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ブラッディ・フィアー ―血染めの戦慄―  作者: らぷたー
act1―A incident―
7/9

覚醒

 九死に一生。自分が瞬間的な生命の危機を回避したことに紗綾は気づいていなかった。当面の危機が眼前に健在であるからだ。地面に突っ伏して、そこから顔を上げる勇気が無い。


 背後から足音、間隔から察するに走っている。紗綾の横をすり抜けて異形へと向かっていく。異形が威嚇の声を上げる。牛か豚かのそれに唾が絡んだような、気味の悪い鳴き声だ。怯まず、足音の主は直進する。


 金属音、そして液体が溢れだす、吐瀉物の様な音が紗綾の耳へ届く。


 音の正体であろう生暖かい液体をもろにかぶり、ほぼ同時に硫黄の腐った様な、強烈そのものといえる悪臭が鼻を貫き、紗綾はますます体を縮める。それは巨大な何かが地に伏す音が聞こえても、足音の主が紗綾に近づいても続いた。


「ふぅ。……もう、大丈夫よ。顔を上げて。噛まれたりしてない?」


 聞き覚えのある声に紗綾は目線だけ向けた。視界は紅く染まったプラットホーム、そしてあまりにもその場に似つかわしくない笑みを浮かべた見憶えのある人物が、南校のブレザーを真っ赤に染めてこちらに屈んでいる。紅い牡丹そのものと言えるほどの姿をしたその女を、紗綾は知っていた。無意識に、その名を呟く。


「湯浅先輩……?」

「ご名答。貴女は確か、今日の説明会に来ていた娘よね。危なかったけどもう大丈夫だから、落ち着いて。ケガとか……」


 弥栄子だった。弥栄子は柔和な口調で落ち着くように紗綾へ諭すが、そんなことが今の紗綾に出来るはずがなかった。なんとか起き上がり、焦点の定まらない目が主の周囲を駆け巡り何が行われていたのかを突きつける。


 首から腹まで袈裟切りに裂かれ、臓物をまき散らし上下半身が脇腹の皮一枚で繋がっている状態の異形……おそらく死骸だ。伏せた状態からも確認できたが、制服を真っ赤に染めて屈む弥栄子。その右手には一振りの刀が握られていた。もともと、うっすらと紅く見えたその刀を今ははっきりと紅いと言い切れる。真紅の鮮血が刀身はおろか柄までをも染めていたからだ。


 何が起こったのか、紗綾は理解した。あの、居合道部副部長の、湯浅弥栄子が日本刀を用いあの異形を斬殺したのだ。紗綾はパニックを起こした。日常が、一瞬で非日常へ転換される。全く分からない。謎だ。頭痛がする。無意識に紗綾は弥栄子から離れ、頭を抱えて泣き叫ぶ。これで気が晴れるわけではないが、こうでもしなければ自分が壊れてしまいそうだった。


 弥栄子はそんな紗綾を見せつけられ、責任を感じずにはいられなかった。自分の刀を見て紗綾が恐怖した事までは何とか理解できたため、刀を鞘に納めてゆっくりと近づき、肩に手を当てる。紗綾が体を震わせたが、構わずに特別気を使って話しかける。


「怖がらせちゃったみたいで、ごめんね。落ち着いて、大丈夫だから。何があったのか、私に話してくれる?」


 弥栄子のそれに紗綾は幾分か落ち着きを取り戻し、嗚咽を漏らしながら口を開いた。


「RAIL触ってて……マンホールが飛んで……化け物が……駅の人を……駅の人を……」


 そこまで聞いて何があったのか察した弥栄子の顔色が一瞬で青ざめた。紗綾には窺えなかったが、最悪の状況であることは想像に難くない。紗綾を無視して弥栄子は振り返ったが、すべてが遅すぎた。視界に広がったのは異形の、もう一匹の異形の縦に裂けた口だけだ。


「ぐっ! ぎ……あああああ!!!」


 首筋に激痛、異形に食いつかれたことを弥栄子は一瞬で理解した。あまりの痛みに弥栄子は悲鳴を上げずにはいられない。それを聞いて紗綾はやっと弥栄子の方を向いたのだが、眼前の光景はあまりにも凄惨すぎた。


「きゃあああ!! 湯浅先輩! 先輩!」


 紗綾が叫ぶ。ほとんど悲鳴だ。だが異形は一向に弥栄子を離そうとせず、滴る鮮血を貪っている。丸腰で、非力な紗綾に出来る事はただ情けなく声を上げること、それだけだった。


 いや、一つだけある。異形に揺さぶられている弥栄子の腰に、一差しの武器が眼前に存在している。異形を叩き斬り、紗綾を救ったあの日本刀だ。紗綾はとっさにそれを鞘から抜き去り、弥栄子から奪う。重い。紗綾は刀の重量が想像以上であったことに戸惑ったがそんなことに面喰っている暇などない。何とか振り上げ、異形の伸び切った首へ狙いを定める。


「うわあああ!!」


 紗綾は叫び、狙いめがけて一気に刀を振り下ろした。斬れるはずだ。この道具はそもそもそういうために鍛えられたものなのだから。鮮血がほとばしり、皮を引き裂き、肉を断つ感触が刀越しに伝わる。


「えっ……?」


 が、それだけだった。刀は首のちょうど真ん中、骨で止まってしまっている。日本刀の切れ味は持ち主の技量に大きく関わるのだ。弥栄子のような玄人が振るえば刀は万物を断つ恐るべき刃と化し、素人が扱えばその逆だ。畳ですら斬ることができない素人が異形を切り殺すなどできるはずがない。


 しかし、弥栄子を助けるという本来の目的を果たすことはできた。異形は紗綾の一太刀に悶え、咥えていた弥栄子を紗綾へ投げつける。当然、紗綾は避けられなかった。弥栄子とともに吹き飛ばされ、プラットホームのコンクリートへ後頭部を強打した。


「っ……」


 鈍く、焼かれるような痛み。松明を押し付けられているようだ。口の中にも妙な味が広がっている。


 鉄か? 似ているが、違う。これは何だ? いや、知っている。これは血の味だ。自分はこの味を知っている。どこかで味わっている。紗綾は確信し、それが次々と連鎖していく。血の味、肉の感触、刀の扱い、そして異形の存在。紗綾はすべてを知っている。知らないはずだが、知っているのだ。


 痛みが引き、紗綾はゆっくりと起き上がった。目の色が、変わっている。冷えた鉄のように黒かった瞳は紅蓮の炎を思わせる赤に、おびえる子羊のような眼は獲物を狙う獅子のそれであった。


 弥栄子は気絶しているようだが意に介さず、腰から鞘も奪い去る。未知の記憶に従って刀身を収める。居合の構えだ。同じく異形は痛みから立ち直り、咆哮する。唾が飛び散り、顔にかかったが紗綾は眉ひとつ動かさなかった。そんな紗綾に業を煮やしたのか、異形が突進する。決して早くはなかったが、熊のような巨体が身を揺さぶりながら走るのはあまりにも威圧的過ぎた。紗綾は一歩も動かない。異形がそのまま飛びかかる。


 初めて、紗綾が動いた。刀を抜くのではなく帯刀した状態から柄頭を突き出し、異形のみぞおちに当たる部分を強打する。飛びかかった勢いと自重が加えられた柄頭の強烈な一撃を急所に受けた異形は紗綾に食いつくことを完全に放棄し、蹲って痛みと戦おうとする。


 紗綾はそれも見逃さなかった。異形の首が下がった瞬間、今度はその顎へ柄頭を振り上げる。骨が砕ける醜悪な音が駅構内に響き渡ったが、間髪入れず紗綾は打ち上げた頭へ回し蹴りを叩き込んで血を好む異形にコンクリートの地面を味あわせる。


 率直に言えば、紗綾は遊んでいた。みぞおちに柄頭を打ち込まずに一閃していればカタはついたのだが、それをしなかったのが大きな証拠だ。だがこの足元で痛みに悶える異形を見下ろしながら、あまりにも遊び甲斐のないこの相手に紗綾は失望した。ゴミを見るような冷たい視線を向け、鞘を持つ左手の親指で刀の鍔を弾く。


 異形が咆哮ともに起き上がった。悲鳴としか捉えられない、痛々しく弱弱しい声だった。だが今の紗綾にはその声に同情や憐れみを感じるほどの情は持ち合わせていない。鍔を弾いた刀の柄に右手をかけ、一気に鞘から引き抜く。


 軌道上の異形の首は瞬時に刈り取られ、宙を舞った。なめらかな断面からは噴水のように鮮血が吹き出し、そして、一瞬で固まった。異形の首から延びる幾筋もの血柱はさながら紅玉の彫刻のように光を乱反射し、ある種の美しさを感じさせるが悪趣味であることは変わりなかった。


 紗綾はその先端を折り、何の躊躇もなく口に含んだ。しばらくは口の中で転がしていたが、やがて吐き出し、異形には蹴りを入れて死骸を線路上へ落とした。当然血柱はレールに触れて砕け散り、もはや見る影もない。口に合わなかった。紗綾が求めた血の味は、こんなものではない。もっと味わい深く、上品で、高揚感を得るような……


「う……」


 弥栄子がうめき声を上げた。気絶から目を覚ましたのだ。紗綾はその声に気づき、振り返って顔に笑みを浮かべる。血のように紅い瞳のまま浮かべられた笑みだった。



「ようやく、お目覚めになりましたか」


 物陰に隠れ、全てを見ていた男は一人呟いた。端正な中にどこか幼さが残る顔には、紗綾の変化に対して笑みを浮かべている。この後の手はずは整っていた。自分は紗綾の前に現れ、連れていけばいいのだ。簡単な話だ。


「む?」


 だが手はずというものは狂うものだった。駅の入り口付近でエンジン音と共に扉の開閉する音が聞こえたのだ。人が来る。それも大勢だ。男は直感した。ここで出ていけば、己の存在を知らせに行くようなものだ。それにはまだ、早かった。


「忌々しい人間風情が……」


 心情をそのまま吐露し、男は闇の中へと姿を消した。痕跡すら残さず、煙のように……

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