遭遇
南校最寄りのローカル線駅、海江田駅は通学生の約3割を占める電車通学生がよく利用する駅だ。学校近くの団地に住む千鶴と別れ、ベンチに座ってスマートフォンを弄る紗綾もまたその電車通学生の一人だった。ホーム画面からRAILを起動し、先ほど撮影した弥栄子の写真を選択してアップロードしようとする。が、一点だけ気になった。
「なんか、違うなぁ」
実物の弥栄子はもっと輝くような、麗しい雰囲気を身に纏っていた。しかしこの写真ではその雰囲気が吹き飛ばされ、全くの別人と言っても過言ではない。画像編集機能なるものがRAILに備わっていることを紗綾は千鶴から聞いてはいたが、あいにく最近スマートフォンにデビューした紗綾はそれをどう使えばいいのか皆目見当がつかなかった。適当に弄り回していると、あろうことか写真を削除するという大失態を晒してしまう。
「あ! あ、あぁ……」
紗綾は頭を抱え、天を仰いだ。駅には客が紗綾一人だけだったために行えた仕草だ。我ながらなんと不甲斐ないのだろう。せっかくの写真を削除してしまうとは。この先いくら弄ろうとも、写真が帰ってくることはない。紗綾は諦め、スマートフォンを収めて俯いた。これはもう、気持ちが落ち着いてから茜に謝るしかないだろう。紗綾は決心した。視線の先にあるマンホールの蓋も、それに頷くようにカタンと音を立てた。
「?」
紗綾は不信に思った。風はない。雨も降っていない。マンホールが音を鳴らす要素は何もない。それなのに、音が鳴った。コトン、二度目だ。蓋が上下に動いたのを今度は確実に確認できた。
何か、いる。直感し、紗綾はマンホールから離れた。後退り、5メートル。マンホールの動く感覚はどんどん小さくなり、動く幅はどんどん大きくなった。そして蓋が吹き飛ばされ、紗綾の足元で転がった。
けたたましい音が駅を駆け巡る。だが、紗綾はそんな事に構っていられる余裕は無かった。ただ、目の前で起こっている事を理解するのに手が一杯だったのだ。マンホールの蓋を吹き飛ばし、今まさに深淵から這い出て来たもの。それは異形としか形容し得ない者だった。
蠢く血の塊であるように見えるが、四つん這いのような姿勢で辛うじて四肢は認識できる。顔に当たるであろう部位は縦に裂けた口がその大部分を占めており、目や鼻等は分からなかった。頭から首にかけての部位にてらてらとした毛が生えており、それがますますこの異形の生理的嫌悪感を高めている。こふぅ、こふぅという荒い息を立てながら肉体を揺らし、一歩また一歩と紗綾に向かって熊のような手足を近づけてくる。紗綾は一歩も動けなかった。
「おい、何だ! ……なんだこれは」
音を聞きつけた駅員がプラットフォームへ駆けつけ、異形に遭遇した。当然のように彼は当惑したが、勇敢なその男は目の前で固まっている客の前に踊り出で、避難を促した。それが彼の職務であり、男子の矜持だからだ。
「君、は、早く逃げなさい! 早く逃げ……ぎゃああああ!?」
職務は果たせなかった。異形がそれまでの動きからは想像もつかないほど素早く首を伸ばし、駅員の首筋へ喰らいついたのだ。鮮血が飛び散り、紗綾の体をも赤く染める。血が、赤が、紗綾の理性を壊した。
「きゃ、きゃあああああ!」
喉も張り裂けんばかりに紗綾は叫んだ。目は虚ろ、腰は砕け、涙と鼻水をば垂らした無様な姿で。異形は痙攣を起こす駅員を両手で押さえつけ、破れた頸動脈から溢れる液体を卑しいまでに残さず味わっている。びちゃびちゃ、じゅうじゅう、気味の悪い音を立てながらだ。が、飽いたのかそれとも紗綾の悲鳴にやっと気づいたのか、食事を止め、血の滴る穢れた口を紗綾に向けた。そしてまた、一歩、一歩と紗綾に歩みを進める。
「ひっ! こ、来ないで……来ないでよぉ! 来るなよ!」
後退りしながら精一杯の強がりを吐くが、まだ腰は砕けたままだ。異形でなくとも、恐れを感じる者はいない。当然のように異形は意に介さず歩みを進める。そして、駅員の命を奪った首が、再び紗綾の首元めがけて放たれた。恐るべき速さ、紗綾は全く反応できない。
「伏せて!」
声。それに従う他紗綾に選択肢は無かった。地べたへ横たわり、無様な姿を晒す。だがその為に異形の首は紗綾を捕らえる事は能わず、空を切った。