横たわる女
厚い扉の前で、綾崎志乃はしばらく指先を宙に浮かせたままだった。
ここから先に、あの二つの気配がある。
弱く、今にもほどけそうなもの。
そして、針のように鋭く張りつめたもの。
呼吸を整えようとしても、喉の奥がうまく開かない。鼓動だけがやけに大きく感じられ、その音で向こう側にいる何かへ存在を知らせてしまうのではないかと、そんな馬鹿げた不安まで浮かんだ。
扉の脇には、使われなくなって久しい認証盤が埋め込まれていた。表示は落ち、指で触れても何の反応もない。新しく継ぎ足されたらしい配線も、途中で壁の中へ消えていて、いま動いているのかどうかすらわからなかった。
志乃は小さく息を呑み、そっと扉の縁に手をかけた。
冷たい。
けれど、これまでの区画と違って、こちらにはわずかな隙間があった。完全に閉まっていると思っていたが、よく見れば、扉はほんの数ミリだけ浮いている。
押してみる。
重い抵抗が返ってきた。
だが完全な施錠ではないらしい。志乃が力を込めると、金属が擦れるような低い音を立てて、扉はゆっくりと内側へ動いた。
開いたのは、人ひとりがかろうじて身を滑り込ませられる程度の幅だけだった。
その隙間から、冷えた空気が流れ出てくる。
通路の乾いた匂いとは違う。
もっと濃い、薬品と金属と、長く閉ざされていた室内の匂い。古い医療設備のある部屋に入ったときに近い印象だったが、そこにうっすらと甘い花のような残り香が混じっていて、余計に現実味を失わせていた。
志乃は身体を横向きにして、中へ滑り込んだ。
部屋は思っていたより広かった。
真っ暗ではない。
天井の一部にだけ生き残っている照明があり、冷たい白光を斜めに落としている。その光が届く範囲だけが浮かび上がり、それ以外の四隅は影の中へ沈んでいた。
まず目についたのは、壁沿いに並ぶ大型の機材だった。
背の高い制御盤。
黒いままのモニター。
円環状のフレームを支える無骨な金属アーム。
床には何本ものケーブルが這い、途中で中央の台へ集まっている。研究室というより、何かを観測し、制御し、閉じ込めるための設備に見えた。
志乃は反射的に、すぐ脇の大きな制御卓の陰へ身を寄せた。
そこでようやく、部屋の中央にあるものが目に入る。
低い台。
いや、台というより、医療用のベッドに近い。
そこに、一人の女が横たわっていた。
志乃は息を止めた。
女は白い寝台の上で、まるで眠っているみたいに静かだった。年齢はすぐにはわからない。若く見えるのに、どこか時代から切り離された古い写真のような静けさがある。長い髪が寝台の端からこぼれ、青白い照明の下で黒く沈んでいた。
顔色は悪い。
だが、死んでいると決めつけるにはあまりに整いすぎていた。
睫毛は微動だにせず、唇は血の気を失っている。それでも頬の線や指先の置かれ方に、単なる遺体とは違う微かな緊張が残っているように見える。生きているのか、死んでいるのか、その中間で時間だけが止まっているような、不自然な静止だった。
彼女の周囲には、古い装置の名残のようなものがいくつもあった。
手首の近くに固定具。
寝台の下に走る細い管。
頭部を囲む半円形のフレーム。
どれもいま動作しているわけではなさそうなのに、撤去されることなく残されている。それが、ここでかつて何が行われていたのかを無言のまま示していた。
そして、その女の傍らに、一人の男が立っていた。
それが、鋭いほうの気配の主なのだと、志乃には一瞬でわかった。
男は寝台へ背を向ける形で、少しだけ身を屈めていた。黒に近い色の上着を着ている。丈の長いコートにも見えたが、室内の光が足りず、はっきりとはわからない。肩幅は広くない。体格だけなら細身のはずなのに、その場に立っているだけで空気が張りつめるような、奇妙な圧があった。
顔は見えない。
けれど、首筋から肩にかけての線に、ひどく無駄のない緊張がある。
まるでこの部屋の中で、彼だけが別の密度で存在しているみたいだった。
志乃は身体を低くし、制御卓の陰からそっと覗いた。
弱い気配は、寝台の女から流れている。
細く、頼りなく、今にも消えそうだ。
鋭い気配は、男から発せられていた。
人の霊気力というには輪郭が異様に鋭すぎる。削った刃の断面みたいに冷たく、そこへ触れた瞬間、自分の感覚が切り裂かれそうな怖さがある。
男はしばらく何も言わなかった。
ただ、寝台の女を見下ろしている。
その沈黙には、観察者の冷静さだけではなく、もっと個人的で、もっと深い何かが含まれているように見えた。執着。祈り。苛立ち。諦めきれない感情。そういったものが幾重にも沈んで、外からはわからない硬さになっている。
やがて男が、ゆっくりと手を伸ばした。
白いシーツの上へ置かれた女の手に、触れる。
その仕草は意外なほど静かで、乱暴さがなかった。
「もう少しだ」
低い声だった。
よく通るのに、ひどく抑えられている。
それは独り言というより、ずっと返事の来ない相手へ、それでも話しかけるのをやめない人間の声に聞こえた。
志乃の背中に冷たいものが走る。
この男は、女を傷つける側なのか。
それとも守ろうとしているのか。
わからない。
わからないまま、そのどちらでもあり得てしまうことが、いっそう怖かった。
男は寝台の傍らにある卓上端末へ視線を落とした。
古いモニターに何かの波形が細く灯っている。規則的ではない。ときおり途切れそうになりながら、それでも消えきらずに続いていた。
その光を見た瞬間、志乃は胸の奥のざわめきが少し強まるのを感じた。
この部屋には、まだ何かが動いている。
完全に止まった空間ではない。
そして、寝台の女もまた、完全には終わっていないのだと、そう思わされる。
志乃は唇を引き結んだ。
来てはいけない場所へ来てしまった。
見てはいけないものを見ている。
いまさらそんなことは、痛いほどわかっている。
それでも目を離せないのは、寝台の女の顔が、どこか苦しそうに見えたからだ。表情は動いていない。なのに、あの声がたしかにこの女のものだと、志乃の感覚が告げていた。
助けて。
来て。
そう呼んだのは、この人だ。
男が再び口を開く。
「待っていろ」
その声には、命令にも懇願にも聞こえる奇妙な響きがあった。
次の瞬間だった。
志乃の足元で、床に這っていた細いケーブルへつま先がかすかに触れた。
ごく小さな音だった。
けれど、この静まり返った部屋では、それで十分だった。
男の手が、ぴたりと止まる。
空気が変わった。
鋭い気配が一気に細まり、刃先のように一点へ向く。
志乃は息を呑んだまま、制御卓の陰で凍りついた。




