第一章 まれびと(四)
北条綱成がその場に駆けつけた時、寸前まで繰り広げられていた死闘はちょうど決着がついたところだった。
小山のような(と綱成の目には映った)曲者が顔見知りの氏康の側近を薙刀で力任せに吹き飛ばしている。頭部を打ち据えられた側近は気を失ったのか、庭に倒れ伏してぴくりとも動かなかった。
みれば、中庭には賊徒のものと思われる三つの屍の他、氏康の側近がもう一人倒れている。
綱成はそれを見て考えた。
側近たちは氏康を守るために二対四で戦い、善戦したもののあえなく敗れ去ったのだろう、と。それ以外に解釈のしようがなかった、ともいえる。この場で唯一、まだ立っている大柄な男の顔も、格好も、綱成にはまったく見覚えがなかったので。
「下郎めが」
綱成は相手に向かって吐き捨てた。
荒く吐き出される息、恐れと怯えのいりまじる血走った目。こちらを見つめる曲者の眼差しは、いかにも追い詰められた賊徒のものである。
今の綱成は甲冑を身につけておらず、薙刀だけを持った身軽な格好だった。綱成は軽やかな身のこなしで中庭に飛び降りると得物を構える。刃の部分は、ここに来るまでに手にかけた賊徒の血で赤黒く濡れていた。
名乗りもあげずに討ちかかる。
肩口から斜めに切り下げる袈裟の一刀は綱成が最も得手としている攻撃だ。綱成自身の膂力もあいまって、相手が甲冑をまとっていようとも、甲冑ごと斬り下げることができる剛撃である。
ただし、荒技ゆえに繰り返せばたちまち刃が傷んでしまう。したがって、戦場では狙いを頸部にかえることもしばしばであるが、いずれにせよ、剛速の斬撃は卑劣な刺客ごときが対処しえるものではない。
事実、ここにいたるまで綱成に抗えた賊徒はただの一人もいなかった。
ところが。
ガギッと腹に響く重い音と共に、綱成の手に重たい衝撃が伝わってきた。曲者が綱成の斬撃を薙刀の柄で受け止めたのだ。しかも、まともに受ければ柄が真っ二つにされることを悟ってか、わずかに角度をつけて刃先をそらす工夫までされている。
ほう、と綱成は内心で驚きの声をあげたが、もちろんそれを表に出すようなまねはしない。
薙刀の刃が飛燕のように翻り、今度は逆の肩口を狙う。曲者はこれも受け止めた。
柄を回転させ石突で打ちかかる。これも止められた。
ならば、と綱成は相手の前進を誘うようにわずかに後退する。この誘いに相手がひっかかり、向こうの身体が前のめりになったところで、一転して弾けるように前に出て立て続けに斬撃を浴びせかけた。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つの五連撃。
綱成のこれを凌げる者は家中でもほとんどおらぬ。
だが、しかし。
曲者はこの連撃さえ耐え切った。余裕をもって、ではなく、いかにも必死な面持ちであったが、あらかじめ綱成の斬撃がどこに来るかわかっているかのような、不思議な防御の仕方であった。
短い舌打ちの音を残し、綱成は後方に跳んだ。今度は誘いではなく、本当に相手と距離をとる。
綱成の顔にははっきりと不審の色が浮かびあがっていた。
綱成の武術は義父の北条氏綱から仕込まれたもので、氏綱の武術はその父にして家祖たる北条早雲が独自に創始したものだ。つまり、綱成が修めたのは北条家秘伝の業。
多少、他流と似通った部分はあるにしても、まったく同一の武術が外に流れているとは考えにくい。
――考えにくいのだが、この曲者の動きは北条家の技を熟知している者のそれである。でなくては、綱成の攻撃をこうまで避けられるはずがない。
――いったい何者だ?
疑問は警戒を促し、警戒は排除の意思をより明確に胸奥に刻み付ける。
向かい合った両者の間で、空間が無音の軋みをあげていた。
◆◆
――いったい何者だ、この怪力女。
両手が痺れるような強烈な攻撃を立て続けに浴びせかけてきた相手に、俺は驚きを隠せずにいた。
もっと正直にいえば、驚愕と恐怖と疲労と苦痛と絶望を隠せずにいた。たぶん、今の俺は死んだ魚のような目をしているのではないか。
先ほどから心臓の音がいっこうに静まらない。肩は激しく上下し、立て続けの剛撃をうけたせいで薙刀を持つ両手はまだ痺れたままだ。先の二人組みに斬られた脇腹と右肘の痛みも無視できない。
こうしている間にも、頬にはひっきりなしに汗が伝い、あご先に集まってぽたりぽたりと地面に垂れていく。さっと拭ってしまいたいところだが、わずかでも構えを崩せば、次の瞬間に俺は眼前の怪力女に斬り捨てられているだろう。目の前にいる相手と俺との間には、それくらいかけ離れた実力差が存在する。というか、正直なところ、自分が今こうして生きていることが信じられん。
おそらく、単純に実力を比較すれば、俺はこの相手と五合と打ち合えない。一刀で斬り伏せられてもなんらおかしくない。
それが、ここまで十合近く打ち合えているのは、相手の動きが予測できたからである。なんというか、婆ちゃんの太刀筋と非常に酷似しているのだ。特に最後の五連撃などは、寸分たがわず、と形容できそうなくらいに良く似ていた。
だからこそ、かろうじて斬られずに済んだわけだが、それももう限界だろう。どれだけ太刀筋が似ていても、婆ちゃんと怪力女では膂力が違いすぎるし、なによりこの相手は明らかに俺を殺しにかかっている。こちらに向けられた血塗られた刃の凶悪さといったら、恐怖に押しつぶされて半ば夢中で戦っていた俺が、否応なしに正気に戻ってしまうほどだ。
どうやら先の連撃を防がれたことは向こうにとっても意外だったようで、怪力女は距離を置いて俺を睨みすえている。
この時、俺はようやく相手の顔をはっきりと見ることが出来た。
殺されそうになっている状況で考えることではないのだろうが、実になんというか、綺麗な顔立ちをした少女である。
青みがかった黒髪は黒絹のような光沢を帯び、真っ直ぐにこちらを見据える瞳は眩いほどの覇気と戦意で輝いている。呼気を整えるためだろう、かすかに開かれた唇は艶やかに光っており、ある種の色気を感じさせた。
先の少女を美姫とするなら、こちらは戦姫といったところか。
薙刀を持つ手は見るからに細くたおやかだが、そこに秘められた力は今しがた我が身をもって確かめたばかりである。
衣服越しにもそれとわかるほどしなやかな力強さを秘めた身体は、地に伏せ、獲物に狙いを定めた獅子を連想させる。向かい合っているだけで肌がひりつくほどの重圧を受けて、俺は知らず知らず後ずさっていた。
相手の瞳に苛烈な光がはしったのはその瞬間だった。
俺の後退を隙と見て取ったのか、怪力女は弾けるような勢いで前方に飛び出し、一気に俺との間合いをつめてきた。気がついた時には刃が唸りをあげて眼前に迫っている。
先の五連撃とよく似た、けれどわずかに違う太刀筋は、四連撃のそれである。
一撃目、二撃目は俺の記憶どおりだった。その二つをかろうじて凌ぎ、次に三撃目が予想される位置に薙刀を向かわせようとした途端、相手の軌道が急激に変化する。
おそらくそれは、こちらが太刀筋を呼んでいると察した相手が仕掛けた罠だったのだろう。
予想していた位置とはまったく異なる箇所を狙った一撃を避ける術はなかった。
――もっとも、もとより避けるつもりはなかったのだが。
相手の薙刀が軌道を変えた瞬間、俺は委細かまわず、自分の薙刀を投げ捨てて前に突進していた。
先の連撃は、防いだ俺さえ信じられない思いだったのだ。防がれた相手はもっと信じがたい気持ちだったに違いない。
となれば、次の攻撃はこちらの狙いを外すべく、何かしら策を絡めてくる可能性が高い、と俺は予測した。俺に勝ち目があるとすれば、その策を食い破ることしかない。奇策は往々にして仕掛ける側にこそ隙を生むものである。
ただし、予測していたといえば聞こえはいいが、実際には山を張っただけのこと。向こうが真っ向から攻め続けることを選択すれば、俺は打つ手もなくただ斬られるしかなかっただろう。
ともあれ、ここは俺の判断が吉と出た。太もものあたりをざっくりと断ち切られた感触があったが、興奮状態にあるためか、痛みはほとんど感じない。
一瞬の間を置いて、俺の肩に強い衝撃が走った。
「――ぐ、このッ!」
怪力女は肩から突っ込んだ俺の体当たりを避けることが出来なかった。俺はそのまま勢いに任せて相手を地面に押し倒す。
いかに獅子を思わせる女傑とはいえ、単純な力比べならば、体格から言っても俺が有利に違いない――
と、そんな俺の思惑は、みごとに初手から覆された。
いや、相当な膂力の持ち主だということはわかっていたのだが、実際に組み伏せようとしてみたら、相当どころの話じゃない。このほっそい手足のどこにこんな力が宿っているのか、と目を疑うくらいに相手の抵抗は凄まじかった。
もともと組み打ち術(格闘術)に優れていたこともあったのだろうが、ともすればこちらが押さえ込まれそうになる。
この相手に押さえ込まれるということはつまり、身動きとれなくされた上で短刀で首を掻き切られるということなわけで、俺はそうはさせじと懸命に力を振り絞った。必死に、それこそここまで力を振り絞ったのは生まれてはじめて、と断言できるくらい一生懸命に。
結果、俺たちは息を荒げ、互いに上になったり下になったりしながら、激しい取っ組み合いを演じることになった。
相手の右手首を押さえつけることに成功した、そう思った途端、怪力女の左手が眼窩めがけて鋭く伸びてくる。
その狙いがこちらの眼球を抉ることにあるのは明らかであり、俺は慌てて空いている手でこれを防ぐ。自然、右手首をおさえていた手の力が緩み、たちまち相手は自由を回復してしまった。
短くも激しい攻防が何度も何度も繰り返され――そして、間もなく勝敗の帰趨は定まった。
俺たちの取っ組み合いとは関わりのない次元で。
賊徒を掃討したとおぼしき者たちが、怪力女を案じる声をあげて駆け寄ってきたからである。その数はざっと五人以上おり、しかもまだまだ増えつつあるようだ。どうやら建物内に侵入した曲者は掃討されつつあるようで、彼らは生き残りの賊の姿を求めてこの場にやってきたのだろう。
当然、全員が俺の敵である。
「綱成様ッ!?」
「おのれ、賊めが! 皆、周囲を囲め。絶対に逃がすなよッ」
盛んに声をあげてはいるが、こちらに手を出してくる者はいない。ヘタに手を出して、かえって怪力女の邪魔になってしまうことを恐れているのだと思われた。
俺は短刀の類など持っていないので、数にまかせて押さえこまれてしまえば抗う術はないのだが、俺以外の人間にそんなことはわからない。むしろ、賊であるからには短刀の一つ二つ、必ず持っているに違いないと思い込んでいるのだろう。
となれば、うまいこと怪力女を押さえ込み、向こうの誤解に付け込む形でこの場を逃げ出すことは必ずしも不可能ではないかもしれない――俺は一瞬そう考えたが、すぐに内心でかぶりを振った。
うん、無理。そもそもの前提である「うまいこと怪力女を押さえ込む」ことがまず不可能だった。
もういっそのこと、何もかも諦めてこの美人(怪力)に刺されてしまおうか。その後、目が覚めて全部が夢でした、というオチがつくことにすべての望みを託したくなる。
だが、そんなことを考えながらも、俺は息を荒げつつ取っ組み合いを続けていた。
諦めるのも投げ出すのも好きではない。こんなわけのわからない状況とはいえ、ここまで必死にやってきたのだ。ここまできたら、なんとしても生き延びてやる。
そんな風に俺が妙な決意を固めた時だった。
「双方、そこまで!」
強い調子でその場に響き渡った声があった。
澄んだ響きを帯びたその声は、周囲の喧騒を貫く強靭さも併せ持っており、騒ぎ立てていた者たちが一様に口を噤む。
それは俺も同様で、叱声にも似た声が鼓膜を震わせるや、ほとんど反射的に動きを止めてしまった。
途端、ドン、と腹に強い衝撃を受けたのは、俺が動きを止めた隙を見計らった怪力女が、俺の腹を蹴り上げたせいである。
ちょうど怪力女にのしかかる格好になっていた俺は、たまらず後ろに吹っ飛ばされた。
「うぼぁッ!?」
牝鹿のようにしなやかな脚から繰り出された蹴りの威力は強烈で、たまらずくぐもった悲鳴をあげてしまう。そうしている間にも他の男たちが俺の周囲を取り囲み、俺は退路を塞がれてしまった。
素早く立ち上がった怪力女は、げほげほと咳き込む俺を油断なく見据えながら、鋭い声をあげる。
「あね様、どうしてお止めになるのですか!? このような若造、生かしてとらえたところで大したことを知っているはずはありません。ここで討ち取るべきですッ」
「綱成、その者は先ほど私を賊からかばってくれたのです。当家の人間ではないようなので詮議の必要はありますが、賊ではありません」
「あね様を……? し、しかし、当家の家臣と争っていたのは間違いございません!」
「それも含めて詮議の必要があるでしょう。なにより、賊がわざわざ刃引きした武器を持ち込むとは思えません」
それを聞いた瞬間、怪力女はむっと眉を寄せた。先ほど俺が投げ捨てた薙刀を拾い上げ、確かめるように目を細める。
「……たしかに。これに気づかないとは、危急の事態であったとはいえ、少々頭に血が上っていたか」
まだまだ修行が足りない、と悔やむように呟く怪力女。
そうして、彼女はあらためてじっと俺を見据えた。というか、睨みつけてきた。
髪やら服やらは寸前までの取っ組み合いのせいで土埃に塗れていたが、その美しさも迫力もまったく霞んでいない。ついでにいえば、こちらに向けた殺気と警戒の念も衰えていない。
怪力女は底冷えのする声で詰問してきた。
「貴様、いったい何者――いや、それはあとでじっくり訊き出してやる。名はなんとい、う……? って、ちょっと!?」
後半部分が怪訝そうな口調になった理由は明白であった。
つまり、どうやら助かったらしいと悟った俺が、意識を暗転させてどさりと地面に倒れこんだからである。意識が暗闇に飲み込まれる寸前、妙に慌てたような怪力女の声が耳に滑り込んできた。
不思議と可愛らしく聞こえる声だった。