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境界線

白塔の足元に現れた細い扉を前にして、綾崎志乃はしばらく息をすることすら忘れていた。


開いている。


ほんのわずかに、だが確かに。


管理施設なら施錠されていて当然だ。そもそも一般に立ち入れる場所ではないはずなのに、扉は志乃が見つけるのを待っていたみたいに、白い壁の中に口をひらいていた。


近づけば近づくほど、そこだけ温度が違う。


夕方の空気よりも冷たいのに、冷蔵庫のような人工的な冷気ではない。古い地下室の前に立ったときに感じるような、陽の当たらない時間そのものが染みついた冷たさだった。


帰るべきだ、と頭ではわかっている。


通報したほうがいいのかもしれない、とも思う。


だが、通報したあとで何をどう説明するのかと考えた瞬間、志乃は口の中が急に渇くのを感じた。女の声がしたから。誰もいない塔の足元で、助けを求めるような声を聞いたから。そんな話を、果たして自分はどれだけ本気で説明できるだろう。


端末を取り出し、画面を点ける。


手のひらの中にある小さな明かりだけが、まだいつもの日常と繋がっている気がした。


アリサとのメッセージ画面が残っている。


『まっすぐ帰れよ』


その短い一文を見ていると、さっきまでのやりとりがひどく遠く感じられた。たった数時間前までは、学食で唐揚げ定食を食べて、レポートがどうのと話していたのに、いまの自分は、正体のわからない扉の前で立ち尽くしている。


電話をかけることも考えた。


アリサなら、怒りながらでも話を聞いてくれるだろう。美世なら、美世なりに何か変わった返し方をするはずだ。


それなのに、発信ボタンに触れようとした指先は、そこで止まった。


違う。


誰かに相談するより先に、志乃はたしかめたかった。


昨日から胸に引っかかっているものの正体を。


それが本当に自分の思い込みなのか、それともここに、実際に何かがあるのかを。


画面を切り替え、短いメッセージを打つ。


『少し遅れる』


送信先を一瞬迷ってから、アリサと美世の両方に送った。


理由は書けなかった。


書けないというより、この状況を一言で説明できる言葉が見つからなかった。送信を終えたあと、すぐに既読がつく気配はない。まだ二人とも移動中なのだろう。


志乃は端末を握ったまま、扉へ向き直る。


隙間の向こうには、光がない。


真っ暗というわけでもない。ただ、夕方の外光が途中で吸われてしまうみたいに、少し先から先の形が曖昧になっていた。


「……ほんとに行くの、あたし」


小さく呟く。


返事はない。


返事があったら、それこそ逃げていたかもしれない。


だが、その沈黙の奥から、またあの声がした。


「こっち」


今度は、急かすような響きだった。


志乃の肩がびくりと震える。


怖い。


その感覚はもうはっきりしている。


見えないものに呼ばれているという事実そのものが、背骨の奥を冷やしていく。好奇心だけでは説明できないほど、身体は本能的にここから離れたがっていた。


それでも、足は前に出る。


一歩。


靴底が白塔の基部に敷かれた硬い石材を踏む。


もう一歩。


扉の前まで来ると、隙間から漏れてくる空気のにおいが少しだけ濃くなった。薬品の残り香にも、乾いた埃にも似ている。けれどどちらとも断言できない。新しい建物の匂いではなく、長く使われていない場所に人の気配だけが染みついているような、奇妙な無機質さだった。


志乃は扉に手をかけた。


金属だと思ったのに、触れた感触はひやりとした石に近い。表面は滑らかで、継ぎ目が見えなければ壁と区別がつかないのも頷けた。


軽く押す。


想像していたよりずっと抵抗なく、扉は内側へ開いた。


幅が広がるにつれて、暗がりの奥が少しずつ形を持ち始める。細い通路。壁際に埋め込まれた古い照明。床は磨かれているわけでも汚れきっているわけでもなく、妙に中途半端だった。まるで、人が使わなくなって久しいのに、完全に捨てられてもいない場所のように。


志乃は入口の敷居で立ち止まる。


ここを越えたら、もう言い訳はできない。


ちょっと覗いただけ、では済まなくなる。


ほんとうに、自分の足で入るのだ。


外を振り返る。


まだ引き返せる。


夕方の東都はすぐそこにあった。照明の点き始めた広場。遠くを走る自動車両。風に揺れる街路樹。人のいる、音のある、いつもの街。


その風景は、扉一枚ぶんの距離しか隔てていないはずなのに、妙に遠かった。


志乃は気づく。


外に向けているはずの意識の半分以上が、すでに扉の向こうへ引っぱられていることに。


胸の奥のざわめきは、もう違和感ではなくなっていた。


呼吸のたびに、微かな波のように身体の内側を打つ。


霊気力に似ている、と志乃はぼんやり思う。


人の感情や気配に、たまに色や圧のようなものを感じることがある。東都へ来てから、その感覚は以前よりも少しだけはっきりしていた。だが、いま扉の向こうから伝わってくるものは、人ひとりの気配よりももっと広く、もっと薄く、建物そのものに浸み込んでいるみたいだった。


強すぎるわけではない。


なのに、無視できない。


「……行く」


誰に向かってでもなく、志乃はそう言った。


その言葉は自分を納得させるためのものだった。


そして、境界線を越えるみたいに、一歩を踏み出す。


扉の内側は、想像よりも静かだった。


外の空気が背中に残っているのは最初の数歩だけで、すぐに温度の低い無音が全身へまとわりついてくる。床材は外と違い、少しだけ柔らかい反響を返した。音が死んでいる、とでも言えばいいのかもしれない。靴音が広がらず、足元で鈍く消える。


志乃は恐る恐る、さらに二歩進んだ。


壁際の照明は完全には切れていないらしく、白とも灰色ともつかない頼りない明かりが通路を細く照らしている。奥へ行くほど光は薄くなり、代わりに空気だけが濃くなっていくようだった。


振り返れば、まだ入口は見える。


開いたままの扉の向こうに、東都の夕暮れが切り取られている。その景色を見た瞬間、志乃は少しだけ安心しかけた。


まだ戻れる。


やっぱりやめようと思えば、すぐに。


けれど次の瞬間、背後でごく小さな駆動音がした。


振り返る。


白い扉が、ゆっくりと閉じていくところだった。


「えっ」


短く声が漏れる。


志乃は反射的に戻ろうとした。


だが、足が一歩動いたところで、扉は音もなくぴたりと閉じた。


外の光が消える。


夕方の色が消える。


東都の街が、扉一枚の向こうへ引いていく。


それと同時に、外から聞こえていたはずの風の音も、人の気配も、遠くの車両音も、すべてが途切れた。


世界から音だけが剥がれ落ちたみたいに、白塔の内部は、完全な静寂に包まれた。

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