2話「万屋だよ、怪物さん!」
するり、と人混みを抜けながら。
じぐざぐに、人混みをかわしながら。
まるで一瞬吹いた風のように走っていく。
人ごみにいた人すら、その走っていく彼の姿を認識するのに時間がかかったのか「え?」「何今の」「風凄いね」なんて漏れていた。それを無視して走りに特化した思考回路がターゲットを捕らえる。どうやら人がこないような暗い路地の方に誰かを引っ張っていく。
悲鳴が聞こえないあたり、口を抑えているのか或いはそもそも手遅れなのか。だが、それは萬にとってどうでもいい。素早く駆け込み、路地に移動する。一度急停止した後気付かれないように息を吐いた。思考回路が切り替わって、ようやくへらりとした笑いに戻る。
「見っけたよ。人連れてるけどどうなってるか分かんない」
『そこ監視カメラねえな……ドローンで上空から見ますね』
素早い対応に感謝しつつ、路地の奥側を萬が覗こうとすれば、ぐしゃ、と重い果物がつぶれる様な音がした。その音が聞こえたということは――そう言うことだ。
「よじろー、ドローンいらないわ」
『そうみたいっすね。連れ込んですぐってことは常習犯だ』
呆れたような、褒めているようなイヤホン越しの声。
やれやれ、とそのまま一歩歩き出す萬は赤い切っ先が飛んできたのを避けた。ひゅ、とそれは萬が隠れていた路地の出っ張りにあたって鈍い音を立てる。投げたナイフなど見向きもせずに奥を見遣れば、息を荒げる中年の男がもう一本の大型ナイフを握りしめて、赤い水溜りの上に立っていた。
「誰だあ~?」
「万屋だよ、怪物さん!」
へらりと笑いながら、物言わない肉塊となったそれを見遣る。頭部はつぶれて脳髄が見えている。相当な力で殴ったのだろう――倒れている体格的に男性だろうか。そしてそれが、青い法被をかけた――それに見覚えがある。先程自分たちに話しかけてきた、客引きの男。
「…………うーん、気分悪いねえ」
「へっへっへ……そう、か。お前、アングラの犬か」
「わおーん、て鳴いてみようか?」
中年の男はそんな事も気にせず、手に革財布を持ちながら、萬の方にナイフを構える。へっへ、と息が荒い。酒か、と最初は思ったがくん、と鼻を突く鉄臭さに混じる甘い匂いに納得がいった。
「なるほどね、キャンディもキメてたか」
嫌そうな顔をしながら、通信機をノックする。
「ちょっと厄介かもしんないー」
『頑張ってくださーい』
「棒読みィ!」
「なんだよおれのかねがほしいのかああ」
と、人間だった顔に本来あるはずがない、十字の亀裂が入り込む。
「いや、それお前の金じゃねえし。そもそも俺はあんたを殺しに来たんですけど」
呆れた萬の声など届かない。だが、人間からは絶対しないような、粘着質な音が男の身体から響く。
「おれのかねおれのかねかね、かねかねえええええええ」
「あー。ダメなキメ方してるわ……」
涎をまき散らして、ハイライトを無くした瞳が、萬に対して敵意と殺意をむき出しにしながら迫ってくる。仕方ないと、素早く中年男がいた場所へと駆けていき、場所を交代する。そのまま転がっていた死体を蹴飛ばして、奥へと逃げていく。
その手には素早く盗った男の金だと言い張る財布が握られながら。
「まてまてまてまてかえせええええええ!!!!!」
「返してほしかったらおいでー」
「かえせえええええええええ!!!!」
路地で大きく声を荒げる。これは素早く終わらせなければ、二次被害に発展しそうだと舌打ちしつつも奥へと誘い込む。
鬼さんこちら、手の鳴る方へ――鬼ごっこのように鬼である中年男だったものが、獲物である萬を追い込んでいくように仕向けながら。
ががん、と頭を打ち付ける音。
がちゃん、とガラス瓶が割れる音。
うひゃひゃ、と涎が落ちて笑い飛ばす声。
だがその姿は最早人ではなく――うじゅうじゅと、気分が悪い音を撒き散らしながら、蠢くスライム型の化け物となっていた。いくつかの目が、萬を見て追いかけていく姿はパニックホラーの映画のようだ。
そんな狂った末路を萬は頑張るね、と笑い飛ばしながら路地の奥――行き止まりまで追い込んだ。
ゲラゲラと涎を更にまき散らして血まみれのスライムが笑う。
カエルの鳴き声のようなそれは不快に聞こえるだろう――そのまま駆け出して自らの触手を鋭く刃物に変形させ突き刺そうと、して。
視界の先に、誰もいないことに気付いたのは――自分の身体から鳴ってはいけない大きな音がしてからだった。
ぼぎゃ。
それは男の最期の言葉か、或いは何かが折れた音なのか。自分の視界が、路地の向こう側を向いた気がした。
「異世界の奴に薬物食わせんなって、ての!」
少なくとも不快な叫び声はもう聞こえない――やれやれと音を作った当人である萬が呆れた顔をしながら、人に擬態していた際着ていた服のポケットを嫌そうに漁る。
案外潔癖症なのかも、なんて苦笑しながら、お目当てのものを引っ張り出す。
そこには男が通っていたビル内の店のカード、そして小さいポリ袋に入った赤い粉。
「ビンゴ~。はてさて、合流しますかね」
大きく伸びをしながら路地裏を出ていこうとして、自分の足跡に気が付く。赤くべったりとした証拠は流石に出歩くにはきついだろうな、と溜息を吐きながら持っていた日本刀を畳んで仕舞い込みリュックから替えの靴を取り出す。
「よじろー、経費で靴頼んどいて~」
『……いつも思うんすけど大事なとこ抜けてるっすよね。萬サン』
「ひどくない? そんなことないし」
『あるでしょ。掃除課呼んでくださいよ』
「あ」
完全に忘れていた声をあげて、通信機の奥から大きな溜息が聞こえた。
『こっちで頼みました』
「さっすがー! あ、ねえ。よじろーに追加でお願いしたいんだけど」
『お願い?』
訝し気に聞いてくる彼に、素直に萬が答える。
「被害にあった人の身元調べてくんない? ちょいとお詫びをしたいんだよねえ」
『…………割高になるっすよ』
「いいよ。俺の給料からの天引きで構わないからよろしく~」
『知り合いっすか?』
「んーただの気まぐれ」
そう、ただの気まぐれ。とはいえそこまで気分がすっきりしないのも事実だ。
新しくなった靴を跳躍しながら確認して、血だまりを飛び越える。
そのまま暗い路地奥から明るい歩道へ抜け出して、元の道へと戻る。人々は知らないし近寄ろうともしない、狭い路地裏は明るさにかき消されていく。そこに二つの死体があることなど誰も気付かないし、見ることもないのだろう。
「さぁて、ヤオちゃんはどうかなあ?」
次回6/4 19:00更新予定です。