第八夢
第八夢
六歳の子供をおぶっていた。確かに自分の子供である。一人息子だった。
子供は丁度その六歳の時、今から七年前に交通事故で亡くした。まだまだ育ち盛りの男の子だった。
もちろん、未だにつらい記憶として柿本家に残っている。
毎日写真にお祈りしてから出かけている。
毎晩写真にお祈りしてから床についている。
フットサル大会が行われていた二階席は控室的役割で、僕は試合前に子供をそこでおぶっていた。
異常に軽かった。
「いつからこんなに軽くなったの?」
「前からずうっと」
子供は拓也といった。戒名にも拓の字が入った。拓也はそう答えた。
「ねえ、パパ」
「なんだい、たっくん」
「次の試合、パパ出るの?」
「キーパーやってるキャプテンのおじさんが出ろといえばね」
「なんかパパ、次の試合でゴールしそうな気がする」
「本当に? パパはまだ一回も試合で点を取ったことないんだよ」
「だいじょうぶ。ぼくは分かるの。上から見てるから。ゴールしてね指切りげんまん」
「分かった。パパ頑張るよ、指切りげんまん」
拓也は首筋から右手を僕に差し出した。優しくて柔らかい小指。六歳まで暖かく優しい子供に育ってくれたが、現実の僕はこの小指ともう指切りはできない。
「ヒトマロ、先発で頼むな。葉月がいつもの寝坊でまだ来ないんだ。相変わらずの重役出勤だな、あいつ」
不意に隣にいた徳本さんが話しかけてくる。やっぱり葉月さんは遅れてくるのだろう。
僕は力強く頷いた。
「全然行けます」
「オッケー、お願いね。無理と怪我だけはするなよ。じゃそろそろ下りよう」
「はい。じゃあねたっくん、パパ頑張ってくるね」
僕は、おぶっていた拓也を下ろした。下ろした瞬間に拓也は消えかける蝋燭の火のように突然光って、影も形もなくなった。
×
「そんな夢を見たのか」
徳本さんが話を優しく聞いてくれた。
「三日くらい前のことです。そして今日は奇しくも拓也の命日なんです」
僕は半分くらい泣きそうになっていた。
「そうか。そうときたらということでもないんだけどさっき伝えたようにヒトマロ、おまえ初戦先発だぞ。葉月の奴、また寝坊しているんだろう。家が近いくせにいつも大トリで現れるよな。LINEも既読にすらならないんだ。いつ起きるんだか。せっかくだからヒトマロ、息子さんのためにパルムドール初ゴール狙おうぜ」
開会式が十分後に近づいている。終わればすぐ僕らの初戦だ。
僕は黙って頷いた。
×
例年九月のどこかの土曜日に、フットサル対抗戦はこの地区にある健康センターの大きめの体育館で行われる。
七年前の今日、この年の試合は終わっていたが九月末の土曜日の休みを利用し、晴れたので六歳の拓也と僕は家の近くの公園で、遊びを兼ねてパス交換の練習をしていた。
僕は拓也の足元に転がるよう、正確にパスを送っていたが、拓也はまだボールは蹴られるものの、満足なパスやフィードの域に達する質のボールは当たり前に出せない。
案の定、拓也が蹴ったボールは僕より遥か左に逸れ、道路際にこぼれていった。
「ぼくが行く!」
拓也は一目散にボールを取りに行った。
魔が差した…のは言い訳だ。自分のせいでパスが逸れた責任感もあったのだろう。僕は拓也に任せてしまった。気をつけてすらいわずに。
一瞬だった。
拓也とトラックがお互いの出す悲鳴と急ブレーキ音を発し、直後それが莫大な激突音に変わった。
僕は茫然と立ち尽くしてしまった。救急車も呼んだ記憶すらない。後で聞いたところ相手は酒気帯び運転でスピードを二十キロオーバーしていた。拓也はそのスピードのトラックの車体に身体を強く打ち、即死だったという。とはいえかけがえのない命がなくなったらそんな情報はもはや必要がなかった。
「むしろあなたが死ねばまだ良かったのよ」
一人息子の訃報を聞き病院に駆けつけた妻に思い切り責められた。
「それが親ってもんじゃないの? 何を黙って見てたのよ。子供の代わりに死ぬのが親でしょ、違う?」
図星だ。
僕が代わりに行っていれば。車に気をつけろの一言もかけていれば。
二人の大事な宝物である拓也を死なせずに済んだかもしれない。きっとそうだ。
「この人殺し」
一週間以上、妻には事ある度にそこまでいわれたが、僕は反論できなかった。
次こんなことがあったら、僕が行こう。
拓也の命にはまるで関係のない後悔と決意。もう拓也は戻らない事実は心に漬物石のような重しを置かれ、苦い記憶は塩漬けにされた。賠償金や示談の交渉も主に妻が行い、僕はその場にはいたもののまるで上の空だった。
拓也が荼毘に付され、お墓に入ると妻は「人殺し」とはいわなくなった。しかしまだ二人とも最愛の息子を失った傷口にはかさぶたすらできていない。
でも、フットサルはそれ以降も続けた。
「息子さんのためにも何か身体を動かした方がいいよ。気晴らしにもなるし。俺らとフットサルを続けなよ」
そういってくれた徳本さんや葉月さんをはじめとした仲間が助けてくれた。妻も黙認してくれた。あまり上手くないので試合でゴールを決めることはなかったが、それでもボールを蹴ることで、空の上に行ってしまった拓也に僕の笑顔を見せているように思えることが唯一の慰めとなった。
妻は妻で友達と良くライブに行くようになった。思い切り歌って踊って発散させていると勝手に思っている。僕がフットサルを続けることに妻が何もいわなかったように、僕も休日や平日夜一人で出かける妻に何もいわなかった。
×
「そうかー、あれからもう七年になるのか。今日が命日だったんだな」
徳本さんは氷柱から落ちる水滴のようにポツリといった。
「そういえば最近どうなの奥さんとは?」
「なんとか表向きは仲良くやってます」
「表向きって…別れそうなのか?」
「まあおぼん・こぼんよりは仲はいいとは思いますよ」
「比較対象が悪すぎるだろう…あれより悪かったら泥沼系の離婚だぞ」
徳本さんはおぼん・こぼんの例えでケラケラ笑ってたが、真顔に戻った。
「今日こそはゴール決めたいよな。ヒトマロはまだ公式戦ゴールないもんな。初ゴールを息子さんに見せてやりたいよな」
もちろん。
「ごっつぁんゴール作戦で行くか。ゴール前にいる牧瀬にボールが渡ったらシュートのこぼれ球を狙え。牧瀬が決めたらそれはそれでいいけど、こぼれ球を狙ってポジションを取るんだ。大事な今日の初戦だけど、ヒトマロはゴールのことだけ考えろ。俺が許す」
ポジションはなんとなくは決まってるが、特にうちのチームはあってないようなもんだ。試合もナマモノ、流動的だ。徳本さんは後ろからでも行けたらどんどん上がってシュートを狙えという。
「じゃヒトマロ、頼んだぞ」
徳本さんはしっかりと僕の目を見て肩を叩いた。
試合になると僕は相手の位置ではなく牧瀬の位置取りを見ていた。牧瀬は右利きだから、この辺に…向かって左側にシュートするよな。つまりは右から切れ込んでこちらサイドから見てファーになる左側のサイドネットを揺らすシュートが彼の形だった。牧瀬は身長が高いが実は右足の外側を使ってアウトにかける弾道が一番得意なのだ。
となると、キーパーは基本真ん中から向かって左に飛ぶからやっぱり左側から切れ込んでこぼれたら押しこむのがベストだな。個人技の引き出しがほぼない僕である。徳本さんのいうようにごっつぁんゴール狙いしかない。そう思いながらプレーした。相手のマークは早い。しかし一歩下がる予備動作を入れれば一歩分フリーでゴール前に行ける。
それでも前半はシュートチャンスがなかった。上手く試合に入りこめてないようだ。相手も様子見で膠着状態。両チームがスコアレスで前半を終えた。
「後半はもっとゴール前に上がれよ。とにかくシュートを打とう。打たないと何も起こらないから」
徳本さんが僕にハッパをかけた。
後半二分くらい経過したくらいだろうか。チャンスが回ってきた。もっと正確にいえば匂いがした。蓮田がゴール前で上手く身体を寄せボールを奪い、牧瀬に一気に長いパスを送る。
センターサークルあたりにいた僕は蓮田の意図が見えた。蓮田がボールを蹴り出す瞬間だ。考えるよりも先に一歩目が出ていた。素早く一歩下がり、マークについていた相手を一瞬振り切るや否や、左サイドをゴール前に向かって全力で走る。無我夢中でゴールの左ポスト目掛けて猛ダッシュした。蓮田の早いパスはあっという間に僕の右側を追い越した。
こぼれてくる。確信があった。牧瀬には悪いがきっとキーパーがセーブして目の前にボールは来る。他のチームメイトは牧瀬が決めるイメージだっただろう。僕は違った。来る。
いや来い!
ゴール前で待ち構えていた牧瀬がほぼフリーでシュートを打つ。右足のアウトだ。キーパーの伸ばす手の延長線が見えたような気がした。弾道は吸い込まれるようにキーパーの手の伸びるラインへ行ってしまう。やはり不調のエースのシュートは相手キーパーに弾かれる。
来た、と打つ! はコンマ数秒の時差でほぼ同時だった。こぼれている僕の目の前のボールを必死で右足を出して爪先で押しこむ。体勢がまだ完全に整っていないキーパーの脇をかすめたボールがゴールへ強く転がる。僕は誰よりも早く決めたのを確信した。
主審のホイッスルが鳴った。ゴールイン。僕の記念すべきパルムドール在籍初ゴールはこうして決まった。
思わず僕は右に走って天井に両手の人差し指を差した。追悼を意味するゴールパフォーマンスだ。
たっくん、ゴールしたよ! 見ててくれたかい?
…と思った瞬間、僕は蓮田と牧瀬にもみくちゃにされていた。涙くらい流させてくれよ。
遅れて徳本さんやピッチのチームメイト、それに様子見していたベンチにいた他の仲間も輪に加わる。まるでサヨナラホームランを打ってホームインした選手へのような手荒く、暖かいお祝いだった。
普通、ゴールのセレブレーションというのはもう少しどころか相当にあっさりしたものなのだが、僕の初ゴールとあってありがたいことにそこにいたチーム全員の喜びが爆発していた。
「ヒトマロ、一発で決めたな! 夢の通りじゃん!」
徳本さんも泣きそうになって自分のことのように喜んでくれた。
「ヒトマロさん、ナイス!」
蓮田がもう一度抱きついてきた。このままキスでもされそうな勢いだ。
一発で決めたかった。一回目で決めなければならなかった。次またチャンスがくるとは限らない。そもそも僕は控えメンバーで、葉月さんがいるのなら基本お呼びではない。だから最初で最後のつもりで試合に入らなければならないし、どうしてもゲットしたかった。
「きっと息子さんもお空で喜んでるよ」
徳本さんは泣かせることをいってくる。でもきっと。拓也は見ててくれただろう。
ほらパパ、ぼくのいったとおりでしょ?
そういってくれてるといいな。
丁度その時。目をこすりながらおっとり刀で誰もいないベンチに現れた葉月さんだけが事情が分からず首を傾げていた。
主審がイエロー出しますよ! と警告してようやく即席の宴は終わった。まだ試合途中である。
自陣に戻る時。僕は一瞬下を向いた牧瀬の青汁を飲んだ後のような苦虫を噛み潰した顔を見逃さなかった。あれはエースなら決めなければならなかった。スランプはもうしばらく続きそうだ。
そうだ、昨日見たあの夢の話をしよう…と思いかけた瞬間にホイッスルが鳴る。ゲーム再開。もう考えている場合ではない。僕は元いた後ろ目のポジションを取り、再び相手の標的となる選手に正対していた。