第一章 まれびと(二)
凶悪な輝きを放つ複数の刃に追い立てられ、必死に逃げ出した俺を、血相をかえた男たちが後方から追いかけてくる。
「いたぞ、曲者だッ!」
「者ども、出合え、出合えぃ!」
時代劇か何かのようなその怒声は、関係のない立場であれば思わず笑ってしまうほど陳腐なものであった。
しかし、あいにくと、今まさに命がけの鬼ごっこを繰り広げている身としてはちっとも笑えない。
というか本気で何がどうなってるの?
心底からの疑問を抱えながら、俺は必死で両足を動かし続けた。
事の起こりは、いたって単純なものだった。
昨日、姿を消した白猫のことを案じながら日課の朝稽古(祖母が薙刀の師範をしており、俺もその教えを受けている)をしていたところ、昨日はどうしても見つけられなかった白猫がちょこねんと姿を見せたのだ。
そうして、白猫はこちらを招くようになーなーと鳴いてから、くるりと身を翻した。
首をかしげつつ、後を追った俺がたどり着いたのは、やはりというか蔵の前。ただ昨日と違うのは、白猫がきちんと俺を待っていたことで、こちらを促すような鳴き声をあげながら蔵の中に入っていった。
白猫に導かれるまま、俺は大きな鏡が収められた木箱のところにやってきた。すると、たしかに閉めておいたはずのフタが開いていることに気がついた。
不思議に思って中をのぞいても、特におかしなところはみつからない。鏡はきちんと箱の中に収まっている。
――しかし。
この時、俺はなんとも言いようのない強い違和感に襲われた。
鏡は確かにそこにある。
だというのに、鏡には俺の姿が映っていないのだ。稽古の途中だった俺は胴着袴のままで、手には稽古用の刃引きされた薙刀を握っている。なんとなく持ってきてしまったのだが、それらが鏡には一切映っていなかった。俺の足元にいる白猫の姿も、である。
それでいて蔵の光景はきちんと映し出されている。
ぞっとした。あいにく怪談の類は苦手なのだ。
思わず後ずさった俺を尻目に、白猫は慣れた様子で鏡の表面に前脚を触れさせ――そのまま、すっと姿を消した。
「……え?」
確かに目の前で起きたはずの出来事が信じられない。俺は半ば呆然としたまま、何かに導かれるように鏡に向かって手を伸ばし、そして。
――気がついたら、妙に広々とした部屋の中に立っていた。
部屋の中は暗かったが、それでもかろうじて室内の様子は見渡せる。ごちゃごちゃと荷物が詰め込まれていたうちの蔵とはうってかわって、中央に鏡だけが置かれた広い室内。
まったく見覚えのない部屋だった。少なくとも俺の家にこんな場所はない。
ふと気がつけば白猫の姿も消えている。ただ、正面の襖がわずかに開いており、おそらくはそこを通って出て行ったのだろう。
はっきりとは見えなかったが、襖には山水の模様が描かれており、奇妙に時代がかった雰囲気を醸し出している。
俺はおそるおそる襖をあけて外をのぞいてみた。
おそらくはどこかの広い建物の中と思われる廊下は暗く静まり返っており、近くに人の気配はない。
ただ、遠くの方から何やら大勢の人間の声が聞こえてくるので、無人であるというわけではなさそうだ。
その点は俺を安堵させたが、問題は声を発している人たちが、俺に友好的かどうかである。気のせいか、聞こえてくる声はえらく殺気立っているようにも思える。
冷静に考えるまでもなく、凶器(薙刀)を持った見知らぬ人間(俺)に友好的に接する人間がいるはずはない。
しかし、だからといって何も持たずに見知らぬ場所に踏み出していけるような豪胆さは持ち合わせていない。
俺は迷いながら周囲を観察してみた。
もうわかっていたことだったが、廊下の構造からして我が家とはまったく違うし、そもそも蔵の中にいたはずの俺が、どうしてこんな、どことも知れない場所に立っているのか。
考えられるとすれば、件の鏡であるが――
「……何も起きない、な」
室内に戻った俺は、改めて部屋の中央に安置されている鏡に触れてみたが何も起こらない。つけくわえれば、この鏡にはきちんと俺の姿が映し出されていた。
いわゆる「三種の神器」の一つに鏡が含まれているように、古来、鏡は神秘的なものとして扱われていたそうだが、人を問答無用で見知らぬ場所に放り出した挙句、片道切符とかタチが悪いにもほどがある。訴えられても仕方ないレベルの暴挙といえよう。まあ、鏡を訴えても俺が狂人扱いされるだけだがな!
「――うん、とりあえず落ち着こうか、俺」
自分の思考に明らかな混乱を感じ取った俺は、その場で大きく深呼吸した。
真っ先に感じたのは埃の臭いで、この点は蔵の空気とよく似ている。あまり人が出入りする部屋ではないのだろう。つまり、ここにいれば人目を避けることができるわけだが、隠れていれば無事に済むという保証もない。
というより、どことも知れない場所で、いつ見つかるかと怯えながら延々隠れ続けるというのは、ヘタに動き回るよりもよっぽど恐ろしいことではあるまいか。少なくとも、俺はそんなのゴメンである。
後から考えれば、もう少し慎重に行動するべきだったのだが、この時の俺にそんなことがわかるはずもなく。
意を決して部屋を出たとたん、俺は血相をかえた男たちに追いかけまわされる羽目になったのである。
◆◆
かろうじて物陰に身体を押し込み、身を隠すことに成功した俺は、ぜいはあと荒い息をはきながら周囲を見渡した。
どうやら追っ手をまいたらしい、と確信できたところで、ようやく肩の力を抜く。
心臓がどくどくと暴れまわり、中々しずまらない。走りまわっていたのはほんの少しの間だけで、普段であればここまで疲れたりはしないのだが、いま俺がいるのはまったく見覚えがない建物だ。
そこを勘だけを頼りに逃げまわっていたわけで、精神的な消耗が半端ではなかった。追いかけてくる男たちが手に持っていた凶悪な刃物が、精神の消耗に拍車をかけたのは言うまでもない。
おそらくは刀――だと思う。普通に考えれば偽物のはずだが、俺は祖母が持っている本物の薙刀を見たことがある。男たちが持っていた武器は、祖母のそれと同じ鈍い輝きを放っていた気がする。
いったい俺はどんな場所に入り込んでしまったのか。
「……凶器を持って不法侵入。まあ、追い回されても仕方ないっちゃ仕方ないが、さすがに真剣は勘弁してほしいな」
息を整えながら、俺は嘆息まじりに呟く。あまりにもあんまりな事態を前にして、かえって落ち着いてしまった感があった。
あらためて自分の格好を見下ろしてみれば、たしかに「曲者」と言われても仕方ないのだ。薙刀に刃引きがしてあることなど普通の人にはわからないだろうし――刀を振りまわして侵入者を追いかける人たちが普通かどうかは議論の余地がありそうだが――実際、自分の家にそんな人間が現れたら、俺も間違いなく追い払おうとするだろう。
問題はその方法が過激に過ぎるところだが、侵入者である俺が文句を言ったところで、向こうは聞く耳を持ってくれないだろう。
双方が幸せになるために、俺は一刻も早くこの建物から立ち去る必要がある。
幸い俺を追っていた男たちの声は遠ざかっている。というか、どうも騒ぎの源は俺だけではないようで、騒然とした雰囲気があちこちから伝わってくる。
怒声、悲鳴、そして断末魔のような叫び声も混ざっていて、知らず俺の顔は強張っていた。もしかしなくても、今、自分が非常にやっかいな場所にいることは明らかである。
「三十六計、逃げるが上策なり」
そんな言葉を呟きつつ、そそくさと立ち上がる。
左右を見回し、人影がないことを確認した上で、なるべく音をたてないように急ぎ足で歩き出す。
ほどなくして中庭らしき場所に出たときは、思わずほっと安堵の息をこぼしてしまった。
そうして、よし、脱出だ――と一歩踏み出した時だった。
「あら?」
「へ?」
どうやら俺と同じく、騒ぎから逃げてきたらしい女性とばったりと出くわしてしまう。
一言でいって、ものすごい美人だった。年齢的には俺とそうかわらなそうだから、美少女というべきか。
『芙蓉の顔、柳の眉』というのはこういう容姿の人を指す言葉なのだろう。
長く伸びた黒髪は黒真珠を溶かしたかのように鮮麗で、澄んだ瞳は深い思慮を宿して優しく煌き、眉は描いたように理想の曲線を形作っている。すっと通った鼻筋、桜色の唇、いずれも非の打ち所がなく、名工の手になる彫刻を見ているかのようだ。
あまりに顔立ちが整いすぎていて、かえって人間味が乏しく感じられるほどだが、急いでここまで逃げてきたためだろう、少女の頬は上気して赤く染まっており、その朱が少女に人としての温かみを添えていた。
壮絶なまでの美少女の登場に、俺は自分を取り巻く状況を忘れ、数瞬の間、ぽかんと見入ってしまう。
一方の少女は、そんな俺を不思議そうに見つめ返していた。たぶん、俺の間抜け面からして刺客の類ではないと察したのだろう。
険しい表情を浮かべて俺の前に立ちはだかったのは、少女の護衛とおぼしき少年の方だった。こちらも、ちょっとびっくりするくらい綺麗な顔立ちをしている少年が、顔に険を浮かべて俺を睨んでくる。
「おのれ、曲者め、こんなところにも潜んでいたのか!」
少年は線が細かったが、小太刀を構える姿に隙はない。見たところ十二、三歳くらいの子なのだが、普通に俺より強そうである。
誤解を解こうにも、俺が不審者であるのは額縁付きの事実であるからして、一筋縄ではいきそうもない。
だが、少なくとも害意は持っていないということを伝えるべきだろう。俺は手に持っていた薙刀を庭に放り出そうとする。
が、その寸前、またしても事態が動いた。
にわかに躍り出る幾つもの黒影。どうやら本当に待ち伏せしていた者たちがいたようで、あたりはたちまち騒然とした空気に包まれる。
「いたぞ、氏康だッ!」
「討ちとれ! 関東に仇なす賊を滅する千載一遇の好機であるぞッ!!」
面上に殺意を漲らせた男たちが怒声を張り上げて迫ってくる。
何が何やらわからないまま、俺は騒動の真っ只中で立ち尽くしていた。