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序章 河越夜戦

 空には煌々と輝く月、地には赤々と燃える炬火。

 天と地と、二つの光源が夜の闇を払い、武蔵野の台地に河越城の偉容を浮き上がらせている。

 時に天文十五年(1546年)四月、城を取り囲む敵軍は数え上げれば八万に達し、武蔵の国における北条家の重要拠点を重囲の下に置いている。

 この戦に敗れれば、北条家はただ武蔵を失うだけに留まらず、関東諸侯への影響力を喪失し、相模、伊豆の維持さえ難しくなるだろう。

 まさしく危急存亡の秋。

 決着の刻限はもうすぐそこまで迫っている。




「――後に河越夜戦と呼ばれる戦いの始まりであった……と、続けられたらいいんだけどなあ」

 言って、俺はぺちんと自分の頬を叩いた。気合を入れるためであり、弱気の虫を払うためでもある。

 この戦いは何としても勝たねばならないのだ。それは未来知識の整合性を保つためでもなければ、勝利によって得られる北条家の覇権のためでもない。そんな小難しいことは、事が終わってから考えればいい。



 右も左もわからなかった俺に居場所を与えてくれた人たちの『これから』を、こんなところで奪われるわけにはいかない。

 氏康様や綱成様の柔肌を、上杉の狒々爺どもの手に委ねるとか、想像しただけで虫唾が走るというものである!



 ――若干、ヨコシマな感情があることは否定しません、はい。

 残念ながら、恩義や忠誠という清い感情だけで命を懸けられるほど出来た人間ではないのだ。俺こと風間耕太郎かざま こうたろうは。

 まあ、別にお二人の内どちらかと恋仲であるというわけではなく(冗談でもそんなことを言ったら綱成様に蹴っ飛ばされる)、単に憧れの感情を抱いているだけなのだが、憧憬を抱く女性ひとたちのために命を懸けるというシチュエーションは、軟弱な現代っ子にも戦う気力を与えてくれるようだった。




「耕太郎、ここにいましたか」

 草を踏みしめる音に続いて、鈴を転がすような声が耳朶を震わせる。

 俺が慌てて振り返ると、そこには予想どおり、今現在の俺の主君である北条氏康様の姿があった。

 戦地にあることから鎧は着用したままだが、兜は外している。ぬばたまの、と形容したくなる綺麗な黒髪をまっすぐに垂らした氏康様の鎧姿は、ここ半年あまりでそれなりに見慣れているはずの俺の目から見ても、十分に美しく、また雄雄しく映る。『相模の獅子』の二つ名に偽りなし、というところだ。

 もっとも、氏康様ご本人はあまりその名を好んではいないようだけど――いや待て、そんなことを考えている場合じゃなかった。




「ちょ、氏康様!? お休みになられていたはずでは!?」

「それは私の言うことです、耕太郎。あなたも休むように、と命じておいたはずですよね?」

「それは、その……そうです! 城の綱成様たちが心配でッ」

「ならば、私と同じですね」

 軽やかにこちらの口を封じた氏康様が、そっと俺の隣に立つ。

 氏康様は女性にしては長身の方だが、俺はその氏康様よりもさらに頭一つ以上背が高い。一部の家臣たちからは冗談まじりに「六尺(およそ180cm)殿」とか呼ばれている。

 この時代にあっては結構目立つ背の高さであり、無駄に頑丈な身体とあいまって、俺が甲冑をまとって薙刀を構えるとかなり威圧感がある、らしい。

 それだけが理由というわけではないのだが、俺が氏康様の馬廻り(親衛隊)に任じられた理由の一つはここにあったりする。



 と、氏康様が囁くように口を開いた。

「……まるで野火のよう」

 敵軍の陣所で焚かれている無数の炬火は、氏康様のいうとおり、野原に燃え広がる火事に見えなくもない。あるいは、北条家の領土を侵食する敵軍を指して氏康様はそう言ったのかもしれない。

 彼方の炬火を見やりながら、氏康様はさらに言葉を続けた。

「耕太郎」

「はい?」

「死んではなりませんよ」



 やや唐突とも思える言葉だった。

 ここで敵陣を見据えていた氏康様の顔が身体ごとくるりと俺に向けられる。それを見た俺も慌てて氏康様に向き直る。すると、氏康様は真剣そのものといった様子で俺を見上げてきた。

「あなたは客人まれびとです。私たちにたくさんの善きことをもたらしてくれました。コタロー(氏康様の飼い猫の名前)を救い、私と綱成の命を助け――刀自(とじ 年配の女性への敬称)の病が快方に向かったのもあなたが訪れてからです」

「氏康様、それは……」

 俺が反論しかけると、氏康様はくすりと微笑んでから、小さくかぶりを振った。

「自分の手柄ではない、というのでしょう? けれどこの場合、大切なのはあなたがどう思うかではなく、私たちがどう受け止めたか、なのです。少なくとも私はあなたの訪れに感謝しています。綱成も、きっと同じ気持ちのはず」

 素直に口には出さないでしょうけれど、と氏康様は意地っ張りな義妹をフォローする。



「けれど、客人はいずれ帰るものでもあります」

 そう言ったとき、氏康様の顔から微笑は拭われていた。

「私は北条家の当主として、あなたを父君と母君、そして祖母君のもとへ無事に送り届ける義務があります。この戦いへの従軍も、本当なら許すべきではなかったのかもしれない……」

 氏康様の顔を覆った感情は後悔ではなかったが、それに限りなく近いものではあった。

 俺は主君の懸念を払うべく、やや早口に言葉を紡ぐ。

「氏康様。先にも申し上げましたが、北条家が滅びてしまったら帰るも帰らないもありません。たとえ戦死を免れることが出来たとしても、寄る辺をなくしたそれがしはどこぞで野垂れ死にするしかないのです。仮に帰れたとしても、お世話になった方々の危難を見過ごしにしたとあっては、ばあちゃんに脳天を叩き割られるか、母さんに三枚に下ろされるか。いずれにしても無事にはすまないでしょう」



 わりと本気の言葉だったのだが、氏康様は俺が主君を気遣って軽口を叩いたと判断したらしく、目元をやわらげ、にこりと微笑えみかけてくれた。

 うん、めっちゃ可愛いのだけど、なんだろう、意図せずに最高の結果を出してしまったせいで、そこはかとなく落ち着かない。

 その感情に急かされるように、俺は慌てて続けた。



「ですから、この戦いに加わることはそれがしにとっても必要なことなのです。残念ながら、戦に勝利をもたらすような智恵や武勇の持ち合わせはございませんが、この図体をもってすれば氏康様の矢よけくらいは務まりましょう」

 俺がそう言うと、氏康様の顔からすっと笑みが消えた。少し眉根を寄せた氏康様が何事か口にしようとした、その時だった。



「おーい、風間の兄貴?」

 闇の向こうから、ただ一人の部下が俺を探している声が聞こえて来た。耳を澄ましてみれば、他にも何人かいるようだ。

 俺一人を探すためにそんな人数が動員されるはずもないので、たぶん氏康様を探しにきた馬廻りの者たちだろう。

 というか、いま気づいたが、自陣とはいえ氏康様は護衛なしで歩き回ってたのか。危ないなあ。



「氏康様、皆が心配しているようです。そろそろ戻りましょう」

「……はい、そうですね。皆も疲れているでしょう。余計な仕事を増やすわけにはいきません」

 氏康様の諒解を得た俺は陣幕へ戻るべく歩き始める。夜闇の中に響くのは、鎧の軋みと、のっそのっそとした俺の足音。そのすぐ後に氏康様の軽い足音が続く。

 背に主君の視線を感じながら、俺はわずかに足を早めた。





◆◆◆





 北条氏康はすぐ前を歩く風間の背を見つめながら、今しがた彼が口にした言葉を胸裏で反芻した。

『矢よけくらいは務まりましょう』

 その言葉に自然と口許がへの字を描いてしまう。

 風間に対する不満ではなく、相も変わらず上手く言葉が伝えられない氏康自身に向けられた感情だった。



 これも臆病の為せる業か、と氏康は内心でため息を吐く。

 退くことを知らない戦いぶりから『相模の獅子』などといわれる氏康であったが、その性根は、鉄砲の音に驚いて泣き出した子供の頃からさしてかわっていない。誰よりも本人がそのことを知っている。

 自分は生来臆病だ。だからこそ、戦いぶりが猪突猛進になる。本当の勇気がある者、たとえば義妹の綱成は、間違っても戦場で突出しすぎて家臣に怒られたりはしない。

 相模の獅子などという呼び名は、明らかに過大評価の類だった。




 その綱成は河越城の守将として氏康の身辺を離れている。

 もちろん、他に頼りになる配下は多くいるが、彼らはあくまで北条家に仕える家臣である。御家の浮沈をかけた戦にあって、氏康は彼らに強さをこそ示さなければならず、一片の怯懦も見せてはならない。

 氏康は思う。

 本来ならば、今頃自分は双肩にかかった責任の重さで心身を苛まれていたはずだ。

 今回の戦いは常の戦とは違う。敗れれば、自分はもちろん、多くの家臣とその家族、家来、領民が亡国の憂き目に遭い、塗炭の苦しみを味わうことになる。

 そして氏康は、祖母以来の北条家の創業を無に帰した暗君として、未来永劫、消えることのない悪名を歴史に刻み込むことになるだろう。




 そんな一大決戦を控えているというのに、今、氏康の肩は不思議と軽かった。

 勝つための方策を練り、そのための準備を整えてきた。戦に対する自信が肩の重みを取り除いたのかもしれないが、それでも八万もの敵軍を目の当たりにした衝撃は小さいものではなく、平静を保てている理由としては少々薄い。

 なにより、これまでだって十分に勝算が立っている戦で猪突してきたのだ。この戦にかぎって、というのはおかしな話である。



 であれば、これまでの戦にはなく、この戦にはある――そんな要因が存在しているはずだった。

 そして、氏康にはその心当たりは一つしかない。



 矢なんかよりも、もっと重く、辛いものをあなたは遠ざけてくれているのだ。

 そんな風に伝えるべきだと思うのだが――そして実際に先ほどそれを口にしかけたのだが、一度機会を逸してしまうと、改めて口にするのはどうにもためらわれる。

 結局、この日、氏康はその言葉を口にすることは出来なかった。



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