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助かりたければ

喉の奥に刻み込まれた冷たい異物感は、男が手を離したあとも消えなかった。


綾崎志乃は床に手をついたまま、浅く息を繰り返す。


空気を吸うたびに、胸骨の裏側へ細い棘が引っかかるような痛みが走った。叫ぼうとすれば、たぶんまた同じように内側から締め上げられるのだろう。脅しではなく、条件として身体へ埋め込まれたのだと、認めたくないのにわかってしまう。


男はしばらく志乃を見下ろしていたが、やがて興味を失ったように視線を外した。


その視線の先にあるのは、寝台の上の女だった。


男が彼女のほうへ向き直った瞬間、室内の空気がほんのわずかに変わる。


鋭く張りつめていた気配の角が、少しだけ鈍るのだ。優しさと呼ぶには冷たすぎる。だが少なくとも、さっきまで志乃へ向けられていた切断めいた圧とは違うものがそこにはあった。


「……なんで」


やっとのことで絞り出した声は、ひどく掠れていた。


それでも男は聞き取ったらしい。


肩越しに、わずかにこちらへ顔を向ける。


「なんで、こんなこと……」


言葉の最後で喉がまた軋んだ。


ほんの少しでもこの場のことを他人へ伝える形に近づくと、胸の奥の冷たい輪が反応する。志乃は咳き込みそうになるのを堪え、唇を噛んだ。


男は答えなかった。


代わりに、寝台の女の顔をじっと見下ろす。


その横顔には感情がほとんど出ていない。


けれど、完全な無関心ではありえないと、志乃はなぜか思った。この男はこの女を放置しているのではない。むしろ逆に、ここまで異常な執着で繋ぎ止めているのだ。


弱々しい気配が、寝台のほうからまた揺れた。


糸みたいに細いのに、たしかに志乃へ触れてくる。


助けて、と。


そのかすかな訴えに背中を押されるみたいに、志乃は顔を上げた。


「この人、生きてるの」


男の目が、わずかに細くなる。


その変化だけで、志乃は余計なことを言ったのだと直感した。


だが、もう引っ込められない。


寝台の上の女は死んでいるようにも見えるし、生きているようにも見える。その曖昧さこそが、一番恐ろしかった。


「死んではいない」


男は低く言った。


その声は、さっきまでの脅しと同じ温度だった。


なのに、その一言にだけ、ひどく疲れた響きが混じっていた。


「だが、このままでは戻れない」


志乃の胸が小さく跳ねる。


戻れない。


何に。


どこへ。


問いは次々浮かぶのに、口へ出す前に消えていく。目の前の男が説明してくれるような相手ではないことを、もう身体が覚えてしまっていた。


「お前は、声を聞いた」


男は寝台から目を離さずに言った。


志乃の指先がぴくりと震える。


否定しようとして、やめた。


どうせ見抜かれている。


「……あんたにも、聞こえるの」


慎重に選んだ言葉だった。


それでも、自分の問いがどこまで許されるのかはわからない。


男はすぐには答えなかった。


代わりに、寝台の女の額へかかった髪を、無駄のない手つきで払う。


その仕草は驚くほど静かで、雑さがなかった。


「聞こえない」


短い返答だった。


志乃は目を瞬かせる。


ではなぜ、この女が自分を呼んだことを知っているのか。


その疑問が顔に出たのだろう。


男は初めて、わずかに志乃のほうへ向き直った。


「ここへ来られる人間は限られている」


淡々とした口調だった。


「扉を見つけ、呼びかけに応じ、ここまで辿り着く」


男の視線が、志乃を貫くように止まる。


「それだけで十分だ」


志乃はぞくりとした。


褒められているわけではない。


値踏みされているのだ。


たまたま迷い込んだ学生ではなく、この場所まで来られてしまった“何か”として。


「あたしに、何ができるっていうの」


それは半分、反発だった。


もう半分は、寝台の女から離れない弱い気配への、どうしようもない反応だった。


放っておけばいい。


そんなこと、自分には関係ないと切り捨てればいい。


なのに、できない。


この女が確かに自分へ助けを求めたと、志乃の感覚が知ってしまったからだ。


男はその問いに、すぐには答えなかった。


わずかに視線を落とし、寝台の横に置かれた古いモニターを見る。細い波形が途切れそうになりながら、まだ消えずに続いている。


その光を見つめる横顔は、ひどく静かで、ひどく追いつめられて見えた。


「俺では届かない」


男はそう言った。


志乃は息を呑む。


その一言は、ここへ来てから初めて聞く、人間らしい声だった。


完璧に冷たいわけでも、完全に諦めているわけでもない。どうにもならない現実を認めた上で、なお手放していない人間の声だった。


「この街には、まだ必要な駒がある」


男の眼差しが、ゆっくりと志乃へ戻る。


その目は相変わらず静かだった。


だがその奥には、切迫したものが沈んでいる。


「お前なら辿り着けるかもしれない」


志乃は首を振りそうになる。


そんな根拠のない言葉を、信じられるはずがない。


けれど、喉に刻まれた呪いの冷たさと、寝台の女の弱い気配と、目の前の男の追い詰められた目が、それぞれ別の方向から志乃を縛っていた。


「何を、探せっていうの」


訊いた瞬間、自分で自分に驚いた。


逃げたいはずだった。


帰りたいはずだった。


なのにもう、問いの形をしてでも先を知ろうとしている。


男はほんの一瞬だけ黙り込んだ。


その沈黙は、答えを選んでいるというより、言葉そのものを削っているように見えた。


余計な説明はすべて捨て、必要な芯だけをこちらへ渡そうとしている。


やがて男は口を開く。


「助かりたければ」


その声は低く、静かで、命令と願いの境目にあった。


志乃の胸の奥で、弱い気配が小さく震える。


寝台の女のほうへ視線を向けると、閉じたままの瞼はやはり動かない。


なのに、呼びかけだけは確かにそこにあった。


男は続ける。


「“零”を探せ」


その二文字は、呪いよりも深く、志乃の中へ落ちた。

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