第2話 群青の獣と、名前のない少女
強い風——いや、風に似たデータの流れが頬を打った。
わたしは反射的に足をすくませ、透明な道から視線を落とす。
下には、群青色の海のような空間が広がっている。そこから、塔のように無数の構造物が突き出していた。塔は金属めいて無機質なのに、時おり体温を持ったような熱を帯び、微かに脈動している。
(ここは本当に……学校のサーバ領域じゃない)
「急がないと、来るよ」
少女の声は、不思議と落ち着いていた。わたしの手を引く指は温かく——それはVRの触覚再生にしては、あまりにも生々しい。
「ねえ……ここ、なに?」
必死に問いかける。けれど少女は、正面だけを見たままだ。
「説明すると長くなる。でも……一言で言うなら、『現実と仮想の縫い目』」
「縫い目……?」
「その綻びに、あなたは足を踏み入れた」
説明になっていない。でも質問を重ねる余裕はなかった。
——低く、重い音が響いたからだ。
それは鼓膜ではなく、骨に直接響いてくるような音だった。地震の前触れにも似ている。
群青色の空間の奥で、何かが動いた。いや、「漂って」いた。
影。
輪郭は曖昧で、獣とも人ともつかない。
ただ、一対の瞳だけが異様に輝いている。蒼白で、光を吸い込まないタイプの色。
「来た——!」
少女が小さく呟くと同時に、その影は塔の間を滑るように進み、透明な道のこちら側へ迫ってくる。
速度が、速い。
足音はない。だが、空間そのものがひずむ。
心臓が暴れ、呼吸が浅くなる。
脳裏に、朝の教室で見た黒板の崩れがフラッシュバックする。あれと同じ「何か」が、ここにもある——いや、この存在こそが、それを生み出している?
息を呑んだ瞬間、影は完全に姿を現した。
四足の、狼に似たシルエット。
だが毛皮の代わりに、群青色のデータの粒子が絶え間なく剥がれ、漂っている。
口が開き、符号化されたノイズのような咆哮が漏れた。
それは音であると同時に、意味なき無数の文字列で——視界にまで混じりこんでくる。
【#$%&...Reality_Delete...BoundaryBreak】
「ダメ——目を合わせちゃ!」
少女が腕を引き、わたしを後ろへ強く押した。
直後、獣の瞳が閃き、道の一部が——消えた。
「——っ!」
反射的に後退した足が空を踏む。落ちる——
……と思った瞬間、少女の手がわたしの手首を掴んだ。
「信じて、跳んで!」
「は……?」
言うが早いか、彼女は残った透明な道から横の塔の頂部へジャンプした。
わたしも引きずられる形で宙へ放り出され——次の瞬間、足裏が金属質の硬さを感じた。
振り返ると、獣が透明な道を食い荒らしている。
食う——そう表現するしかない。道のデータが、群青色の粒子となって獣の体へ吸い込まれていく。
「なに、あれ……!」
「この『縫い目』を喰ってる。つまり、現実と仮想の境界線そのものを壊そうとしてる」
意味は理解できない。それでも、一つだけ確かなことがある。
あれは——わたしを狙っている。
「どうして……わたしなの?」
少女はしばらく黙って、やがてぽつりと答えた。
「あなたは——“境界に属さない”から」
言葉の意味を問うよりも早く、群青の獣が塔を這い登り始めた。塔の表面に粒子の爪痕が刻まれ、全体が軋みを上げる。
近い——あと数秒で届く。
「——覚悟はできてる?」
「何の……?」
「あなた自身を見つける覚悟」
そう告げると、少女は懐から細長い光の鍵のようなものを取り出した。
それを空中に差し込むと、目の前にまた一枚、光の扉が現れる。
「行こう、奏」
……どうして、わたしの名前を——?
問いを飲み込み、わたしは扉をくぐった。
直後、耳の奥で、獣の咆哮が、言葉に変わる。
『——必ズ、見ツケル』
その声を最後に、群青の世界は暗転した。