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三人の昼休み

翌日の昼休みになっても、綾崎志乃の胸の奥には、昨夕に覚えたあのざわつきが残っていた。


眠れなかったわけではない。寝つきは悪かったが、一度落ちてしまえば朝まで起きなかったし、目覚ましにもきちんと反応できた。講義も、前半まではそれなりに聞いていた。けれど、黒板に投影される資料の文字を追っているふりをしている間も、視界の端にはずっと白塔の輪郭がちらついていた。


自分でも、らしくないと思う。


志乃は普段、気になったことを深く引きずるほうではなかった。納得できなければそのまま放っておくし、答えが出ないなら別の面白そうなものを探す。満たされないものを必死に追い回すくらいなら、もっと手近で楽しいものを選ぶ性格だ。だからこそ、昨日のたった一瞬の違和感がこうして翌日まで残っていること自体が、少し気持ち悪かった。


昼の学食は、相変わらず人が多かった。


窓際の席を確保した西野アリサが、先にトレイを置いてこちらへ手を振っている。古本美世はすでに座っていて、今日はカレーの皿の横に小さな紙パックの牛乳まで並べていた。取り合わせが妙なのはいつものことだった。


志乃は自分のトレイを持って二人の向かいに腰を下ろす。今日の昼は日替わりの唐揚げ定食だった。


「遅かったね」


アリサは箸を持ち上げながら、ちらりと志乃の顔を見た。


その視線には、軽い確認の色が混ざっていた。昨日の帰り道、白塔を見上げて立ち止まったことを、彼女はまだ少し気にしているのだろう。


「購買でパンも買うか迷ってた」


志乃はそう言って、わざと気楽そうに笑ってみせた。


アリサは納得したようなしないような顔で、味噌汁の椀に手を伸ばした。


「迷った末にやめたんだ」    

彼女の口調はいつも通りだ。責めるでもなく、甘やかすでもなく、自然に話を戻してくれる。


「うん。どうせ食べすぎるし」    

志乃は箸で唐揚げをつつきながら答えた。


向かいでは、美世が牛乳のストローを刺していた。その所作は妙に丁寧で、見ていると本人が気づかないところで何か別の儀式でもしているのではないかと思えてくる。


「志乃、今日一限の途中で窓の外見てたよね」


美世は牛乳をひとくち飲んでから、何気ない調子で言った。


志乃の手がほんの少しだけ止まる。


「見てたっけ」


問い返しながらも、否定しきれないのが悔しい。


実際、見ていた。講義棟のガラス越しに、遠く白く立つ塔の上部を。


「見てた」


美世はあっさり言い切った。


彼女はこういうとき、妙に確信めいた口調になる。


「しかも、ぼーっとじゃなくて、探る感じで」    

その言い回しに、志乃は少しだけ眉をひそめた。


探る、という言葉が、不必要なほどぴたりとはまってしまったからだ。


「昨日から変だよ、あんた」


アリサが今度ははっきりそう言った。


ただ、その声音はきつくなかった。体調が悪いならちゃんと言え、と促すような、面倒見のいい響きだった。


「熱とかあるわけじゃないんでしょ」    


志乃は首を振る。


「ないない。ほんとに大したことじゃない」    


そう答えたあとで、少しだけ迷ってから付け足した。


「……ただ、白塔のことがちょっと気になってるだけ」    


アリサの箸先が止まる。


美世の目も、静かにこちらへ向いた。


「なんでまた、急に」


アリサは警戒と呆れのあいだみたいな顔をした。


志乃は言葉を選ぶ。昨日の感覚をそのまま口にすると、自分でも変なことを言っている気がした。


「いや、ほら、いつも見えてるのに、何の塔かちゃんと知らないなと思って」    

それは半分だけ本当だった。


「ランドマークって言うわりに、一般開放もしてないじゃん。展望台もないし、イベントやってるのも見たことないし」    

もっともらしい理屈を並べると、アリサは「まあ、それはそう」と頷いた。


東都の人間にとって白塔はあまりに当たり前すぎて、逆に詳細を話題にすることが少ない。そこにある、と皆が知っている。だが何のためにそこにあるのかは、意外なほど曖昧だ。


「たしか昔の研究施設が元だって聞いたことある」


アリサは記憶を手繰るように視線を斜め上へ流した。


「でも今は管理だけ残して、ほぼ使ってないとか。記念保存みたいな扱いなんじゃない?」    


彼女の説明は、学生同士の噂としては妥当だった。いかにも東都らしい。何かの最先端だった建物が、いつのまにか歴史の一部として街に組み込まれている。


「“ほぼ”ってことは、少しは使ってるのかな」


志乃がそう返すと、アリサは肩をすくめた。


「知らない。大学の設備じゃないし」    


美世はそこで、スプーンを皿の端に置いた。


彼女はカレーを食べるときだけ、いつもより話す間が長くなる。


「白塔って、内部の見取り図がほとんど出回ってないんだよね」


その一言で、志乃は無意識に背筋を伸ばした。


美世がまた、妙な角度から話を拾ってきたからだ。


「なんで知ってるの、そんなこと」


アリサは呆れたように笑った。


それでも少し興味はあるらしく、身を引くことはしなかった。


「調べたことあるから」


美世はさらりと言った。


それが課題のためなのか、個人的な好奇心なのかは、たぶん本人にもそこまで差がないのだろう。


「昔の都市計画資料とか、保存建築の一覧とかは出る。でも肝心の内部構造は曖昧。途中で改修されたとか、閉鎖区画があるとか、書いてあることが毎回違う」    


志乃は唐揚げを口に運ぶ手を止めた。


昨日の夕方、白塔を見た瞬間に生じたあの不快なざわめきが、ふっと蘇る。


「閉鎖区画って、物騒だね」    


軽く言ったつもりだったが、自分の声が思ったより乾いて聞こえた。


美世は小さく頷く。


「だから噂が増える」    


彼女はそこで一度視線を窓の外へ向けた。昼の光の中でも、遠くの塔は白く浮き上がって見える。


「夜、呼ばれる人がいるって話も、その延長だと思う」    


志乃の指先に、微かな痺れが走った。


昨日は冗談みたいに流したその話が、今日は不自然に耳へ残る。


「呼ばれるって、誰に?」


訊ねたのは志乃自身だった。


アリサがそちらを見る。からかい半分の視線を向けられるだろうと身構えたが、彼女は意外にも、茶化さなかった。


「だから都市伝説でしょ」


アリサはそう言いながらも、声は少しだけ低かった。


「“白塔の近くを一人で歩いてると女の声がするとか、塔の足元に扉が見えるとか”ってやつ。たしか去年も誰か言ってた」    


去年、という響きが妙に生々しい。


何十年も前の怪談ではなく、つい最近までこの街で囁かれていた話だと気づくからだ。


「怖い話、苦手なのに詳しいじゃん」


志乃は無理に明るく言ってみた。


アリサはすぐに眉を寄せた。


「苦手だからこそ耳に入るの。言っとくけど、面白半分で近づくのはやめなよ」    


その忠告に、志乃は曖昧に笑うしかなかった。


面白半分ではない、とは言えない。では何なのかと問われても、まだ答えられない。


美世は、カレー皿の上でスプーンをゆっくり回した。


「でも、呼ばれる人って、たぶん誰でもいいわけじゃない」    


昼の喧騒のなかで、その声だけが奇妙に静かだった。


志乃は思わず美世を見る。


「選ばれるってこと?」    


美世は頷きも首振りもしなかった。


ただ、こちらをまっすぐ見たまま言う。


「向こうが必要とした人だけなんじゃないかな」    


その瞬間、志乃の胸の奥で、昨日と同じざわめきがふいに広がった。


音ではない。痛みでもない。強いて言うなら、白い膜のようなものが身体の内側に薄く張る感覚だった。息が一拍だけ浅くなる。


反射的に視線を窓の外へ向ける。


昼の空の下、白塔は何も変わらず立っている。


けれど、見た瞬間だけ、塔の根元あたりにごく淡い揺らぎが走った気がした。熱気のようでもあり、水面の歪みのようでもある。ほんの一瞬で、それは消えた。


「志乃?」


アリサが名前を呼ぶ。


志乃は我に返って、慌てて箸を持ち直した。


「ごめん。ちょっと考えごとしてた」    


アリサは露骨に怪しいものを見る顔をした。


「それ、昨日から何回目?」    


志乃は笑ってごまかそうとしたが、美世は笑わなかった。


彼女はただ、さっきと同じ静かな目で志乃を見ている。


「もし本当に気になるなら」


美世はそこで一度言葉を切った。


まるで、その先を言うべきか考えているみたいだった。


「夜に一人で行かないほうがいいよ」    


忠告の形をしているのに、どこか別の意味が滲んでいる。


行くつもりなんてない、と志乃はすぐには言えなかった。


昨日の夕方からずっと、自分の中のどこかが、あの塔のほうを向いたままだったからだ。


学食の外では、次の講義へ向かう学生たちが急ぎ足で渡り廊下を行き交っている。いつも通りの昼休みの終わり。見慣れた風景。いつもの三人。


それなのに志乃には、自分だけがもう半歩ぶん、別の場所へ足を踏み入れてしまっているような気がしてならなかった。


窓の向こうの白塔は、昼の光の中でも変わらず黙っていた。


黙っているくせに、待っているように見えた。

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