白塔内部
扉が閉じ切ったあとも、綾崎志乃はしばらくその場から動けなかった。
白い壁は、最初からそこに継ぎ目など存在しなかったみたいに静まり返っている。
さっきまで背後にあったはずの夕暮れの気配は、もう一滴も残っていない。外気のぬるさも、遠くの車両音も、人が暮らす街のざわめきも、全部まとめて切り離されてしまったようだった。
志乃は慌てて振り返り、扉のあった位置へ手を伸ばした。
冷たい。
だが表面はぴたりと閉じていて、指先が継ぎ目を探しても、なめらかな石の感触しか返ってこない。
「……開かない」
自分の声が、思っていたよりずっと小さく聞こえた。
音が反響しない。
広い場所ではないはずなのに、声が壁や天井に当たって戻ってくる感じがまるでない。ただ前へこぼれて、そのまま消えていく。
志乃は端末を取り出した。
画面は点く。時刻も動いている。アリサからの返信はまだ来ていない。
だが通信状況を示す表示は、不安定に明滅したあと、あっさり圏外へ落ちた。
胸の奥が、ひやりと冷える。
外と完全に切れたわけではないのかもしれない。
それでも、いまこの場では誰にも頼れないのだと、機械的な表示ひとつで突きつけられた気がした。
志乃は端末を強く握り込む。
帰れない。
少なくとも、いま来た道をそのまま戻ることはできない。
なら進むしかないのか、と考えた瞬間、喉の奥が詰まるような感覚がした。選択肢がひとつしか残っていない状況は、志乃の性分に合わない。自分で選んでいるつもりでいたのに、気づけば追い込まれている。その事実がじわじわと焦りを広げていく。
それでも、立ち止まったままでは何も変わらない。
志乃は深く息を吸い、ようやく通路の奥へ視線を向けた。
白塔の内部は、外から想像していたものとまるで違っていた。
観光用のホールでもなければ、記念建築らしい装飾もない。目に入るのは、必要最低限の幅しかない直線の通路と、壁際に埋め込まれた細い照明、そして等間隔に設けられた無機質な扉だけだった。
白く清潔、という印象ではない。
むしろ長い年月のあいだ、人目を避けてきた施設の骨組みだけが、そのまま息を潜めているようだった。
床は磨き上げられてはいないが、埃だらけでもない。完全に放棄された廃墟なら、もっと荒れていていいはずだ。なのにここには、人がいなくなって久しいのに、誰かがたまに通っているような半端な気配が残っている。
志乃は一歩ずつ、慎重に進んだ。
靴音は小さく、足元で鈍く吸われる。
照明はところどころ明るさにむらがあり、一定の間隔でほんのわずかに明滅していた。そのたびに通路の白が灰色へ沈み、また浮かび上がる。その繰り返しが妙に不安を煽る。
左手側の壁には、古い案内板の跡があった。
プレートだけ外されたのか、文字は残っていない。だが四角く色の違う部分だけが壁に貼りついている。その下には細い配線カバーが走り、途中で床へ消えていた。
研究施設めいている、と志乃は思う。
少なくとも、学生や観光客を迎えるための空間ではない。
東都のランドマークの内側が、どうしてこんな場所になっているのか。そんな疑問が浮かぶ一方で、胸のざわめきはむしろ、この空間へ入ってからのほうが少しだけ落ち着いていた。
いや、正確には違う。
消えたのではない。
広がったのだ。
さっきまでは胸の奥で一点に固まっていた違和感が、いまは皮膚の内側へ薄く広がっている。色で言えば白に近い灰。乾いたガラスを爪でなぞったみたいな、細かいざらつき。それが通路の奥から絶えず流れ込んできて、志乃の感覚にひっかかっていた。
人の気配に似ている。
けれど、一人の人間の輪郭としては掴めない。
強い霊気力を持つ相手に近づいたとき、志乃はたまに色や圧のようなものを感じることがある。東都に来てからは、その感覚が以前よりも少しだけ鮮明になっていた。だが、いま感じているものはそれと同じでいて、少し違った。
誰かがここにいる。
そんな気配はある。
なのに、その“誰か”が一人なのか複数なのか、そもそも人間なのかどうかすら判然としない。建物そのものの内側に、何かが薄く染み込んでいるみたいだった。
志乃は思わず足を止めた。
右のこめかみが微かに痛む。
視界の端で、白い壁の輪郭がほんの一瞬だけぶれたように見えた。
強い反応ではない。
だが、普段からこうした感覚に慣れているわけではない志乃にとっては、それだけで十分に気味が悪かった。
通路の先に、小さなガラス窓のついた部屋があった。
近づいて覗く。
中は暗いが、照明の漏れだけで輪郭はわかった。壁沿いに古いモニターらしき機材が並び、中央には低い机、その周囲にキャスター付きの椅子が何脚か置かれている。どれも新しいものではない。金属の縁は鈍くくすみ、端末画面は黒いままだ。
ただ、完全な廃棄室には見えなかった。
机の上に積まれた書類はない。
椅子も雑に倒れたりしていない。
誰かが片づけたあと、時間だけが止まった部屋のようだった。
その先にも、同じような扉がいくつか続いている。
ある部屋にはガラスがなく、厚い金属扉だけが閉ざされていた。別の部屋の前には、読めなくなった識別番号の跡がある。古い非常灯はほとんど消えかけているのに、ところどころ新しく交換された部品も混ざっていた。
やはりここは、ただの遺構ではない。
捨てきられていない。
その中途半端さが、いっそう生々しかった。
志乃の喉が鳴る。
後悔がないわけではない。
こんな場所へ一人で入るべきではなかったと、遅すぎるくらいには思っている。
だが同時に、ここまで来てしまった以上、あの声の正体を確かめずに戻ることはできないとも感じていた。もし戻れたとしても、知らないままではたぶん、昨日から続くこの違和感はもっと大きくなる。
通路は少し先で左右に分かれていた。
右はゆるやかに下っている。
左は視界の先で暗がりへ折れていた。
塔の中なのに、下へ向かう構造になっていることに、志乃は薄ら寒いものを覚えた。上に伸びる建物の中へ入ったはずなのに、感覚としては地下へ降りていくみたいだ。
そのとき、耳の奥で不意に何かが弾けた。
音というより、感覚の粒が散るような反応だった。
志乃は思わず壁に手をつく。
白いざらつきの中に、別の色が混ざった気がした。
淡い。
けれど確かに、ひどく弱った光のような気配。
さらにそのずっと向こうに、針みたいに細く鋭いものが一本、こちらを向いている。
ぞわりと鳥肌が立つ。
強い霊気力に触れたときの感覚に近い。
だが位置が定まらない。
二つあるのか、それとも一つの気配が歪んで見えているだけなのか、志乃にはまだ判別できなかった。
「……誰か、いるの」
知らず、そう漏らしていた。
自分の声が通路に落ちる。
返事はない。
静寂だけが少し遅れて戻ってくる。
その沈黙に耐えかねて、志乃はもう少しだけ声を張った。
「誰かいますか」
言ってしまってから、ひどく場違いな呼びかけだった気がした。ここが普通の施設なら、警備員なり管理者なりが出てきてもおかしくない。だがこの場所に限っては、誰かが出てくること自体が恐ろしかった。
数秒。
いや、もっと短かったのかもしれない。
沈黙ののち、通路の奥から、あの声がした。
「こっち」
今度は、最初よりも近かった。
女の声だった。
弱っているのに、芯だけは妙にはっきりしている。
左右に分かれた通路のうち、下りになっている右の暗がりへ、白いざらつきがゆっくりと流れていく。
志乃は唇を引き結び、その先を見つめた。




