第1話 境界の色は、群青
目を開けたとたん、世界は群青に染まっていた。
いや、正確には——それは、わたしだけが見ている色だったのかもしれない。
現実の教室の窓から差し込む朝の光は、普通ならば白金色に近いはずだ。だけど、今日はその縁が、薄く滲んだインクのように揺れていた。
「おはよー、奏」
机の前で、陸が笑う。仮想学校モードの彼は、今日は珍しく制服の色を変更しているようだ。ビビッドな水色。それだけで、この空間が現実でないという証拠になる。
——わたしは、視界の端に浮かぶステータスメニューを閉じた。
(今日も、ちゃんと現実を忘れられてる? ……わたし)
2045年、学校の六割は仮想空間で運営されている。そこでは授業も、友達との会話も、恋愛だって、全部ログとデータで支えられている。
それが当たり前になって、もう十年。
——けれど、ここ数日は、その「当たり前」がふとした瞬間に崩れかけるのを、わたしは感じていた。
「顔色、悪くね?」
「……そう見える?」
陸の問いは、コードの乱れを検出するセンサーよりも正確に、わたしの動揺を拾う。
返事を濁した瞬間——世界の群青が、濃くなった。
黒板の文字が、一瞬だけ、崩れた。
字が砂になったみたいに、パラパラと剥がれ落ちる感覚。
他の誰も、それに気づいた様子はない。
心臓が跳ねた。これは、ただのバグ? それとも——
——ログイン先のサーバでは、こんな現象、存在しないはず。
「……天音さん?」
教卓の前で、担任の仮想アバターが首を傾げる。
その声色に、本物の感情はない。ちょっとした間の取り方すら、プログラムの仕様だ。
わたしは、無理やり笑って見せた。
「大丈夫です」
でも、本当は全然大丈夫じゃなかった。
*****
放課後、みんながログアウトしても、わたしは教室に残った。
手を伸ばして黒板に触れる。そこは、もちろん仮想の壁で——触感は再現されない。ただ、視界にだけひやりとした黒が広がる。
そのとき。
【Error: Reality Layer/Boundary: Unstable】
視界の右下に、見たことのない赤い警告が浮かんだ。
心臓が、二度、跳ねる。
(……現実レイヤー? 境界が、不安定……って?)
予定調和のように綺麗に作られた仮想学校に、不規則な“崩れ”が混じり始めている。これはバグじゃない。もっと——根本的な亀裂。
「やっぱり、君も見えてるんだね」
背後で声がした。
振り向くと、いつもは見かけない制服の少女が立っていた。
髪は夜明けの光を帯びた黒、瞳は銀色。
それだけでも、この世界の標準規格から外れていた。
「あ——あなた……誰?」
わたしが訊くより先に、その少女は笑った。
「——ようこそ、リアリティ・ラビリンスへ」
瞬間、教室の壁が崩れ落ち、群青の空に変わる。
床が消え、わたしと少女は、無数の光る塔が浮かぶ迷宮の上空に立っていた。
足元は、落ちれば終わりの透明な道。
(これ……仮想空間の仕様じゃない……!)
その少女は、わたしの手を取った。温度が、妙にリアルだった。
そして一言。
「現実に帰りたいなら——あなた自身を見つけて」
その言葉を呑み込む間もなく、迷宮の影から獣じみた咆哮が響いた。 目を開けたとたん、世界は群青に染まっていた。
いや、正確には——それは、わたしだけが見ている色だったのかもしれない。
現実の教室の窓から差し込む朝の光は、普通ならば白金色に近いはずだ。だけど、今日はその縁が、薄く滲んだインクのように揺れていた。
「おはよー、奏」
机の前で、陸が笑う。仮想学校モードの彼は、今日は珍しく制服の色を変更しているようだ。ビビッドな水色。それだけで、この空間が現実でないという証拠になる。
——わたしは、視界の端に浮かぶステータスメニューを閉じた。
(今日も、ちゃんと現実を忘れられてる? ……わたし)
2045年、学校の六割は仮想空間で運営されている。そこでは授業も、友達との会話も、恋愛だって、全部ログとデータで支えられている。
それが当たり前になって、もう十年。
——けれど、ここ数日は、その「当たり前」がふとした瞬間に崩れかけるのを、わたしは感じていた。
「顔色、悪くね?」
「……そう見える?」
陸の問いは、コードの乱れを検出するセンサーよりも正確に、わたしの動揺を拾う。
返事を濁した瞬間——世界の群青が、濃くなった。
黒板の文字が、一瞬だけ、崩れた。
字が砂になったみたいに、パラパラと剥がれ落ちる感覚。
他の誰も、それに気づいた様子はない。
心臓が跳ねた。これは、ただのバグ? それとも——
——ログイン先のサーバでは、こんな現象、存在しないはず。
「……天音さん?」
教卓の前で、担任の仮想アバターが首を傾げる。
その声色に、本物の感情はない。ちょっとした間の取り方すら、プログラムの仕様だ。
わたしは、無理やり笑って見せた。
「大丈夫です」
でも、本当は全然大丈夫じゃなかった。
*****
放課後、みんながログアウトしても、わたしは教室に残った。
手を伸ばして黒板に触れる。そこは、もちろん仮想の壁で——触感は再現されない。ただ、視界にだけひやりとした黒が広がる。
そのとき。
【Error: Reality Layer/Boundary: Unstable】
視界の右下に、見たことのない赤い警告が浮かんだ。
心臓が、二度、跳ねる。
(……現実レイヤー? 境界が、不安定……って?)
予定調和のように綺麗に作られた仮想学校に、不規則な“崩れ”が混じり始めている。これはバグじゃない。もっと——根本的な亀裂。
「やっぱり、君も見えてるんだね」
背後で声がした。
振り向くと、いつもは見かけない制服の少女が立っていた。
髪は夜明けの光を帯びた黒、瞳は銀色。
それだけでも、この世界の標準規格から外れていた。
「あ——あなた……誰?」
わたしが訊くより先に、その少女は笑った。
「——ようこそ、リアリティ・ラビリンスへ」
瞬間、教室の壁が崩れ落ち、群青の空に変わる。
床が消え、わたしと少女は、無数の光る塔が浮かぶ迷宮の上空に立っていた。
足元は、落ちれば終わりの透明な道。
(これ……仮想空間の仕様じゃない……!)
その少女は、わたしの手を取った。温度が、妙にリアルだった。
そして一言。
「現実に帰りたいなら——あなた自身を見つけて」
その言葉を呑み込む間もなく、迷宮の影から獣じみた咆哮が響いた。