プロローグ
それは深夜の出来事だった。南原市の路上を街頭に照らされながら自転車で家路を急ぐ一人の女性がいた。彼女、河上昌子は市内の大学に通っている女子大生であり、アルバイト先の居酒屋がこの日はあまりにも忙しく、望まぬ残業に手伝わされた結果がこの状況だった。
「もうマジ最悪。今日はレポート課題もあるのに。辞めようかな、あそこ」
自宅近くの曲がり角に差し掛かる。虫の居所の悪い昌子はそこを普段よりもかなり内側を攻めて曲がろうとした。その瞬間、一つの小さな何かが不意に昌子の前へ飛び出した。
「あっ!」
咄嗟にブレーキを掴んだが勢いは収まらない。その上カーブ途中の急ブレーキによって勢いはあらぬ方向へと拡散され、昌子はバランスを完全に失った。行き着く先は転倒だ。自転車から放り出された昌子は他人の家の門を強引に開きながら地面に叩きつけられた。
「うぅ……もう、何なのよ!」
飛び出した何かが通った先には電柱があった。そして影には一匹の野良猫がこちらを覗き込んでいる。これが正体だった。猫はじっとこちらを見つめているが、昌子にはそれがイタズラがばれてしまった子供のように感じられた。愛らしい怯えた様子に、昌子はそれまで持っていた憤りや怒りといった暗い感情がすっと消えていくのを感じた。
「……まぁ、今日だけは許したげるわよ」
猫に言葉が通じるのかはわからないが、昌子はそう話して自転車を起こした。こんな所で道草を食っている場合ではないのだ。今日は早く変えてレポート課題を仕上げなければ……
ぴたり。湿った冷たいなにかが昌子の両肩に触れた。スライムの用に柔らかいが、先端が異様に硬く尖っている。ぽつぽつと上から小雨のように、ねばねばした液体が滴り落ちてくる。
何だ? 後ろに、頭上に気配を感じる。何者か、いや「何か」がいる。昌子はおそるおそる液体の元である頭上を見上げた。
口だ。ヒルのようなチューブ状のそれの内側には尖った白い歯がびっしりと生え揃っており、内側に潜む二つ目の口も同様だった。
何だ? 何だ? 何だ? このグロテスクなものは何だ? わからない。口が、昌子の首筋へ伸びる……
ーー人とは思えない悲鳴。しかし寝静まった町では、昌子のそれは誰にも聞こえない。ただ一匹の猫がいるだけだ。
悲鳴から五分ほど経ったか。足が地を離れた昌子は相手のされるがままにぶらぶらと身体を揺らしていた。もう声を発することはないだろう。ピクリとも動かない。「何か」は獲物を地面に落としてゆっくりとその場を離れた。猫も電柱から逃げ出す。残されたのは、首筋に二つ重なった噛み痕のある、全身の血液を抜かれて横たわる昌子の亡骸だけだった。