下へ
綾崎志乃は、左右に分かれた通路の前でしばらく立ち尽くしていた。
右はゆるやかに下っている。
左は先の見えない角へ続いている。
どちらも人を歓迎するような道ではない。だが、女の声と、あの白いざらつきのような気配は、明らかに右側へ流れていた。
塔の中で、下へ向かう。
そのことがひどく嫌だった。
高く伸びる建物の中に入ったはずなのに、感覚だけが地面の裏側へ沈んでいくようで、志乃の足はなかなか前に出ない。理屈ではない不安が、じっと喉の奥に張りついていた。
それでも、ここで引き返せるとはもう思えなかった。
入口の扉は閉じてしまった。
通信も不安定だ。
そして何より、自分はあの声を聞いてしまった。知らなかったことにして外へ戻れたとしても、たぶんもう以前と同じ気持ちでは白塔を見られない。
志乃は小さく息を吐き、右の通路へ足を踏み入れた。
床はわずかに傾斜しているだけなのに、数歩進むごとに身体が深い場所へ沈んでいく感じが増していく。壁の照明はさらに間隔が広くなり、光と影の境目がくっきりしていた。白い壁は同じ色のはずなのに、暗がりに近い部分だけが古い骨のように見える。
ざらついた感覚も、少しずつ濃くなっていた。
空気の中に、細かな粒が混じっているみたいだと志乃は思う。
それは埃ではない。
目には見えないのに、皮膚の上をかすかに滑っていく。人の感情や気配に触れたときの感覚と似ているのに、もっと広く、もっと曖昧で、ひとつの建物全体が薄く熱を持っているような異様さがあった。
その中に、二つ、別のものが混じっている。
一つは弱い。
今にもほどけそうな糸みたいに細く、どこか頼りない。
もう一つは鋭い。
針のように細く、硬く、一定の位置からほとんど動かない。
志乃は唇を噛んだ。
その二つを感じ取った瞬間、右のこめかみに軽い痛みが走る。自分の感覚はまだ不安定だ。掴めるときと掴めないときの差が激しいし、強いものに当たると途端に身体のほうが追いつかなくなる。
ここで無理をして倒れたら、それこそ終わりだ。
志乃は歩幅を落とし、深呼吸をした。
進むたびに、通路の左右には別の設備が見え始めた。
片側の壁には、長いガラス窓が並んでいる。向こうは部屋になっているらしいが、どれも照明が落ちていて、輪郭しかわからない。それでも、いくつかの部屋には奇妙な形の機材が残されていた。
志乃が足を止めて覗き込む。
細いアームが何本も伸びた架台。
天井から吊られたリング状のフレーム。
壁面いっぱいに埋め込まれた端子やケーブル口。
どれも、講義棟や研究棟で見かける現行設備とは少し違っていた。もっと古く、もっと剥き出しで、使う人間より装置そのものの都合で設計されたような無骨さがある。
別の部屋には、透明な円筒容器が二基並んでいた。
中身は空だ。
だが底部にはまだ配管が繋がっており、金属の留め具には乾いた光沢が残っている。何を入れていたのか考えた瞬間、志乃は反射的に視線を逸らした。
見たくない、と思ったからだ。
知らないものを見るのは平気なほうだと自分では思っていた。
けれど、この場所に限っては違う。見れば見るほど、ここが単なる古い施設ではなく、意図的に人の目から遠ざけられてきた場所なのだとわかってしまう。
通路の先で、照明が一度だけ明滅した。
その瞬間、壁の一部に薄れた文字が浮いた。
塗りつぶされた表示の下に、かろうじて旧い識別番号だけが残っている。
E―3。
その先の扉には、封鎖用の太いロックバーが外側から渡されていた。
もうひとつ先の区画では、逆に新しい認証パネルが後づけされている。古い施設の中に新旧の規格が無理やり継ぎ足されているせいで、空間全体の時間が歪んでいるようだった。
「……何なの、ここ」
思わず漏れた声は、やはり足元で吸われて消えた。
その静けさに押されるように、またあの声が届く。
「早く」
さっきよりも、少しだけ切迫していた。
志乃は息を呑み、暗がりの先へ視線を向ける。
声は右側のさらに先、下り坂の終わりから聞こえてくるらしい。人を呼ぶというより、残された力を振り絞って縋りついてくるような響きだった。
その弱々しさが、逆に志乃を動かした。
もし本当に、誰かが助けを求めているのなら。
そう考えた瞬間、足が前へ出る。
やがて通路は下りきり、短い踊り場にぶつかった。
その先には階段があった。
塔の中とは思えないほど幅の狭い、業務用の階段だ。手すりは金属製で、ところどころに薄い錆が浮いている。下の階は照明がさらに乏しく、途中から闇に呑まれて見えなかった。
その脇には古い昇降機の扉もあったが、こちらは完全に停止しているらしい。操作盤の表示は消えたままで、ボタンを囲む透明カバーだけが妙に新しかった。
志乃は階段の上で足を止める。
下から、微かに空気が上がってくる。
湿ってはいない。
むしろ乾いている。
それなのに、古い紙と金属と薬品の気配が混ざったような匂いがした。
そして、気配もまた、下から濃く立ち上っている。
弱いほうは、糸が切れかけたみたいに頼りない。
鋭いほうは、相変わらず動かない。
だが距離が縮まるにつれ、その“鋭さ”に別の感触が混じってきた。冷たいだけではない。集中しすぎた刃物の先端みたいな、張りつめた意志がある。
志乃の胸がざわつく。
あれは、見つかりたくない相手の気配だ。
直感的にそう思った。
階段を降りるたび、靴底に硬い反響が返る。
一段、また一段。
数えるのが嫌になる頃、踊り場の壁に大きなひびが一本走っているのが見えた。そのひび自体は古いものらしいのに、周囲だけ補修材で雑に塞がれている。まるで何かを隠すように。
さらに下る。
途中、階下の通路へ続く小さな覗き窓があり、その向こうに影のようなものが走った気がして志乃は思わず立ち止まった。だが見直しても、暗い床と壁しかない。
気のせいかもしれない。
そう思いたいのに、皮膚の内側では嫌なざわめきが広がっていく。
霊気力の感知は、志乃にとって便利な力ではなかった。
必要なときに必要なだけ見えるわけではない。むしろ、見たくないものほど不意に流れ込んできて、身体のほうが持っていかれそうになる。強いものに近づきすぎると、色も音も境目を失い、どこまでが外でどこからが自分なのか曖昧になることがある。
いまはまだ、その手前だ。
だが、近い。
ここからさらに下へ行けば、自分の感覚が乱されるかもしれない。
それでも降りるしかなかった。
途中でやめる、という発想はもうどこかへ消えていた。
下りきった先には、短い通路が一本、真っ直ぐ伸びていた。
照明はほとんど死んでいて、非常灯の青白い光だけが床を細く撫でている。その先、突き当たりにひとつだけ、他より大きな扉があった。
厚い。
研究区画というより、隔離室か保管庫を思わせる造りだった。
扉の脇には古い認証盤と、その上から雑に増設された新しい配線が見える。ガラス窓はない。代わりに、ごく小さな確認用のスリットが中ほどに設けられていたが、そこも内側から閉じられているようだった。
その扉の前で、志乃は息を止める。
弱い気配も、鋭い気配も、どちらもここから先にあった。
間違いない。
一つは横たわっているみたいに薄い。
一つはじっとそこにいて、動かず、けれど確実にこちら側を射抜いている。
志乃の背中を冷たい汗が伝った。
扉の向こうで、何かがいる。
そのことが、感覚ではなく確信に変わる。
そして次の瞬間、扉の向こうから、ごくかすかに女の声が届いた。
「……来て」
志乃は無意識に、扉の前へ一歩近づいた。




