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第一章 まれびと(五)

「弁千代。様子はどうですか?」

 北条氏康は件の若者が寝かしつけられている部屋に入るや、開口一番、そう訊ねた。

 若者の看病兼監視を任されていた小姓頭の弁千代は主君に頭を垂れながら、落ち着いた口調で報告する。

「は。傷の手当は済ませました。傷口に悪しき風が入った様子もございません。先ほどから息遣いも穏やかになっておりますので、間もなく目を覚ますものと思われます」

「そうですか。それはなによりです」

 弁千代の報告を受け、氏康はほっと息を吐いた。



 寝具に横になっている若者は、素性の知れない怪しい人物である。とはいえ、自分や弁千代を助けてくれた恩人には違いない。

 その恩人を自分たちの手で傷つけた挙句、死なせてしまったとなれば、北条武士の信義を問われることになるだろう。

 そうならずに済んでよかった、と氏康は安堵したのである。



 他方、その氏康に付き従っている義妹の綱成は仏頂面のままであった。

「あね様。なにも曲者の安否を確かめるために、北条の当主御自ら足を運ばれる必要などないでしょう。この者、暗器の類を身につけていないことは確認いたしましたが、この巨躯と膂力をもってすれば、素手で人の首をねじ切ることなど造作もないこと。用心するにしかず、と心得ますが」

「綱成」



 めずらしくむきになった様子の義妹を見て、氏康は説き聞かせるようにゆっくりと言葉をかけた。

「平三郎らに聞いたでしょう。自分たちが斬りかかったとき、立っていたのはこの者だけであった、と」

 平三郎というのは氏康の側近のひとりで、寝ている若者に打ち倒された者である。氏康は先刻目を覚ました彼らから話を聞き、事の全容をおおよそ把握していた。



「であれば、この者は私たちを逃がした後、三人の賊徒をただ一人で打ち倒したということになります。氏素性の知れない者ゆえ、平三郎らが賊徒と見誤ったのはいたし方のないことでしょう。平三郎らが倒れるところを見たあなたが斬りかかったことも同様です」

 しかしながら、それはこちらの理屈でしかない、と氏康は言う。

「この者から見れば、命懸けで助けた相手の家臣から命を奪われるような目に遭わされたのです。北条は忘恩の徒なり、と謗られることはあなたも望まないでしょう?」

「むろんのことです。しかし、この者、明らかにタダ者ではございません。あね様が直接関わるのは危険です」

 義姉の諌めを理解しながらも、これだけは譲れないとばかりに綱成は強硬に主張した。



 氏康は綱成の言葉を吟味するようにおとがいに手をあて、わずかに顔を伏せる。

 若者の特異性についてはすでに綱成から聞いていた。

「我が家の武を修め、綱成と渡り合う。たしかにタダ者ではありませんね……」

「はい。牢に放り込めとまでは申しませんし、無用に事を荒立てぬことも約束いたしますゆえ、この者の処遇はわたしにお任せいただきたく存じます」



 言い募る綱成を見て、氏康は目を瞬かせる。

 そして、少し口調を和らげて問いかけた。

「綱成、先ほどから不思議に思っていたのだけど、何をそうむきになっているの?」

「べ、別にむきになどなっておりません! 斬り合いで裏をかかれたことが悔しいのは否定いたしませんし、組み打ちであわや押さえつけられそうになったことが腹立たしいのも否定できませんがッ!」



 それをむきになっているというのではないかな、と氏康は思ったが、義妹の心情と怪我人の安静を慮って口にするのは控えることにした。

 かわりというわけでもないか、綱成の提案には否を口にする。

「恩人に礼のひとつも言えない人間が、家臣たちに仁義礼智を重んじろ、と訓戒することはできないでしょう。それに――」

 氏康は先刻の情景を思い起こし、くすりと微笑む。

「『源平の昔から、美人や美少年が追われていれば、これを助けるのが日本男児の心意気』だそうよ。あの場でそんなことを口にする人が悪人とは思えません」

「ただのお調子者なだけだと思いますけど」

 不服そうに口を尖らせながらも、綱成はさすがにこれ以上主君の意にさからうことは控えた。



 若者に関しては自分や弁千代が目を光らせておけば済むことだ、と綱成は割り切ることにした。それに正直なところ、他に重要なことはいくらでもある。今日の襲撃が誰の手引きで行われたのか、裏で糸を引く者がいたのか等、考えるべきことは山積みだった。

 さすがにこの場で話すことではないので、氏康たちは若者のことを弁千代に委ね、別室に移ることにした。

 その途中、年を経た年配の侍女が姿を見せる。氏康らとは顔なじみの老女で、ながらく北条幻庵の傍仕えをしている人物である。老女は幻庵が二人を呼んでいる旨を伝えた。




◆◆




 北条幻庵は初代当主 早雲の末女にあたる人物で、早雲、氏綱、氏康と続く相模北条家の重鎮として家中で重きをなしてきた。ことに今代の氏康は家督を継いで何年も経っておらず、重臣として、一族の長老として、幻庵が果たす役割は大きい。

 北条家は初代以来、内治の充実、国人衆の統制に意を用いているため、国内に不穏の種は少ないが、反対に国外は問題だらけといってよい状況だった。

 駿河の今川家、甲斐の武田家、武蔵の扇谷おうぎがやつ上杉家、上野の山内やまのうち上杉家など、北条家と敵対する有力武家は枚挙に暇がない。



 彼らは氏康が当主に立って間もない今こそ北条を討つ好機とみなしており、様々な手段を駆使して北条領を侵食しようとしている。そのため、近年、氏康をはじめとした北条家の君臣はその対応に忙殺されていた。

 幻庵が体調を損ねた理由の一つがその激務にあったことは疑いない、と氏康は考えている。寝食をけずっての働きが老体にはこたえたのだろう。

 確かな病巣があるわけではないため、明確な治療法は存在しない。安静が第一であるとは医者の言葉であり、氏康も綱成もそれに従っているのだが、北条家を取り巻く状況は、一族の長老に安息をもたらすことを拒むかのように、日々激化の一途を辿っていた。



 その一つが今日の襲撃である。

 賊徒は幻庵のもとまでたどり着くことはなかったが――これは氏康が真っ先に幻庵の寝所周辺を固めたためである――城中の騒ぎは当然のように幻庵のもとに届いており、幻庵から事の次第を問いただされれば、まだ若輩である氏康や綱成に言を左右にすることができるはずもなかった。





 賊徒が医者の従者にまぎれて城内に侵入したことはすでに突き止められていた。では、医者当人も陰謀にくみしていたかというと、実のところ、そうではない。

 綱成の報告を聞いた幻庵は、しわ深い顔に沈痛な表情を浮かべた。

「そうか、家族を人質にとられたのか」

「はい。手の者を遣わしたのですが、先刻、報告が届きました。家人はすでに……」

「……賊にしてみれば、城内に潜入できた以上、あえて人質を生かしておく必要はない、ということか。あれにはすまぬことをしたのう」



 幻庵は顔見知りの医師の心情を思いやって眉根を寄せた。そして、犠牲になった者の冥福を祈るように胸の前で手をあわせる。氏康、綱成も顔を翳らせながら幻庵にならった。

 綱成は相手のやり方に憤りを隠さなかったが、報告にはまだ続きがある。

 この一件における本間近江守の行動に不審を感じた綱成が独自に調べた結果、近江守配下の兵は欺かれて賊徒を城内に招き入れただけでなく、それどころか自発的にこれを手引きする動きを見せていたようなのである。



 銅門の守備を任されていた本間近江守は、もちろん賎臣ではない。しかしながら北条家重代の家臣というわけでもなく、元々は上野の山内上杉家に仕える家臣だった。

 当主である上杉憲政の勘気を被り、出奔してきた本間を北条家が受け入れたのは、山内上杉家の内情に通じた人物を確保すると共に、関東の諸侯に北条家の寛容を知らしめるためであった。



 北条家をつくりあげたとされる早雲だが、正確には『北条』を名乗るようになったのは子の氏綱の代からで、早雲自身は伊勢家の出身である。

 伊勢家は京でも名門として知られる家柄であり、その一族である早雲が東国に下向して伊豆、相模と領土を切り取り、後に幕府、朝廷から許可を得て北条氏を名乗るようになったのが現在の北条家の始まりだった。

 そういった経緯から、北条家は独立志向が旺盛な関東武士から「中央勢力の走狗」とみなされている。

 何かと対立しがちな関東の諸侯が、こと対北条となると一致団結するあたりからも、その傾向はうかがえるだろう。



 そういった理由もあって、北条家は関東武士の処遇には心を砕いてきた。出奔した本間近江守を受け入れ、なおかつ銅門の守りを委ねたのは、たとえかつては敵対していた関東武士であっても、心をいれかえて忠節を尽くすのならば、北条家はこれに報いる度量を持っている、と内外に示す措置である。

 もちろん、本間自身の働きも考慮しての人事であった。北条家に仕えるようになってからの本間は骨惜しみをせずに働き、彼の口から出た山内上杉家の情報はことごとく正確なもので、だからこそ氏康は彼を抜擢したのであるが、どうやらこれらは敵のはかりごとの一部であったらしい。



 本間配下の兵の不穏な動きを知った綱成は即座に兵を差し向けたが、この時、すでに本間とその側近の姿は城中になく、城下の家屋敷も空になっていた。

「――どうやら此度のこと、以前より入念に計画されていたものと思われます」

 綱成が報告を終えると、幻庵は床から上体だけ起こした格好で思案にふける。

「ふむ……業正あたりの策であろうか。にしては、ちと性急に過ぎるきらいもあるが」

 山内上杉家に仕える宿将の名を口にして、幻庵がさらに考えを推し進めようとする。



 途端、その口から濁った咳が出た。一度、二度と続いてすぐにおさまるかと思われたが、咳は止まらず、幻庵の小さな背が苦しげに曲げられる。

「刀自!」

 氏康と綱成の心配そうな声が重なった。

 二人は慌てて幻庵のもとに駆け寄ると、左右からそっと背中をさする。

 それでも幻庵はなおしばらく咳き込んでいたが、やがて咳がおさまると、その口から忌々しげな声がもれた。

「……まったく、年はとりたくないものよな。このような時に我が身ひとつ御し得ぬとは情けなし」

「刀自……」

 幻庵が自身の不調を心底嘆いていることがわかるだけに、氏康も綱成も安易な慰めを口にできない。幻庵の心を騒がせているのは北条を取り巻く不穏な状況であり、その状況を打破できないのは自分たちの力不足ゆえと思えば、ますます口が重くなる。



 幻庵はそんな氏康たちの煩悶をすぐに察したようで、老顔をほころばせた。

「そのような顔をするでないわ。そなたたちはようやっておるよ」

 性格は違えど、生真面目な性分は共通している義理の姉妹に、幻庵は温かい声をかける。世辞ではなく本心であった。

 実際、氏康にしても綱成にしても、課せられた責任を十分以上に果たしている。本来であれば、幻庵をはじめとした年長者たちが支えてやらねばならない年齢であるのに、むしろその彼らを引っ張る勢いであった。



 あと十年とはいわない。五年の猶予があれば、と幻庵は思う。

 内治における氏康の才と情熱、外征における綱成の勘と手腕は、幻庵がどれだけ欲しても得られなかったものだ。今はまだ完全な開花には至っていないが、五年の歳月があれば、氏康を頂点に、綱成を補佐として、北条家は磐石の備えを整えることができるだろう。

 そうなれば、早雲と氏綱から後のことを託された幻庵は、何の憂いもなしに逝くことができるのだが、現状はそんな幻庵の望みとは正反対の方向に突き進んでいるようだった。





 


「ところで、綱成よ」

「は、はい? どうかなさいましたか、刀自」

 報告も終わって退出しようとしたとき、不意に幻庵に名を呼ばれ、綱成が目を瞬かせる。氏康も不思議そうに動きを止めた。

「何か言いたいことがあるのではないか?」

「う……」

 図星をさされ、綱成は目を泳がせた。が、すぐに幻庵の体調を案じて「大したことではございませんので」と口にしようとする。



 その綱成の機先を制するように、幻庵は口許をほころばせた。

「言うてみよ。好いたおのこでも出来たかえ?」

 ぶ、と綱成の口からはしたない音がもれる。

「ち、違います、まったく全然違います! ただ、ひとつお訊ねしたいことがあっただけでして」

「ほう。して、何を訊ねたい?」



 問われた綱成はわずかに口ごもったが、ここまで来たら黙っていても仕方ないと判断し、ずっと気にかかっていたことを訊ねてみた。

「……刀自。北条の武術が――早雲公の薙刀の技が他家に流れている、ということはありえますでしょうか?」

「む?」

 予想外の問いに幻庵は怪訝そうな顔をしたが、すぐに答えた。

「そうよな、どの程度の域に達しているかで答えはかわってこようが、ないとは言えぬ。他家に嫁いだ娘たちも、幼い頃は多少なりと武術を修めておるでな」

「五津、霞。その域ではいかがでしょうか?」

「……そこまで深くに達した者は、そもそも数えるほどしかおらぬ。ない、と断言して差し支えあるまい」



 ここで問う者と問われる者が交代する。

「察するに、余所者で五津と霞を使う者がおったのか?」

「使った、と申しますか……私の技を防がれました。技量自体は大したものではありませんでしたが、こちらの太刀筋を熟知しているとしか思えない動きだったのです」

 ほう、と幻庵は関心をひかれた目つきで綱成を見上げた。

「何者ぞ?」

「その、襲撃してきた賊徒の一人――いえ、そうではないと思われるのですが、曲者には違いなくて、ですね」

「……何をいっておる?」

 めずらしくはきつかない物言いをする綱成を見て、幻庵は目を丸くする。



 ここで苦笑した氏康が間に入り、幻庵に件の若者のことを告げた。

 と、幻庵の眼差しに興味以上のものが閃く。

「見上げるほどの大男で、早雲公の技を知る。しかも、どこから現れたかわからぬ……?」

 まさか、と呟きながら、いったんは横になった幻庵が身体を起こす。

「と、刀自、いかがなさいました?」

「氏康、綱成。その者、名はなんと申す?」

 氏康の問いかけも耳に入っていないらしく、幻庵は急いた口調で確認してきた。 



 氏康はちらと綱成と目を見交わしてから答える。

「いえ、名を問う前に気を失ってしまいました」

「ふむ、そうか……氏康、すまぬがその者のところまで案内してくれぃ」

 そう言って立ち上がろうとする幻庵を見て、綱成は慌てて止めようとした。

「と、刀自! ご無理はお控えください。曲者の糾問は私が行いますので!」

「よい、この目でその若者を見ておきたいのだ。綱成よ、そなたは鏡の間を見てくるのじゃ。何者かが立ち入った跡があれば、急ぎ知らせよ」



 鏡の間は小田原城の最奥にあって、北条一族以外は立ち入りが禁止されている場所である。その北条一族さえ、半年に一度、室内を掃き清めるとき以外は滅多に近づかない。

 部屋の中央に置かれている鏡は、家祖 早雲が無二の宝として生涯大切にし続けたものである、と氏康たちは聞いていた。

 どうして今、その部屋を確認する必要があるのかと綱成は疑問に思ったが、幻庵の言葉に逆らえるはずもない。首をかしげながらも、その身体は半ば反射的に動いていた。




 残った氏康は幻庵の小さな身体を支えながら、問う眼差しを向ける。

 その視線に気づいた幻庵は、最近ではめずらしく楽しげな微笑を浮かべながら口を開いた。

「すぐに話す。勘違いであればそれでよし。しかし、そうでないのなら――ふふ、懐かしい者の消息を聞けるかもしれぬな」

「懐かしい者、ですか?」

「うむ。それに、もしやするとお前たちにとって吉祥となるかもしれん。早雲公の御世より、客人まれびとは我が家に吉をもたらしてきたからの」

「刀自、仰っていることがよくわからないのですけれど……?」

「ふふ、よいよい。婆の戯言と思うて聞き流しておくがよい。事の真偽はすぐにわかるであろう」

 そう言って、幻庵はもう一度楽しげな笑い声をあげた。



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