである。両親が共働きであるため、俺は婆ちゃん子なのだ。
「そういえば、綱成様はどうなんだ?」
今、名前が出てこなかった弁千代の姉の腕前を訊いてみると、微妙な反応が返って来た。
「……ええと、誰にも得手不得手というものがありまして」
「なるほど、理解した」
今度、機会があったら挑んでみよう。明らかに俺を警戒している綱成相手にそんな機会が訪れるかはわからんけど。
「しかし、なんか申し訳ないな。この忙しいときに俺のせいで身動きがとれなくなってしまって」
俺がやってきてから十日あまりが経過している。
氏康の命を狙った賊徒はとうの昔に殲滅されていたが、小田原城中はいまだ騒然とした空気に包まれていた。
それが先の襲撃に関わるものであることくらいは俺にも推測できる。おそらく今こうしている間にも、裏で襲撃の糸を引いていた黒幕を探り出し、討伐するための準備が整えられているのだろう。
常であれば、弁千代は氏康の傍らにあって立ち働いていたはずだが、俺の面倒を見るという雑務のせいでそれが出来ないでいる。このことは、ひとり弁千代のみならず、北条家全体にとっても大いなる損害であるはずだ。
ぞのことを俺が申し訳なく思っていると、弁千代は小さくかぶりを振った。
「風間様は刀自の客人、氏康様の恩人、そして僕にとっても危急を救ってくださった方です。その身をお守りするのは当然のこと。気に病まれる必要などまったくありません」
「うーむ、別に俺がいなくても、弁千代殿ならば賊の三人くらいどうとでも出来たと思うが?」
その俺の言葉に、弁千代は無念そうに首を横に振る。
「……残念ながら、それは無理だったでしょう。ごらんのとおり、僕は体格に恵まれていません。戦場、ことに乱戦の場では多少の剣術よりも力がモノを言います。あの三人のうち、一人が死を覚悟して僕に躍りかかってきていれば、僕はそれだけで手詰まりになっていたはずです。そうして、残りの二人が氏康様に斬りかかっていたことでしょう」
弁千代はどこか憧れを宿した目でじっと俺を見つめた。正確には俺ではなく、俺の身体を見つめた。
「風間様が羨ましいです。どうすれば、そのように逞しい身体を得ることができるのでしょうか?」
俺は無駄に大きい自分の身体を見下ろす。
万一、弁千代が俺のようになってしまったら、城の内外を問わず嘆き悲しむ女性がたくさんいそうだ、と頭の片隅で考える。
しかし、その考えを口にすることは控えた。弁千代が真剣に悩んでいることを察したからである。他人の悩みを茶化してはいけない。
俺は頬をかきながら口を開く。
「むう、これといって心がけていることがあるわけではないんだが……?」
身体を大きくするといっても、横に増やしても仕方ないので、この場合は上背だろう。定番は牛乳であるが、そもそもこの地で牛乳って飲まれているのだろうか?
乳製品に関しては、古くから酪(らく ヨーグルトのようなもの)とか醍醐(だいご 牛の乳を精製してつくると言われている幻の美味)とか言った言葉がある以上、存在するとは思うのだが、たぶんあったとしてもえらく高いだろうし、毎日飲むというわけにはいくまい。
結局、何も考え付かなかった俺は正直に答えることにした。
「良く食べ、良く寝て、良く遊ぶ。そうしていたら、いつの間にかこうなっていたなあ」
「なるほど。へたに思い悩むより、日々を健やかに過ごすことこそ肝要ということですね」
こくこくとうなずく弁千代。メモでもとりかねない勢いである。
なんだろう、なんか見ていると自然に顔がほころんでしまう素直さだ。この少年が人々に好かれている理由がわかる気がする。
余計なことかと思いつつも、俺は励ましの言葉を添えた。
「成長の時期は人それぞれだし、俺が今の背になったのは高校――ではない、十五を越えてからだからな。気にせずとも、弁千代殿はまだまだ伸びると思うぞ」
「そうなれば喜ばしいです! 風間様ほどの体躯があれば、兵たちにも侮られないで済みますから」
それを聞き、俺は素で驚いた。
「侮る? 弁千代殿を侮る兵がいるのか?」
「はい。やはり、いざ戦となれば、僕のようになよやか者は忌避されてしまいます。この間なんて訓練の合間に『姫』と陰口を叩かれる始末で……男児として屈辱でした」
悔しげに肩を落とす弁千代。
俺は首をかしげつつ、確認のために問いかける。
「実は訓練の結果は良かったりしなかったか?」
すると、弁千代は驚いたように目を瞬かせた。
「は、はい、そうなんです。どうしてなのか、僕にも良くわからなかったんですけど」
本当に不思議そうに首をかしげる弁千代を見て、俺は内心で答えた。それはたぶん、お姫様のように可憐な指揮官に認めてもらいたくて皆が頑張ったからだろう、と。
とはいえ、自分が男らしくないと悩んでいる弁千代に向かってそんなことを言えるはずもなく、俺はあいまいに頷くしかなかった。
うん、この少年、ちょっと天然はいってる。
そんな確信を得た、ある日の昼下がりであった。
◆◆
そんな具合に、北条家を取り巻く不穏さとは裏腹に、俺個人はきわめて穏やかな日々を過ごしていた。
この時代への適応もスムーズに進んでいる。時間だけはありあまるほどあったので、書物を借りて文字の読み書きを勉強し、ついでにこの地の歴史と俺の知る歴史との相違を確認した。現在の北条家を取り巻く状況、とくに関東の情勢が気になったが、ヘタにそのあたりを調べると密偵ではないかと疑われそうなので、あくまで過去の歴史を調べるという名目で、幻庵や弁千代に話を聞いたりもした。
結果、判明したのは『享徳の乱』とか『長享の乱』とか、俺の知る史実で関東を引っ掻き回した事件はこちらでもきっちり起こっていた、ということである。
これらの乱については割愛する。というか、俺自身、きちんと把握してないのでくわしく説明できん。簡単にいえば、1450年頃からおよそ五十年に渡って関東を痛めつけた大乱である。
実のところ、これより前にも関東には大きな動乱が立て続けに起こっており、この頃の関東の政治情勢は複雑怪奇、ある戦場ではなんと十八年もの間、対陣が続いたというのだから、きっとしっちゃかめっちゃかな状態だったのだろう。
北条早雲の抬頭は、そういった混乱の隙をついて行われたのであり、そのあたりの事情はこちらも同様のようであった。
知ったところで何ができるというわけでもないのだが、何も知らないでいるよりは自分の行動に自信が持てる。
俺は知識を蓄えつつ、余った時間で弁千代相手に碁の勝ち数と負け数を同じペースで積み重ね、負傷が癒えてからは城下にもたびたび足を運んだ。なお、余談だがこの地に牛乳はなかったです。残念。
そして、そういった日々の中で、俺はひとりの不思議な子供と出会うことになる。