第4話 現実を侵す群青の痕跡
群青色の粒子は、駅の向こうで噴き上がる炎みたいに揺れていた。
色は深く、青と黒の狭間を呼吸するように変化する。その中心に、まるで人型を取ろうとするかのような影の揺らぎがあった。
(……現実に、いる。)
足が自然に後ずさる。
でも、それ以上に足を動かせなかった。
冷たい視線に捕まったみたいに、視線がそこから外れない。
「奏、下がって!」
背後から声が飛び、腕を引かれる。振り向くと——エリスがいた。
制服の袖が微かに波打ち、そこから透き通った欠片が宙に落ちて消える。
彼女も現実に来ているはずなのに、その身体はどこか不安定だ。
「現実に……出てきたの?」
「そう。境界が破れてる証拠」
エリスの声は低く、張り詰めていた。
駅前の人々は、まだループの中にいた。
ハンカチを拾い続ける女性。立ち話を繰り返す男子高校生。誰一人として、この異常を認識していない。
「誰も……気づかないの?」
「見えてるのは、境界に触れた者だけ。普通の人間には“ノイズ”として脳が処理する」
説明と同時に、群青の粒子が膨らみ、破裂音のような衝撃波が走った。
ループしていた人々の動きが一瞬にして崩れ落ち、膝をつく。その顔から色が抜け、目は虚ろに開いたまま——。
「やばい、始まった!」
エリスは腰から、小さなリング状の装置を取り出す。
リングから細い光の刃が伸び、短剣の形になる。
「獣じゃないの?」
「これは痕跡——残滓とも呼ばれる。あの獣が通った後に生まれ、少しずつ現実を侵食する」
その塊は、ゆっくりと形を変えた。
腕のような突起が二本、脚のような影が二本。
人間と等身大……いや、微妙に大きい。
粒子がこぼれ落ちるたび、アスファルトが音もなく砂に変わっていく。
「奏、少しでも触れたら——消えるよ」
エリスは光刃を構え、滑るように影へ飛び込む。
動きが早い。光の軌跡が群青を裂き、粒子が空に霧散する。
だが、影は再び腕を伸ばし、エリスを薙ぎ払った。
脇腹にかすった瞬間、彼女の制服の布地ごと一部が透き通って消える。
「っ……大丈夫!」と短く叫び、再び構えを取る。
……見ているだけなのに、心臓が痛い。
あの粒子に触れたら消える——その言葉が頭から離れない。
でも、なぜだろう。胸の奥で、何かがうずく。
【……Boundary_Key……】
突然、耳元で声がした。誰の声でもない、もっと機械的で、直接脳に流し込まれる音。
視界に一瞬だけ、見覚えのないUIのウィンドウが浮かんだ。そこには、鍵穴のアイコンと、点滅する群青のバー。
(……私、見えてる?)
影が、こちらへ向き直った。
エリスよりも私を優先した——そう感じた瞬間、脚が勝手に動いた。
「奏!危ない!」
叫び声を背に、私は影のすぐ前へ飛び込んだ。
自分でも何をしているのか分からない。けれど、胸の奥の熱があの塊を拒絶するように脈打っている。
次の瞬間、両手から光が溢れた。
それは形を変え、エリスのものに似た——いや、もっと長い透明な刃になった。
「な……それが、“鍵”……?」
エリスの驚きが聞こえた。
理解する前に、身体が勝手に動く。
光の刃が影を貫き、群青が一瞬で散り散りになる。
影は歪んだ声を漏らし、粉雪のように消えていった。
静寂。
群青の粒子は跡形もなく消え、駅前の人々が何事もなかったかのように動き始める。
エリスだけが、その場に立ち尽くしていた。
彼女は、ゆっくりとこちらを見た。
銀色の瞳が、今までで一番深く揺れていた。
「やっぱり——あなたが“境界の鍵”だ」
その言葉が胸に刺さった瞬間、現実の空が、一瞬だけ群青に瞬いた。