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第一章 まれびと(一)


「うーむ、どっから聞こえてくる鳴き声だ、これ?」

 俺は首をかしげながら自宅の庭をさまよい歩いていた。

 関東平野の端っこに位置する俺の生まれ故郷は、都会の喧騒から離れている分、山や川といった自然がそれなりに残っており、四季の移ろいを居ながらにして楽しむことができる。

 個々の住居の敷地も広く、蔵やら別棟やらが建っている家もめずらしくない。我が家に関していえば、小さな蔵と、同じく小さな道場が建っており、俺がその鳴き声に気づいたのも道場で汗を流した帰りだった。



 にゃー、という鳴き声は間違いなく猫のものだ。

 うちでは犬猫は飼っていないが、よそ様の飼い猫や野良猫が入り込んでくるのはめずらしいことではない。なので、普段ならば気にも留めないのだが、ともすれば宙にとけてしまいそうな、おそらくは子猫のものと思われる鳴き声は、家に帰ろうとする俺の足を引き止めるには十分すぎる破壊力(?)を持っていた。



「おーい、どこにいるー?」

 返事など来るはずもないとわかっていたが、俺はそんな呼びかけを行ってみた。もう間もなく日も暮れる。このまま鳴き声を放っておいて、翌朝、庭の隅に子猫の死体が転がっていようものなら、気が咎めるどころの話ではない。



 何度目のことか、どこからか「にゃあ……」という力ない鳴き声が漂ってきた。その声は奇妙にこもっていて、どうにも場所を特定しづらい。うちの庭であることは間違いないのだが。

「蔵の中、じゃないよな?」

 俺は視界の端に建っている蔵に視線を移して首を傾げる。

 この蔵には先祖代々伝わるガラクタ――もとい、歴史ある品物が多数押し込められている。中にはけっこう貴重なものもあるそうで、蔵の入り口には常時鍵がかけられており、窓には侵入を防ぐ鉄格子がはめられていた。

 窓の位置は高く、身軽な猫をもってしても中に入ることは不可能だろう。伝って歩くような木も生えていない。



 そのため、俺は最初から蔵という選択肢を捨てて子猫の捜索を行っていたのだが、あらためて耳を澄ませてみると、蔵から聞こえてくるような気がしないでもなかった。

 しばし考えた末、俺は家に戻って蔵の鍵をとってくることにした。高校に入った年、つまり二年前に鍵の持ち出しは両親および祖母から許可をもらっているため、子供の時のように、無断で蔵に入ったことがばれて折檻される恐れはない。



 当時のことを思い出し、叩かれた尻をさすりながら、俺は蔵の中に足を踏み入れた。ここに入ったのは年末の大掃除以来だから、ざっと四ヶ月ぶりくらいか。閉めきっていた部屋特有のなんともいえない埃くささが鼻をつく。

 稜線の向こうに隠れつつある西日では蔵の中を照らす光源たりえず、俺は備え付けの懐中電灯を手にとった。



 ざっと周囲を照らして電池が切れていないことを確認する。

「うむ、相変わらずごちゃっとしてるな」

 そのうち徹底して掃除した方がいいのでは、などと考えながら床や壁に電灯の光をあてていく。

 残念ながらというべきか、案の定というべきか、子猫の姿は見当たらなかった。



 これは外れか、と俺が踵を返そうとした時だった。

「にゃー……」

「うお!?」

 これまでとは比べ物にならないくらいはっきりと、猫の声が聞こえて来た。間違いなくこの蔵の中だ。

「どこだー?」

 懐中電灯を片手に奥へ足を踏み入れていく。蔵自体の広さはたいしたことはないのだが、なにしろ大小のガラクタがあっちこっちに積まれていてどうにも動きづらい。足元に注意して歩いていたら、頭を別の荷物にぶつけてしまい、結果、崩れ落ちたガラクタの山に埋もれそうになる、などという洒落にならない事まで起きてしまった。



 子猫が元気な状態であれば、いきなりの騒音に驚いて脱兎のごとく逃げ出してしまったことだろう。

 しかし、俺が見つけた時、その子猫は逃げる元気も残っていない様子だった。

 真っ白な毛並みが埃まみれになって床に横たわっている。

 時おり思い出したように発する鳴き声は、親を呼んでいるのか、飼い主を求めているのか。いずれにせよ、このまま放っておくわけにはいかない衰弱具合であった。



 俺が不器用に抱きあげると、子猫はむずがるように、あるいは抵抗するように身動ぎしたが、それもすぐにおわり、俺の腕の中でぐたっとしてしまう。

 これは本気でやばいかもしれん、と俺は慌てて踵を返す。今度は荷物を崩さないように注意して蔵の入り口に戻る。

 蔵から出ようとした俺は、ふと気になって後ろを振り返った。電灯の光もなく、黒々とした闇がわだかまる蔵の中は、夕暮れ時の外の光景とあいまって、男の俺でも少しぞっとする雰囲気が漂っている。



「……どこから入り込んだんだ、こいつ?」

 内心にひっかかっていた疑問を低声で呟いてみる。

 答えはどこからも返って来なかった。




◆◆




 その後、ネットの猫情報を漁ったり、猫を飼っている友人に話を聞いたりした結果、どうやらこの白猫は生まれてからそれなりに日が経っていることが判明した。歯並びやら爪の出し入れやらを見るに、もうミルク以外の食べ物も必要であるようだ。

 綺麗な毛並みを見るに野良とも思えないが、首輪はついておらず、近所に動物病院などという便利なものもない。つまり、とりあえず俺が食事の世話をするしかないのである。食べる物を食べれば、出る物も出るわけで、そっちの用意もしなければならず、俺は日が暮れた街中をあっちこっち駆け回り、慣れない買い物に四苦八苦しなければならなかった。



 幸い、白猫は大きな怪我や病気をしていたわけではなく、ただ腹を空かせていただけのようで、数日を経ずして元気を回復した。

 母親経由で獣医さんにも診てもらうこともできた。ひとまず命の危険は去ったと判断してよいだろう。

 慣れない苦労をした甲斐があったというものだが、元気になった白猫が俺よりも母親と父親に懐いてしまったことが、微妙に釈然としない今日この頃である。ちなみに祖母は友人たちと旅行中だった。




 母いわく「あんたがでっかすぎて怖いんじゃないかしら」だそうな。反論したいところだが、俺が近づくとこそこそ逃げ出す白猫の様子を見るに、案外母親の言うとおりなのかもしんない。

 そんな俺に同情したわけでもないのだろうが、普段は寡黙な父親が眼鏡のふちに手をあてながら意見を口にした。

「この猫の名前が関係してるんじゃないか。ほら、母さんや私が耕太郎の名前を呼ぶと、この子も反応するだろう?」

 その意見を肯定するかのように、父親が俺の名前を口にした途端、白猫はにゃーと鳴いて父親の方をうかがった。

 ためしに俺が自分の名前を口にすると、鳴きこそしなかったが、こちらにも反応を見せる。



 ふむ、となると、白猫の懐き具合の差は、名前を呼んでくれる人と、呼んでくれない人との差だったのか。

 それはそれで納得できる話だったが、この推論が正しいとすると――

「やっぱり飼い猫だってことだよな」

 首輪がないことや、どうやって蔵の中に入り込んだか、といった疑問はあったが、ともあれ飼い猫ならば飼い主を探さねばならない。



 しかし、うちの近所で白猫を探している人はおらず、商店街まで足を伸ばしても結果はかわらなかった。まさかこの子猫が山やら川やらを越えて隣市からやってきたとも考えにくい。

 どういうことか、と首をひねりつつも、白猫がいる生活に少しだけ慣れはじめてきたある日、なにやらにゃんにゃんと騒ぎ立てる声に気づいた俺は、白猫を見つけた蔵の前で、くるくると地面をまわりながら鳴き声をあげているコータロー(仮名)の姿を見つけた。




 どうやら中に入りたいらしい、と察した俺は鍵をあけてやることにした。もしかしたらネズミか何かが開けた穴が外と繋がっているのかもしれない。そんな穴を放っておいたら、貴重な品物がネズミにかじられて台無しに、なんてことになりかねない。

 扉を開くと、コータローは俺の足元をすり抜けるようにして蔵の中に突入していった。制止する暇もありはしない。

 慌てて後を追って蔵に入ると、中は数日前と同じように暗く、そして静かだった。コータローの鳴き声はもちろん、動きまわっている気配もない。

「おい、コータロー?」

 名前を呼んでみても鳴き声はかえってこなかった。



 俺は首をかしげ、懐中電灯を片手に奥へと入っていく。今日は高窓から陽光が差し込んでおり、先日よりはまだ歩きやすい。

 と、その途中、がたり、と何かが倒れる音がした。

 いきなりのことで、俺は思わず身構えてしまう。

「……コータロー?」

 呼びかける声に応じる声は、やはりない。



 ほどなくコータローが倒れていた蔵の奥にたどり着いた。

 見れば、同じ場所にやたら細長い木の板のようなものが倒れている。おそらく、さっきの物音はこれが倒れた時の音だろう。

 よくよく見れば、それは板ではなくフタだった。すぐ近くに立てかけられていた長大な木の箱を塞ぐ長細いフタだ。



「なんだ――――って、をぅッ!?」

 何が入っているのかと電灯片手に中を覗き込んだ途端、まったく同じタイミングで目の前に誰かが現れて、俺は思わず咽喉の奥で変な声をあげてしまう。咄嗟に後ずさらなかったのは、我ながら大した胆力であった――実際は、驚きのあまり一歩も動けなかっただけだったが。



 見れば、相手も同じように驚いたのか、凍りついた格好のまま動かない。俺と同じくらい背が高く、俺と同じように懐中電灯を手に持っている――――ん?

 そこまで考え、俺は違和感に気づいて眉間にしわを寄せた。

 そうして、あらためて眼前の人影を観察すると。

「……なんだ、鏡か」

 箱の中に置かれていたのは、人の全身を写しだす大きな姿見だった。

 見れば、姿見の木枠には何やら精緻な彫刻が施されており、四隅には鈍い輝きを放つ丸い珠がはめ込まれている。まさか本物の宝玉ではあるまいが、長年、蔵の中に置かれていた物とは思えない輝きを放っていた。



 改めて見てみれば、鏡の表面も磨きぬかれたように綺麗であり、こちらも長らく放置されていたものとは思えない。

 おそらくこの姿見は祖母がいっていた「貴重な品」の一つなのだろう。

 そこまで考えて、俺は唐突に我に返った。

「って、鏡なんてどうでもいいな。おい、コータロー?」

 倒れていたフタを木箱にはめ直すと、俺は白猫の姿を求めて周囲を探しまわった。

 タイミングからいって、おそらくフタが倒れたのはコータローがぶつかったためだろう。何かしらの理由ではずれかけていたフタが、その衝撃で倒れてしまったのだ。

 となると、コータローは必ずこのあたりにいるはず――そう考えた俺は、しかし、白猫の尻尾の先すら見つけることができなかった。



 気がつけば、蔵に入ってからずいぶんと時間が経っている。

 これはもしや、俺が探している間にこっそり蔵から出て行ったパターンか。そのことに思い至り、思わずため息が出る。

 これだけ探しまわって見当たらないのだ。少なくとも、蔵の中で怪我をして動けなくなっている、なんてことはないはずだ。

「なんか、無駄に疲れたな」

 両肩のこりをほぐしながら、愚痴るようにそう呟く。念のためもう一度あたりを見回してから、俺は蔵から出て鍵をかけた。



 家に戻った俺は、そこに平然とした顔で毛づくろいしている白猫がいることを予想した、のだが。

 白猫の姿はどこにも見当たらなかった。





◆◆◆





 相模国、小田原城。

 城の奥棟の一画を歩いていた北条綱成は、ふと子猫の鳴き声を耳にした気がして足を止めた。

 と、その綱成に向かって、見覚えのある白猫が嬉しげに駆け寄ってくる。

 その姿を認めた綱成の目が丸くなった。

「コ、コタロー……?」

 それは十日ほど前に行方不明になった氏康の飼い猫だった。氏康や綱成にいたく懐いていたのだが、ある日突然姿が見えなくなり、それっきり戻ってこなかったのだ。

 好奇心から城外に出て獣に襲われたのか、あるいは帰る道がわからなくなって迷ってしまったのか。いずれにせよ、狩りもできない子猫にとって、十日間という時間はあまりに長すぎる。残念だが、もう生きてはいないだろう――綱成は半ばそう覚悟していたのだが。



 綱成の表情がぱっと明るくなる。

 常日頃、何かとしかめっ面でいることが多い綱成だが――事あるごとに城外に出ていってしまう義理の姉の監視等で無駄に忙しい――柔らかく微笑を浮かべた表情は、見る者を引き付ける魅力に溢れていた。

 それも当然といえば当然の話で、綱成の実弟である弁千代は、相模はおろか東国でも随一と謳われる美貌の持ち主であり、その姉である綱成も弟に優り劣りのない容姿の持ち主であるのだ。

 その美貌が目立たないのは、綱成が北条家の主力部隊である五色備えの一、黄備えを束ねる勇将として戦場を駆け回っているためであるが、綱成自身が己の容姿に関心を払っていない、という理由も大きい。




「コタロー、あなたどこに行ってたのよ、もう! 義姉様あねさまがどれだけ心配なさっていたか。いえ、それより怪我はない? お腹は空いて…………なさそうね」

 感激の赴くままに言葉を重ねていた綱成であったが、胸に抱えた白猫があくびをしているのを見て、たちまち半眼になった。

 猫的には、いきなり強く抱きかかえられてびっくりしているのだが(あくびは落ち着くための仕草)、綱成から見れば暢気に眠りを貪ろうとしているようにしか見えない。



 よくよく見れば、毛並みも艶やかで、怪我をしている様子もなく、空腹でもないようだ。誤って外に出た子猫が、命からがら逃げ戻ってきた姿ではない。もしかしたら、どこか裕福な商家にでも入り込んで、家人に気に入られていたのかもしれない。

「まったく、さんざん人に心配させておいて。あなたがいなくなってからというもの、義姉様は萎れた大根の葉っぱみたいになっていたのよ?」

 綱成の言葉はまったくの事実である。

 さすがに家臣たちの前では毅然としていたが、私室に戻った氏康が力なく打ち萎れているところを綱成は何度も目にしている。そのたびに励ましていたのだが、さすがにこの頃は慰めの言葉も尽きてきたところだった。



 飼い主に心配をかけたことをわかっているのかと問う綱成に対し、コタローはもう一度あくびを返す。

 はあ、と綱成は深々とため息を吐いた。

「ま、いいわ。無事に帰ってきたなら、それが一番でしょう。早く義姉様にお知らせしてさしあげなくては!」

 白猫を抱えたまま、綱成は足を早めた。



 綱成がもう少し冷静であれば、白猫が駆け寄ってきた方向に『鏡の間』と呼ばれる家祖 北条早雲由来の開かずの間があることに思い至ったかもしれない。

 しかし、口ではなんと言おうとも、自分も深く子猫を心配していた綱成は安堵の感情に浸りきっており、その事実に気づくことはなかった。



 ――この時は、まだ。 



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