第5話 鍵を持つ者、境界を狙う者
あの日以来、空を見上げるクセがついてしまった。
授業中も、放課後の帰り道も、ふと透明な天井の向こうを確かめるように。
——群青の色が、また混じっていないかどうかを。
あの駅前の戦いから三日。
現実は何事もなかったみたいに流れているけれど、胸の奥にはずっと、あの日できた“ひび”の音が残っている。
(あれが……私の中の、“境界の鍵”の力……?)
教室の窓際で、ステータスメニューを開くふりをして遠くを見ていると——
「考えすぎは目に悪いよ」
小声で耳元に届いたのは、エリスの声だった。
黒板を注視するふりをしながら、彼女は教室の後ろに立っている。姿は他の生徒と同じ制服だが、彼女だけは妙に輪郭が薄い。
——現実に来ても、その存在は完全に物質化していない。
「あなたに色々説明しなきゃと思って」
「境界の鍵……って、結局何?」
ノートを開きながら呟くように尋ねる。周囲には会話が聞こえないよう、完全にプライベートチャネルで接続している。
エリスは少し視線を伏せてから言った。
「境界の鍵は、この世界で唯一、“現実と仮想の境目を開閉できる”存在。鍵は人じゃないはずだった。でも——あなたの中にある」
「……開ける、閉める。それってつまり……」
「獣も、残滓も、その鍵を奪えれば境界そのものを破壊できる。それが奴らの目的」
ごくりと唾を飲み込む。
自分がただの巻き込まれ人じゃない、という現実が脳に重く沈んでいく。
「奏、覚えてる? 三日前の最後……あなただけが光の刃を出せた」
「……頭で考えるより先に、身体が動いてた」
「それが鍵の反応。たぶん、まだ目覚めの一部に過ぎない」
授業のチャイムが鳴ったとき、エリスの瞳がふっと色を変えた。
銀から、わずかに群青を帯びた色へ——。
「どうしたの?」
「……来てる。外」
放課後、私とエリスは人通りの少ない川沿いの道へ出た。
そこで見たのは、水面に映る“もうひとつの空”だった。
実際の空は夏らしい薄曇り。
だが、水面には群青色の雲の裂け目が広がり、その中から人影がゆっくりと浮かび上がってきていた。
「あれは……残滓じゃない」
エリスの声がわずかに震える。
水面から現れたのは、漆黒のローブをまとった人物だった。顔は仮面で覆われ、仮面の片目にだけ群青の光が灯っている。
「鍵は——人間の器にあると聞いていたが、本当のようだな」
低い声。
その声には、残滓や獣にはなかった“意思”がこもっていた。
「……誰?」
私の問いに、仮面の人物はゆっくり首を傾ける。
「境界を解き放つ者たち——その一人だ。
だが安心しろ、奪った後はお前の存在も境界の外へ連れていってやる」
言い終えると同時に、水面が爆ぜた。
飛び散った群青のしぶきが地面や周囲のベンチに当たり、触れた箇所が一瞬で透き通って消えていく。
「奏、後ろへ!」
エリスが前に立ち、光刃を展開する。
だがその人物は戦う様子もなく、右手を軽く振っただけで周囲の景色が波紋のように歪んだ。
気づいたときには、川沿いの道もベンチも消え——
私たちは、あの群青の迷宮の上空に立っていた。
足元に透明な道、周囲に浮かぶ塔。
風が頬を撫でると同時に、仮面の人物の声が響く。
「さあ、境界の鍵……開けてもらおう」
その瞬間、胸の奥が勝手に熱を帯び、視界の端に“鍵穴”のアイコンが浮かび上がった。
(だめ……開けたら……!)
反射的に後ずさる私の腕を、後ろからエリスが掴んだ。
銀色の瞳が真剣に見つめてくる。
「奏、絶対に開けない。——たとえ私ごと消えてもいい、やめて」
迷宮を渡る風が、群青色に変わっていくのであった。
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