1.2
銀色の光はもう見えない。
とりあえず、赤い固形物は摘まんで落しておく。
もしかしたら、指紋とかついて居るかもしれない。
俺、捕まるわけには行かない。こんなつまらないことで。でも、どうしても、駄目だ。
倒れている女に向かって、再び包丁を振り下ろす。指紋を採取できる場所を消してしまおう。そういうことには全く詳しくないけれど、とりあえず、ぐちゃぐちゃなら何とかなるかもしれない。俺が何度も刺しているのは腹の辺りで、顔や足はまだ原形を留めている。包丁を数回ふって血を飛ばしてから、足の付け根の皮膚を裂いた。
酷い臭いだ。さっきはなんでこんなことをしたのか分かっていない。
吐き気が襲ってくる。
生気を失っていく肌。瞳孔の開いた瞳。赤い血。人間の中。初めて見るものばかり。いやだ嫌だいやだ。気持ち悪い。なんで俺がこんなことしてんだ。俺は早く家に帰って姉に夕飯を作ってげなくちゃいけないんだよ。俺はこんなことをしている暇はないんだよ。
足の皮膚をずたずたにした後で、腕に移る。
もう嫌だ。俺の代わりにやってくれ。誰も見てないよな。誰も見てないよな。大丈夫だ。俺なんだから。今朝の新聞で占い一位だったしさ。大丈夫大丈夫。もうこんなことしている時点で占いは正しいのかどうか怪しいけどな。
よし、次は顔だ。最後。これで最後。お前も災難だったなあ。まあ、美人じゃないし、死んだってあんまり変わらないよな。
俺もだよ。俺も、お前と一緒だ。お前と唯一違うのは、息をしているというところなんだよ。俺は、ただ息をしているってだけで、生きている意味なんか持ってないんだよ。本当に、生きている意味なんか無いんだよ。俺は死んでいるも同然なんだけど、生きていたいよ。こんなんでもさ、生きていたいんだよ。死にたいとか、思う暇なんてないし。そんなことを重いくらいなら、バイトした方がマシだし。俺、結構前向きじゃないか、これならいけるかもなんて思っちゃう辺りさ、自分に甘いんだけど。それも愛嬌かなって。姉は自分に厳しすぎるんだよな。自分のことを理解してくれる最強の人間を、なんで優しくしないのかな。いいじゃないか、甘えて、甘やかして。でれでれで。それで良いんだよ。俺、俺のこと大好きだし。そんな事、今だけかもしれないけど。後五分後には自分のこと大っ嫌いかもだけど。でも今だけでは好きだし。
俺はもう顔だとは思えない肉の塊から包丁を引き抜く。そして、包丁を元通りにタオルでくるんで紙袋に入れた。
「ごめんな」
立ち上がって、服の前を払いながら、血みどろの物を見下ろす。
俺がやったのか。なんで、こんな真似。
俺は口元を抑えた。知らないうちに口からは唾液が漏れて、汗でべとべとで、酷いありさまだった。帰って風呂に入りたい。落ち付きたい。眠りたい。お腹は減っていない。
立ち去ろうとした時だった。暗い路地の奥に、誰かが立っているのに気が付いた。
まさか。まさか。まさか。見られていたのか。まさか。まさか。
俺の手は知らず知らずのうちに紙袋の方に手が伸びていた。
なんだこれ。なんなんだよ。俺、また誰かを殺すつもりなのかよ。簡単だよな。もう一回やっちまったし。とか、呑気なことを思っているのだろうか。
二つの瞳が、闇の中で不自然に光っている。こっちを見つめて、動かない。だけど、俺に見えている事に気が付いたのか、一歩こっちに来た。
怖い。こっちに来るな。殺すぞ。俺はもう、一人を殺しているんだよ。俺が怖くないのかよ。俺が人を殺しているのを、見ていただろう。俺のこと、コレのこと、みんなに言うつもりだろ。口封じをしなくちゃ。俺、まだ生きていたいんだよ。俺、まだまだ生きていたいって。俺は。殺すか、殺さないか。いや、まだだ。
まだ、待て。
「殺したんに」
冷静な声だった。
俺は、俺は。俺はこんなに動揺しているっていうのに。落ち付いて、子供みたいな声。少年のようだ。いや、声で分かるのは子供だってことだ。
どこか何かを忘れているような、何かの音を出せていないような、変な声音。聴いたことがない楽器の音色を聴いているようだった。
子供はもう一歩踏み出す。ようやく姿が見えた。
汚らしく伸びた髪に、ぼろきれのような服。
一目で、孤児だとわかった。ゴミを食って雨水を啜るごみのような人間。路地裏で生きる、子供。大きな目は光っていない。
吊り上った両目は、俺を責めるように見上げている。
「殺したんに、謝るんか。面白い奴」