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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第1節 白塔
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呼ぶ声

午後の講義は、始まりから終わりまで、どこか上の空のまま過ぎていった。


綾崎志乃はノートを取り、教授の言葉に合わせて適当に頷き、必要最低限の反応だけはしていた。だが頭の中では、昼休みに聞いた白塔の話がぐるぐると回り続けていた。


内部の見取り図がほとんど出回っていないこと。


閉鎖区画があるかもしれないこと。


そして夜に、呼ばれる人がいるという噂。


馬鹿らしいと思う気持ちは、まだちゃんと残っている。


けれど、それを一蹴しきれないだけの違和感もまた、確かに志乃の中にあった。


講義の終わりを告げる電子音が鳴ると、教室のあちこちで椅子の脚が擦れる音が立った。学生たちは一斉に端末をしまい、次の予定へと散っていく。


志乃も席を立ちかけたところで、前の列にいたアリサが振り返った。


「志乃、帰りどうする?」


彼女は鞄の肩紐を持ち上げながら尋ねた。


今日はこのあと、駅前で短時間のアルバイトがあると言っていたはずだ。


「まっすぐ帰るよ」


志乃はそう答えてから、小さく首を傾げた。


「たぶん」


アリサが露骨に嫌そうな顔をした。


「その“たぶん”やめて」


彼女はそう言ってから、少しだけ声を落とした。


「白塔のこと、まだ気にしてる?」


志乃は返事に一瞬だけ詰まった。


図星だったからだ。


「まあ、ちょっとだけ」


正直に答えると、アリサは呆れたようにため息をついた。


「ほんとに変なことには首突っ込まないでよ」


そう釘を刺しながらも、その目には心配があった。


志乃は苦笑して肩をすくめる。


「わかってるって」


アリサはそれでも完全には納得していない顔をしていたが、やがて「じゃ、また連絡して」と言い残して教室を出ていった。


入れ違いに、美世が静かに立ち上がる。


彼女はいつものように急がない。


人の流れが一段落してから、自分の鞄を持つ。


「今日、空が乾いてるね」


美世は窓のほうを見ながら、独り言のように言った。


志乃もつられてそちらを見る。


夕方にはまだ早い時間だったが、光はすでに少し傾き始めていた。


「そう?」


問い返すと、美世は曖昧に頷いた。


「こういう日は、遠くのものが近く見える」


その言い方がいかにも彼女らしくて、志乃は少しだけ笑った。


「詩人みたい」


美世は否定しなかった。


その代わり、こちらへ視線を戻して小さく言う。


「もし行くなら」


そこで彼女は言葉を切った。


志乃の胸の奥が、かすかに波立つ。


「一人で行かないほうがいいよ」


美世はそれだけ言って、先に教室を出ていった。


残された志乃は、しばらくその背中を見送っていた。


行くなら、と美世は言った。


行くつもりだと、もう見抜かれているような気がした。


もっとも、志乃自身、はっきり決めていたわけではない。ただ、今日もあの塔を見ずに帰ることはできないだろうと、なんとなくわかっていただけだ。


校舎を出ると、東都の夕方は静かに色を変え始めていた。


ガラス張りの研究棟には西日が反射し、歩道脇の低木は風に揺れている。行き交う学生や研究員たちの話し声は絶えないのに、どこか全体としては整いすぎていて、生活の雑音まで設計されている街のように思える。


志乃は一人、居住区へ続くデッキを歩いた。


今日はアリサも美世も別方向だ。隣に誰かがいないだけで、景色の輪郭が少し硬くなる。


途中、端末が震えた。


アリサからの短いメッセージだった。


『まっすぐ帰れよ』


志乃は思わず吹き出しそうになった。


返事を打つ。


『保護者?』


送るとすぐに既読がつき、数秒後に返ってくる。


『違う。ツッコミ役』


それだけで少し気が楽になった。


けれど、画面を消して顔を上げた瞬間、視界の先に白塔が入ると、胸の奥のざわめきはまた戻ってきた。


今日は昨日より、塔が近く見える。


美世の言葉のせいかもしれない。


あるいは、本当に空気が澄んでいるからか。


志乃は歩きながら、知らず知らずのうちに進路を少しだけ変えていた。


居住区へ帰るなら、もっと手前で曲がれる。


なのに足は、中央広場を抜けて白塔の見える通りへ向かっていた。


自分でも、そのことに気づいている。


気づいていながら、止めなかった。


面白半分じゃない。


好奇心だけでもない。


では何なのかと問われても、まだうまく言葉にできない。ただ、確かめたいのだ。昨日感じたあの妙なざわつきが、単なる気のせいだったのかどうか。


白塔へ続く大通りは、夕方になると人通りが少しだけ変わる。


駅へ急ぐ流れから外れた歩行者はまばらになり、代わりに配送用の自動車両が音もなく行き過ぎていく。塔の近くは開けた空間になっているせいか、周囲の建物の圧迫感も薄い。


志乃は歩幅をゆるめた。


近づくほど、空気が変わる。


風の通り方が違う、というだけではない。


耳の奥が薄く軋むような感覚があった。誰かの視線とも、電気機器のノイズともつかない、乾いたざらつき。志乃が東都へ来てから時折覚えるようになった、霊気力に近いものへ触れたときの、ごく微かな反応に似ている。


ただ、今日のそれは、普段よりもずっと輪郭が曖昧だった。


人の気配のようでいて、人ではない。


存在しているのに、触れようとすると薄く崩れる。


そんな印象。


志乃は塔の足元近くまで来て、立ち止まった。


夕陽はすでに斜めに落ち、白塔の片側だけを淡く染めている。遠くから見れば綺麗な建造物でしかないのに、間近に立つと無言の圧迫感があった。


観光客はいない。


周囲のベンチも空いている。


管理用と思われるフェンスの向こうには、低い照明が並んでいるだけだった。


笑ってしまうくらい、何も起こりそうにない風景だ。


だからこそ、次の瞬間に耳へ届いた声は、ひどくはっきりと聞こえた。


「――たすけて」


志乃は息を呑んだ。


反射的に振り返る。


だが背後には、少し離れた歩道を通る会社員風の男女がいるだけだった。二人は会話を続けながら志乃の横を通り過ぎ、こちらを気にする様子もない。


空耳。


そう片づけるには、あまりに近かった。


志乃は喉を鳴らした。


心臓が急に早くなる。


風が吹く。


塔の表面を撫でるように流れた風が、彼女の耳元をかすめた。


「……誰?」


声に出した途端、自分の声が思ったより小さく震えていたことに気づく。


もちろん返事などない。


ただ、静寂が一段深くなった気がした。


志乃は二、三歩だけ後ろへ下がった。馬鹿みたいだと思う。こんな場所で立ち尽くして、見えない何かに怯えている自分が。


帰ろう。


そう決めて、踵を返しかけたときだった。


「こっち」


今度は、もっとはっきり聞こえた。


女の声だった。


若いとも老いているともつかない、不思議な声だった。遠くから響いているようでもあり、すぐ耳の後ろで囁かれたようでもある。


志乃ははっとして塔の根元を見る。


白塔の足元、正面からはやや死角になる位置に、細い影が落ちていた。照明の加減かと思ったが違う。影ではない。壁面の一部が、わずかに奥へ引いている。


近づいてみて、ようやくそれが扉だとわかった。


昨日までは気づかなかった。


というより、見えていなかった気がする。


白い外壁に馴染みすぎていて、普段ならただの継ぎ目にしか見えないはずの線が、今日はなぜかくっきりと浮かんでいた。


そしてその扉は、ほんの数センチだけ開いていた。


冷たい空気が、その隙間から漏れている。


塔の周囲には誰もいない。


管理者の姿も、警備の足音もない。


志乃はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。


逃げたほうがいい。


これがまともな状況ではないことくらい、わかる。


それでも目が離せない。


胸の奥のざわめきは、いまや違和感ではなく、緩やかな引力に変わりつつあった。扉の向こうに、何かがある。そうとしか思えないほど、感覚がそちらへ引っぱられる。


「来て」


声は、今度こそ間違いなく扉の奥から聞こえた。


志乃の指先が、わずかに震える。


その震えが恐怖によるものなのか、別の何かに触れているせいなのか、彼女には判別がつかなかった。


ただ一つ確かなのは、その声が自分へ向けられているということだけだった。


白塔の白い壁は、夕暮れの最後の光を失いかけていた。


その足元で、誰にも知られないまま開いた扉だけが、暗く、深く、志乃を待っていた。

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