呼ぶ声
午後の講義は、始まりから終わりまで、どこか上の空のまま過ぎていった。
綾崎志乃はノートを取り、教授の言葉に合わせて適当に頷き、必要最低限の反応だけはしていた。だが頭の中では、昼休みに聞いた白塔の話がぐるぐると回り続けていた。
内部の見取り図がほとんど出回っていないこと。
閉鎖区画があるかもしれないこと。
そして夜に、呼ばれる人がいるという噂。
馬鹿らしいと思う気持ちは、まだちゃんと残っている。
けれど、それを一蹴しきれないだけの違和感もまた、確かに志乃の中にあった。
講義の終わりを告げる電子音が鳴ると、教室のあちこちで椅子の脚が擦れる音が立った。学生たちは一斉に端末をしまい、次の予定へと散っていく。
志乃も席を立ちかけたところで、前の列にいたアリサが振り返った。
「志乃、帰りどうする?」
彼女は鞄の肩紐を持ち上げながら尋ねた。
今日はこのあと、駅前で短時間のアルバイトがあると言っていたはずだ。
「まっすぐ帰るよ」
志乃はそう答えてから、小さく首を傾げた。
「たぶん」
アリサが露骨に嫌そうな顔をした。
「その“たぶん”やめて」
彼女はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「白塔のこと、まだ気にしてる?」
志乃は返事に一瞬だけ詰まった。
図星だったからだ。
「まあ、ちょっとだけ」
正直に答えると、アリサは呆れたようにため息をついた。
「ほんとに変なことには首突っ込まないでよ」
そう釘を刺しながらも、その目には心配があった。
志乃は苦笑して肩をすくめる。
「わかってるって」
アリサはそれでも完全には納得していない顔をしていたが、やがて「じゃ、また連絡して」と言い残して教室を出ていった。
入れ違いに、美世が静かに立ち上がる。
彼女はいつものように急がない。
人の流れが一段落してから、自分の鞄を持つ。
「今日、空が乾いてるね」
美世は窓のほうを見ながら、独り言のように言った。
志乃もつられてそちらを見る。
夕方にはまだ早い時間だったが、光はすでに少し傾き始めていた。
「そう?」
問い返すと、美世は曖昧に頷いた。
「こういう日は、遠くのものが近く見える」
その言い方がいかにも彼女らしくて、志乃は少しだけ笑った。
「詩人みたい」
美世は否定しなかった。
その代わり、こちらへ視線を戻して小さく言う。
「もし行くなら」
そこで彼女は言葉を切った。
志乃の胸の奥が、かすかに波立つ。
「一人で行かないほうがいいよ」
美世はそれだけ言って、先に教室を出ていった。
残された志乃は、しばらくその背中を見送っていた。
行くなら、と美世は言った。
行くつもりだと、もう見抜かれているような気がした。
もっとも、志乃自身、はっきり決めていたわけではない。ただ、今日もあの塔を見ずに帰ることはできないだろうと、なんとなくわかっていただけだ。
校舎を出ると、東都の夕方は静かに色を変え始めていた。
ガラス張りの研究棟には西日が反射し、歩道脇の低木は風に揺れている。行き交う学生や研究員たちの話し声は絶えないのに、どこか全体としては整いすぎていて、生活の雑音まで設計されている街のように思える。
志乃は一人、居住区へ続くデッキを歩いた。
今日はアリサも美世も別方向だ。隣に誰かがいないだけで、景色の輪郭が少し硬くなる。
途中、端末が震えた。
アリサからの短いメッセージだった。
『まっすぐ帰れよ』
志乃は思わず吹き出しそうになった。
返事を打つ。
『保護者?』
送るとすぐに既読がつき、数秒後に返ってくる。
『違う。ツッコミ役』
それだけで少し気が楽になった。
けれど、画面を消して顔を上げた瞬間、視界の先に白塔が入ると、胸の奥のざわめきはまた戻ってきた。
今日は昨日より、塔が近く見える。
美世の言葉のせいかもしれない。
あるいは、本当に空気が澄んでいるからか。
志乃は歩きながら、知らず知らずのうちに進路を少しだけ変えていた。
居住区へ帰るなら、もっと手前で曲がれる。
なのに足は、中央広場を抜けて白塔の見える通りへ向かっていた。
自分でも、そのことに気づいている。
気づいていながら、止めなかった。
面白半分じゃない。
好奇心だけでもない。
では何なのかと問われても、まだうまく言葉にできない。ただ、確かめたいのだ。昨日感じたあの妙なざわつきが、単なる気のせいだったのかどうか。
白塔へ続く大通りは、夕方になると人通りが少しだけ変わる。
駅へ急ぐ流れから外れた歩行者はまばらになり、代わりに配送用の自動車両が音もなく行き過ぎていく。塔の近くは開けた空間になっているせいか、周囲の建物の圧迫感も薄い。
志乃は歩幅をゆるめた。
近づくほど、空気が変わる。
風の通り方が違う、というだけではない。
耳の奥が薄く軋むような感覚があった。誰かの視線とも、電気機器のノイズともつかない、乾いたざらつき。志乃が東都へ来てから時折覚えるようになった、霊気力に近いものへ触れたときの、ごく微かな反応に似ている。
ただ、今日のそれは、普段よりもずっと輪郭が曖昧だった。
人の気配のようでいて、人ではない。
存在しているのに、触れようとすると薄く崩れる。
そんな印象。
志乃は塔の足元近くまで来て、立ち止まった。
夕陽はすでに斜めに落ち、白塔の片側だけを淡く染めている。遠くから見れば綺麗な建造物でしかないのに、間近に立つと無言の圧迫感があった。
観光客はいない。
周囲のベンチも空いている。
管理用と思われるフェンスの向こうには、低い照明が並んでいるだけだった。
笑ってしまうくらい、何も起こりそうにない風景だ。
だからこそ、次の瞬間に耳へ届いた声は、ひどくはっきりと聞こえた。
「――たすけて」
志乃は息を呑んだ。
反射的に振り返る。
だが背後には、少し離れた歩道を通る会社員風の男女がいるだけだった。二人は会話を続けながら志乃の横を通り過ぎ、こちらを気にする様子もない。
空耳。
そう片づけるには、あまりに近かった。
志乃は喉を鳴らした。
心臓が急に早くなる。
風が吹く。
塔の表面を撫でるように流れた風が、彼女の耳元をかすめた。
「……誰?」
声に出した途端、自分の声が思ったより小さく震えていたことに気づく。
もちろん返事などない。
ただ、静寂が一段深くなった気がした。
志乃は二、三歩だけ後ろへ下がった。馬鹿みたいだと思う。こんな場所で立ち尽くして、見えない何かに怯えている自分が。
帰ろう。
そう決めて、踵を返しかけたときだった。
「こっち」
今度は、もっとはっきり聞こえた。
女の声だった。
若いとも老いているともつかない、不思議な声だった。遠くから響いているようでもあり、すぐ耳の後ろで囁かれたようでもある。
志乃ははっとして塔の根元を見る。
白塔の足元、正面からはやや死角になる位置に、細い影が落ちていた。照明の加減かと思ったが違う。影ではない。壁面の一部が、わずかに奥へ引いている。
近づいてみて、ようやくそれが扉だとわかった。
昨日までは気づかなかった。
というより、見えていなかった気がする。
白い外壁に馴染みすぎていて、普段ならただの継ぎ目にしか見えないはずの線が、今日はなぜかくっきりと浮かんでいた。
そしてその扉は、ほんの数センチだけ開いていた。
冷たい空気が、その隙間から漏れている。
塔の周囲には誰もいない。
管理者の姿も、警備の足音もない。
志乃はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
逃げたほうがいい。
これがまともな状況ではないことくらい、わかる。
それでも目が離せない。
胸の奥のざわめきは、いまや違和感ではなく、緩やかな引力に変わりつつあった。扉の向こうに、何かがある。そうとしか思えないほど、感覚がそちらへ引っぱられる。
「来て」
声は、今度こそ間違いなく扉の奥から聞こえた。
志乃の指先が、わずかに震える。
その震えが恐怖によるものなのか、別の何かに触れているせいなのか、彼女には判別がつかなかった。
ただ一つ確かなのは、その声が自分へ向けられているということだけだった。
白塔の白い壁は、夕暮れの最後の光を失いかけていた。
その足元で、誰にも知られないまま開いた扉だけが、暗く、深く、志乃を待っていた。




