呪い
男に腕を掴まれたまま、綾崎志乃は息を整えることすらできなかった。
近くで見るほど、その男の異質さは際立っていた。体格は細身なのに、空気の張りつめ方だけが尋常ではない。彼の周囲だけ温度が違うのではなく、密度そのものが違う。そんな錯覚を覚えるほどだった。
逃げようとしても、身体がいうことをきかない。
男の指が志乃の腕を強く締め上げているわけではない。
それなのに、そこから伝わってくる鋭い気配が皮膚の下へ入り込み、神経の動きまで止めてしまうような恐ろしさがあった。
「どうやってここへ入った」
男の声は低く、抑えられていた。
詰問というより確認に近い響きだったが、その静かさがかえって逃げ場のなさを際立たせていた。
「……し、知らない」
志乃は喉を鳴らしながら答えた。
自分でもひどく情けない声だと思った。
「気づいたら、扉が開いてて」
言葉を継ぎ足しながら、志乃は必死に相手の目を見返そうとした。
目を逸らしたら終わる気がしたからだ。
「迷い込んだだけで、あたし……」
そこまで言いかけて、寝台の上の女が視界の端に入る。
細い糸のような弱い気配が、また自分へ伸びてきていた。
助けを求めるように。
志乃の呼吸が一瞬止まる。
男はその視線の動きを見逃さなかった。
「見たな」
短い一言だった。
その途端、部屋の空気がさらに冷えた気がした。
志乃は反射的に首を振る。
「見てない」
否定は、ほとんど反射だった。
「何も見てないし、何も知らない」
そう言いながらも、嘘だと自分でわかっていた。
この部屋を見た。
寝台の女を見た。
男の異様な気配も感じた。
何も知らないふりなど、できるはずがない。
男はしばらく黙って志乃を見ていた。
その目に怒りはない。
むしろ静かすぎて、何を基準にこちらの生死を量っているのかまるで読めなかった。
やがて、男は志乃の腕から手を離した。
解放された、と一瞬だけ思う。
だが次の瞬間、今度は志乃の顎を軽く持ち上げ、逃げ場のない角度で正面を向かされた。
冷たい指先だった。
その温度の低さに、背筋が粟立つ。
「お前はここに来るべきではなかった」
男の声は低いままだった。
責めているようでもあり、もう手遅れだと告げているようでもあった。
「なら、帰してよ」
志乃は震える声をどうにか押し出した。
強がりではない。
ほとんど祈るような気持ちだった。
「あたし、誰にも言わないから」
言った瞬間、男の目がほんのわずかに細くなる。
その変化だけで、志乃は直感した。
信じてもらえない。
それどころか、この男は最初から“信じる”という選択肢を持っていない。
「言うかどうかは問題ではない」
そう告げる声は、ひどく平坦だった。
まるで、個人の意思など最初から計算に入っていないと言うように。
「知った時点で、お前は危険だ」
志乃の胸の奥が一気に冷えた。
殺される。
その言葉が、ようやく遅れて現実味を帯びる。
悲鳴を上げようとした。
けれど男の指先が、顎から離れてそのまま喉元へ触れた瞬間、声は途中で引き裂かれたみたいに消えた。
「……っ」
息だけが漏れる。
男の手のひらから、細く鋭いものが流れ込んでくる。
それは熱ではなかった。
むしろ逆に、凍るほど冷たい。
針金の束をそのまま喉から胸へ押し込まれたみたいに、異物感が一気に内側へ広がっていく。志乃の感覚は人の霊気力に反応しやすい。だからこそわかった。
これは脅しではない。
いま、自分の中へ何かが刻み込まれている。
志乃は男の手を振り払おうとした。
だが力が入らない。
喉だけではなく、胸骨の裏、心臓のまわり、肺の奥へまで、細い氷の線が巻きついていく。言葉を形にする場所を、ひとつずつ塞がれていくような感覚だった。
視界がぶれる。
白い照明がにじみ、寝台の女の輪郭が遠ざかる。
男の声だけが、やけにはっきり耳へ落ちてきた。
「ここで見たこと、聞いたこと、知ったこと」
その一語一語が、呪文みたいに身体へ沈んでいく。
「それを他人へ話した瞬間、お前は死ぬ」
志乃の背骨に、ぞっとするほど冷たいものが走った。
死ぬ。
その一言が比喩でも脅迫でもなく、物理的な結末として胸へ突き刺さる。
男の霊気力は、ただ鋭いだけではない。
縛る。
切る。
命そのものへ条件を打ち込む類の力なのだと、理解したくもないのに理解させられる。
「そんなの……」
反射的に否定しようとした。
だが言葉は最後まで形にならなかった。
喉の奥が内側から締め上げられ、肺が痙攣する。
心臓が一瞬、強く握り潰されたみたいに痛んだ。
志乃はその場に膝をついた。
床へ手をつく。
吐き気が込み上げ、視界の端が黒く欠ける。
ただの思い込みではない。
気のせいでもない。
話そうとしただけで、身体の奥に食い込んだ何かが即座に反応した。
男は手を離した。
それだけで呼吸は少し戻ったが、喉の奥にはまだ細い棘のような異物感が残っている。胸の裏にも、冷たい輪がいくつも巻きついたままだった。
「忘れるな」
男は見下ろすように言った。
その声音に勝ち誇った色はない。
必要な処置を終えた人間の冷たさだけがあった。
「これは警告ではない」
志乃は床に手をついたまま、震える肩で息をした。
言い返したかった。
こんなのはおかしいと叫びたかった。
助けてと叫びたかった。
だが、どの言葉も喉へ触れた瞬間に冷たく閉ざされ、声になる前に砕けていく。
寝台の女の弱い気配が、かすかに揺れた。
まるで何かを伝えたがっているみたいに。
志乃は顔を上げる。
男の目が、初めてほんのわずかに変わった。
敵意でも殺意でもない。
測るような、見定めるような光だった。
志乃がこの呪いに耐えたこと、そのこと自体を、彼は何かとして受け取ったようだった。
だがその意味を考える余裕はない。
喉の奥の冷たさがまだ消えない。
胸の内側には、見えない楔が打ち込まれたままだ。
志乃は最後の抵抗みたいに口を開いた。
せめて悲鳴だけでも出せればと思った。
しかし漏れたのは、音にならない掠れた息だけだった。




