奪還
音無が退出し、部屋は幾分かの静けさを取り戻した。しかし、一度張りつめてしまった空気の緊張はそうそう容易くは解けてくれない。研究者は皆一様に、すべき行動に迷っていた。
「まったく……」
敷島は溜息をつく。口元は緩んでいた。あの男、音無はそういう男だ。体裁として無機質無情を取り繕ってはいるが、実態は大いなる熱血漢である。でなければ、相手が怪物とは言えあのような手段に出るようなことはない。そして、始末をつけるのはいつも自分だ。
敷島は手を叩いた。研究者が注意を向け、空気の緊張がふっと解ける。同時に、今後の指示を出し状況をもとに戻す。
「『標本』を戻すとしよう。手術台を持ち上げて、カルディオグラフをもう一度装着してくれ。『標本』が戻り次第、尋問を続けるのでそうなればまたよろしく頼む。」
「わかりました。主任」
「くれぐれも変な気を起こさないでくれよ。これは貴重なサンプルなんだ。失うのは惜しいからね」
「承知しておりますよ」
研究員の返答に敷島は笑って答え、部屋を後にした。鉄扉が音を立てて閉まり、扉越しに聞こえる足音が右側へ進み、やがてかすんで聞こえなくなる。部屋に残された7人は一息をつき、敷島の指示通りに紗綾を固定している手術台を元へ戻し、カルディオグラフを再設定した。静寂を取り戻した部屋に、ピ・ピ・ピという電子音が響く。研究員たちはバインダーをそれぞれ手にし、作業に戻った。
その瞬間を待っている者がいた。天井を這う換気ダクト、その通気口で室内と紗綾の様子をうかがっていた「それ」は、何人もこちらへ注意を向けていないことを確認し、格子を蹴り破る。
「!?」
「なんだ!?」
心電図のみが鳴っていた室内にステンレスの塊が叩き付けられる。当然、けたたましい音が周囲を駆け巡り、研究員は一斉に音源へ意識を向ける。落とされたそれはタイルを割り、留め具たるボルトを散乱させていた。そして、ぽっかりと口を開けた換気ダクト。その先は暗闇に覆われているため、窺い知ることはできない。しかし、何かがいることは直感できた。
「………」
研究員がそれぞれアイコンタクトを取り、バインダーを置いて懐から拳銃を取り出した。口径9ミリ、装弾数15発。すでに初弾は装填されており、人間相手には十分だ。二人の研究員がそれを構え、恐る恐る換気ダクトへ向かった。真下に来る。二人は拳銃を、視線を通気口へ向けた。
瞬間、暗闇から「狩人」が解き放たれる。二人の視界がそれの目で覆いつくされた。
「ひっ!」
悲鳴を上げる暇などない。一瞬のうちに二人の研究員は眉間にナイフを突き立てられ、即死した。援護に回っていた残りの研究員は、引き金を引く暇さえなかった。あまりに一瞬、そして唐突な襲撃であったのだ。
「狩人」が視線を向ける。黒いフードを頭から被っている様だが、その異様な眼差しははっきりと認識できた。研究員は皆、恐怖に駆られる。銃口はわなわなと震え、一人は歯をカタカタと鳴らし、一人の口からは言葉が紡がれつつある。
「わ……!」
悲鳴を上げかかったが、それ以上何もなかった。不審に思った他の者が確認すると、ナイフが研究員の喉を貫通している。「狩人」が放ったのだ。目測5メートルから、寸分たがわずに。研究員は口から血の泡を吹き、空気の漏れるひゅー、ひゅーという音を立てながらうつ伏せに倒れた。
3人死んだ。研究員たちの理性が崩れた。
「ひぃ……!」
引き金に触れた研究員の眉間にナイフが放たれる。4人。
「たす……」
命乞いした者の心臓にナイフ。5人。
「にげ……!」
逃げ出した者の頸椎。6人。
「やめ……」
眼孔。7人。
研究員は皆殺しになった。一切の銃声もなく、断末魔さえなかった。「狩人」は血で赤黒く染まったフードを脱ぐ。男だ。意外なほどに整った顔立ちをしており、何より少年と呼べるほどの幼さをまだ残している。しかし、その表情には一切の感情が見受けられない。7人をあっさりと殺したにもかかわらず、だ。
少年はそのまま紗綾へ近づく。紗綾は未だ放心状態だった。懐から新たなダガーナイフが取り出され、刃は彼女の体へ向かって延びる。
しかし、切り裂かれたのは紗綾ではなかった。彼女の体を固定している革ベルトだ。少年はその後も黙々と革ベルトを裂いていき、ついには紗綾の身体は自由になった。そのまま両手で、少年は紗綾を優しく抱きかかえる。状況の変化に紗綾は気づき、我を取り戻す。ふと顔を見上げると、目が合った。
「あなたは?」
自然に言葉が紡がれる。少年は顔色一つ変えず答えた。
「あなたを、守るように言われている者です」
「私を?」
「ええ。今はここから出ましょう。少し狭いですが……よろしいですか?」
「あ……はい。私はその……」
紗綾はふと少年から目をそらす。瞬間、視界に飛び込んだのは血飛沫と死体の数々だ。皆一様に目を見開き、口を半開きにし、ナイフの柄を急所から生やしている。写真ではなく、実物だ。しかも、さっきまで動いていたモノ。あまりにも“現実離れ”したその“事実”は、紗綾を再び混乱へ誘う。目が震え、歯がガタつき、声が漏れ、そして絶叫が腹の底から湧き上がる―――
「それは止めて頂きたい」
悲鳴を止めたのは少年だった。紗綾の恐怖を察知した彼は、抱え方を変えたのだ。それまでの優雅な横抱きから、尋問のように右腕を首に回し左手で口を押えた方法へ。紗綾は必死に目だけで背後にいる少年の表情をうかがう。制止した際の冷たい声、わかる範囲での鋭い視線。同じ人物であることは確かだが、しかし態度があまりにも別人だ。
「どうしたのですか。お目覚めになられたのでは?」
紗綾には何を言っているのかわからない。目は覚めた。放心状態からも救われた。しかし、なぜそれが悲鳴を上げないことと関係するのか。だが少年はそんな紗綾をよそに、結論をつけた。
「まだ完全ではない、ということですか」
「何が……?」
「お許しを」
それだけ言うと少年は右腕の力を一気に強め、紗綾の首を絞める。一切の呼吸、そして血流が紗綾から奪われた。命の危機に紗綾は必死の抵抗を見せる。足をばたつかせ、少年の腕を引っ張り、顔を殴る。しかし、あまりにも大きな力の差にそれらは全くの効力を発揮しなかった。酸素が頭に廻らず、目の前が暗くなっていく。抵抗も弱くなっていく。やがて意識は遠のいていき、紗綾はまたしても意識を失った。
「……」
紗綾の意識が失せたのを確認した少年はふっと腕の力を弱めた。殺意などはハナからない。あくまでも自分の役目はこの少女を守ることなのだ。運びやすくするために紗綾を肩に抱え、立ち上がる。体格に見合わない足取りの軽さだ。そして、鉄扉の先を睨む。室外十数メートル範囲に足音を聞き取った彼は、紗綾を抱えて通気口の下まで歩き、一跳びで、それこそ暗闇へ吸い込まれるようにして、ダクトの中へ姿を消した。後に残ったのは無人の部屋だ。血と、7つほどの死体で彩られた。
「やられたな。これは。定時連絡がないと思ったら、これか」
数十分後、部屋を訪れた敷島は至極簡素な感想を述べた。やれやれといった表情で、軽く笑みを浮かべながらだ。それに対して音無は一人黙々と死体を確認している。一体一体、死ぬ間際に何があったかを探るために。
「ナイフで、一瞬だな。そこから出てきて、投げたんだろう。堂々とやってくれた」
「おまけにサンプルにも逃げられた」
「いや“奪われた”んだろう」
「『会社』の連中かな?」
「わからんさ。だが千羽紗綾の居場所はわかる」
音無は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、アプリケーションを起動した。位置情報機能を利用した物であるようだが、自身を示す点のほかに点滅する点が一つ移動を続けている。それこそが紗綾につけられた発信機の場所であり、『奪還者』の居場所でもあるのだ。
「止まった場所がアジトだ。明朝、行くぞ」
「死体はどうする?」
「処理班に任せろ。……丁重にな」
「わかったよ」
それだけの会話を交わし、音無は部屋を出る。彼の左こぶしからは、幾筋かの流血が見られた。