第3話 境界の断片と、忘れられた記憶
——目を開けた瞬間、光の粒が降っていた。
それは雨でも、雪でもない。
一粒ひと粒が、文字のような形をしている。アルファベットでも数字でもない、不規則な記号列が白く輝いて、ゆっくりと空から落ちてくる。
(……ここは、どこ?)
足元は、白い水面のようにゆらめいた床。遠くには地平線がなく、ただ無限に同じ色の“平面”が広がっている。
隣に立つ少女は、あの迷宮で見たときと同じ制服姿——ただし、その裾や袖は、微かに透けていた。
「ここは?」
問うと、少女は横顔を見せずに答えた。
「中間領域——“バッファ”とも呼ばれる場所。あの獣から逃げるには、一時的にここへ避難するしかなかった」
「……獣……」
耳の奥で、まだあの声の余韻が残っている気がする——“必ズ、見ツケル”という、低い囁き。
胸の奥がざわつく感覚を振り切るように、わたしはもうひとつ訊いた。
「あなた……どうして、わたしの名前を知ってたの?」
少女は少しだけ沈黙し、ゆっくりと振り返った。
銀色の瞳。どこか哀しげで、それでいて観察するような冷静さを持っている。
「——昔、会ったことがあるから」
「……え?」
「あなたは忘れている。でも、私は覚えてる。
“境界”が初めて揺らいだ日のことも、そのときに何が壊れたのかも」
言葉がうまく入ってこない。記憶を必死に探っても、思い当たる出来事はない。
わたしにとって“境界”なんて単語は、さっき彼女から初めて聞いたばかりのはずなのに——
ズキン。
こめかみが熱く痛む。
断片的な映像が、脳裏に浮かぶ。
暗い路地。
青白い光の裂け目。
自分の手を握る、小さな——子どもの手。
そして、その手がぐしゃりと崩れて光に変わる感覚。
「——っ!」
短く息を呑むと同時に、視界が揺れた。
少女がすぐに肩を支えてくれる。その掌の温かさで、ようやく立っていられる。
「思い出すのは危険。今はまだ」
「なんで……」
「あなたの中には“鍵”がある。だから獣はあなたを狙う」
“鍵”——。
それが何なのかは説明されない。ただ彼女の声色から、それがただの比喩ではないと感じ取れた。
彼女は一歩下がり、静かに頭を下げた。
「名前、まだ言ってなかったね。私は——エリス。こちら側の人間、って言えばいいかな」
「こちら側……?」
問い返すと、彼女は微かに微笑んだ。
「説明は後で。時間がない、戻るよ」
エリスが片手を上げると、彼女の指先に小さな光が集まり始める。それは次第に円を描く扉になった。透き通ったガラスに似ているが、表面には淡いノイズが走っている。
「この先は現実……のはず。でも、きっと——」
そこで言葉を切り、彼女は真剣な目でわたしを見る。
「もう、完全な現実じゃないと思う」
理解できない。それでも、手を伸ばす。
扉を抜けた瞬間——
眩しい昼の光と、ざわめき。
……そこは、いつもの駅前だった。制服姿の生徒や買い物客、車のエンジン音。
空気の匂いも、肌に感じる湿度も、現実そのものだ。
本当に——現実?
息を整えたとき、ふと周囲の人々の動きが止まった。
正確には、止まったのではなく、同じ動作が繰り返されている。
通行人の女性がハンカチを落とす——拾う——落とす——拾う。
同じ動きが、秒単位でループしている。
胸が冷たくなる。耳の中で、あの低い声が再び囁いた。
『——見ツケタ』
わたしは振り向いた。
――駅の向こうに、群青の粒子が立ち上っていた。