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夢の中へ  作者: 住川奏
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第七夢

 第七夢


  僕が実家に帰ると、夕方の茶の間にはもう酒盛りの準備が整っていて、上座にあたる席では既に亡くなっているはずの父親が一人パジャマ姿で酔っ払っていた。机の灰皿には山のような吸い殻。そしてビールの潰した空き缶が五つほど放置されている。早くから飲んだくれているのだろう。

 世田谷区にあるとはいえボロい借家の一軒家が一つ前の我が実家である。父が亡くなったため、今は母親がちょっとだけそこから離れた安い賃貸マンションにいる。

 しかし夢の中だ。あの頃の薄暗い六畳の食卓。記憶が蘇る。都内だが決して裕福ではなかった。しかし三食食べられたのでそこまで極貧でもなかった。

「ヒロシか」

 …ヒロシです。哀愁漂う往年のお笑い芸人を真似ていったのだが父には全然響いていない。酔っているからだろう、そう思うことにした。何を今更だが僕はヒロシという。

「会社はどうだい」

 おまえも飲め、とはいわないあたりが父らしい。

「『あそこ』はみんないい人だけど、面倒で嫌な仕事ばかりだよ」

「仕事は嫌いか」

「好きじゃない。遠いし。」

「そうなったのはおまえの自業自得じゃないか」

 父は一気にビールを呷ってまた煙草に火をつけた。このご時世で一日二箱は吸うくらいのチェーンスモーカーだ。確かウイスキーのロックが好きだったはずだが、今日はずっとビールだったようだ。お代わりの手つかずのロング缶も既に二本並んでいる。

 机には枝豆、ニラレバ、サラダ、玉子焼き等のおつまみが乱雑に並んでいた。僕はそれらが母の手料理だと分かったので手をつけたくはなかった。端的にいえば母の料理は何を作っても美味しくないのだ。結婚して妻に料理を作ってもらったり、自分で料理をするようになって初めて気づいたくらいだ。それにまだ酒もきていない。

「ヒロシはいくつになるんだ?」

 煙を無遠慮にこっちに吐くのもまたこの父親ならではのリテラシーである。

「もうこの十二月で五十だよ」

「五十か、もうそんな歳なんだな」

「お互いにね」

 父が煙草を灰皿に置き、ロング缶を開けて僕に勧めることもなくかといってコップを母に持って来させるのでもなく、己のコップに注ぎ自分だけビールを飲む。家なんだし缶から直に飲んでもいいものだが。

「父さんはいくつ?」

「忘れちゃったよ」

 物語の冒頭でも書いたが、父は五年前に七十三歳で他界した。肺がんでステージ4までいったのに、煙草が最後までやめられない人だった。病院のベッドではまだ生きている母親が元気になるようにと煙草を父の傍に置いていたし、出棺の時もいつも父がマイルドセブン時代から吸っていたメビウスを一箱入れた。

 僕は煙臭いのがとにかく苦手だったのと、そんな父親を反面教師にしたので生涯で一度も喫煙したことはない。

 高校時代はまだ平成になったばかりで、高校生の飲酒・喫煙も今では考えられないほど行われ、端的にいえばとても緩かった。しかも偏差値がそんなに高くない公立学校だったので、周りの連中は煙草を隠れて吸う人間だらけだったが、僕は父親みたいにあんな煙臭くなるのが嫌だったので、頑なに吸わない当時では珍しい生徒だった。

「調子はどうだい」

「ぼちぼちだね」

 …しばらく沈黙が流れた。

「父さんは今でもヒロシのことは障害者とは思ってないからな」

 始まった。

 大体晩年の父親は話題がなくなるとこればかりだった。


 僕は今から十年前…父が他界する五年ほど前、煙草でいえば丁度マイセンがメビウスに変わった頃だ…に発達障害の一種である注意欠陥・多動性障害(ADHD)と抑うつ病と診断された。日常生活はほぼ問題なく、障害発覚前に車の免許もギリギリ取れて運転もしていた。

 しかし会社で物を良く失くす、マルチタスクができない、社用車で何度も事故りかける、そして何より他人とのコミュニケーションが上手く取れない症状が頻発しては、仕事で失敗し上司に叱責されては落ち込むことが重なり、実家へも相談できず自殺まで考えた。

 結局相談をきちんと聞き、心療内科へ背中を押してくれたのは妻だった。

 死ぬ勇気があるんなら精神科にも行けるでしょう? といわれ、まずは会社の産業医にメンタルの相談をし、その産業医に紹介された御茶ノ水の大きな病院の心療内科に行って診てもらい障害が発覚したのだ。

 前に勤めていた会社では精神障害者の勤務枠は既に埋まっていたので辞職を余儀なくされた。失業期間は約三ヶ月。都の発行する障害者手帳の発行手続きや失業手当の受給と並行し、障害者雇用のエージェントをネットで探し、あげくそこが見つけ出してきたのが、自宅から二時間半かけ電車とバスを乗り継いで通っているコンビナート。そう「あそこ」の事業所だ。前と同じ化学会社。今度は障害を加味しての事務仕事だった。

 障害者雇用なので年収は落ちたのは以前にバスのくだりで話した通り。それでも前職在籍中に板橋区に買ったマンションのローンは完済していた。何より妻が小遣いを渋った分繰り上げ返済をせっせとしたおかげだ。だから五十を迎え多少生活に余裕が出て障害者雇用の年収でも十分に暮らしていけていた。

 一方父は生前終始僕の数多い失敗や冴えないテストの点数や学歴、そして優秀な妹が一人いるのだがその妹との差は僕の気の緩みである、と断じて揺るがなかった。

 父親自身は浮気をしたり、医者から再三止められた煙草をやめなかったりと完全に不完全だった。死ぬ前に受けたがんの検査入院では医師に当然止められていたにも関わらず、便所で隠れて煙草を吸っていたのを看護師のおばさんに見つかり、いい歳こいた老人が医者から大目玉を喰らった。まるで生徒指導の教師に叱られる子供そのものであった。

 しかし子供へは自己の幼稚性の反動なのか過剰な完璧主義を貫いた。特に失敗を数多くする僕には、妹に比べ日々真面目に生きていないからだと決めつけ執拗に叱り続けた。

 俺の教育は一つも間違ってない、できないのはヒロシが真剣に集中して取り組んでないからだ、と持論もといとんでもない暴論をいい何度も叱責されては殴られた。教育に関する専門書は一冊も読まず、他所の教育はなってないと切って捨て、独学という名のただの思いこみで自分が愛情を注ぎさえすれば完璧な子供になる、という妄想を暴走させていた。

 ヒロシをこんなダメな人間に育てた覚えはない。目を覚ませ、もっと真面目にやれ、(自分はやったことがなさそうなのに)やれば必ずできるが口癖だった。僕は一度でもいいからミスをする弱い自分を認めて欲しかったが、出発点も終着点も強烈な僕への真の愛情はなく己の自己愛でしかない父には無理な注文だった。何百発殴られただろうか。いっそ死んでもらいたいのかとすら思った。叱責は執拗で冷徹だった。殴られては反撃を試みても上手く殴れず、その姿勢を見せるとこんなにも愛している親に向かってなんてことをするんだ、と余計に殴られた。どこか理不尽を感じていた。

 自分は決して手を抜いていた訳ではない。発覚も自覚もしてなかったが当時から障害持ちの故、本当に頭と身体が周りについていけなかったので成績は良くなかった。

 なので高校時代は一念発起して部活をせず、その時間に人の何倍も勉強した。おかげであまり頭の良くない都立高校からあまり頭の良くない都内の私立大学に現役で進学できた。氷河期といわれた就職もなんとか大卒の学歴があったからか乗り切れ、「あそこ」に行く前は東京の中堅の化学会社でうだつのあがらない営業を長年勤め、ちっとも成績が上がらない窓際族そのものの社員だった。

 しかし両親はもちろん、大学進学時も就職時もその程度の大学やその程度の会社とは情けないにもほどがある、それでもうちの子か! と酷評された。父親だって中小企業で係長にすらなれなかったくせに、自分のことは子供の手の届かない高さの棚に上げていた。貧乏なのは財布だけではなく、両親の想像力と品性だったと思う。

 一方三つ下の妹は文武ともすなわち大変勉強もできて、かつ習っていたモダンバレエもいきなりソロで発表会に出るほど優秀だった。クラスのテストは常にトップ争いで、笛を吹かせれば学校一といわれ、走らせればリレーのアンカー、小六の学芸会では劇で主役を演じた。極めて順調にかなり頭の良い都立高校から現役で東京六大学に進学したから、両親には常に妹と比較され悔しさを味わった。妹は就職も華やかなアパレル業界で、服を売りまくり初年度からトップセールス。その後日比谷のブティックの店長に僅か三年で上り詰めた。少年野球や野球部でレギュラーすら取れず、会社からいわれた営業ノルマもろくすっぽ果たせなかった僕とは大違いである。

 妹が対照的にほとんどミスをせず、現役で六大学に行けたもんだから、ますます二人の誤解は確信に変わったようだった。私達両親の教育は百パーセント間違っていない。ヒロシは努力しない子、サエコは努力する子。親の対応の明暗はくっきりだった。

 一番痛めつけられたのは大学三年生の時だ。妹が六大学に現役合格した日、僕は父の部屋兼両親の寝室に呼び出された。父の狭い部屋の中央に正座をさせられ父の「愛情」を存分に受けた。

「サエコは現役で六大学だぞ。それに比べ、おまえが行っている偏差値の低い大学は中

卒と変わらない」と罵られた。

「サエコの人生を見ろ。そしておまえの惨めさを見ろ。人生は努力と結果が全てだ。おまえみたいにならないように父さん母さんが疑いの余地もなく完璧な教育をしたというのに。集中力と向上心と真面目さのないヒロシのダメさが情けないよ。なぜ真剣に、全力で取り組まなかった? 真剣にやればサエコのように余裕で六大学に受かるんだぞ。生きることの全てを俺は教えてきた。俺のいうことは常に正しい。なのにおまえは最後までいうことを聞かなかった。ミスばかり。落ちこぼれてばかり。到底うちの子だとは思いたくない」

 この恥晒しめ!

 そういって煙草に火をつけた父は竹刀で頭から首から肩、足腰まで咥え煙草でボコボコに殴られた。僕は僕でやれることはしたのに、あまりにも理不尽な仕打ちだった。

 まるで映画「アンタッチャブル」でアル・カポネを演じたロバート・デ・ニーロが野球のバットでマフィアを撲殺するシーンそっくりだった。三十発くらいまではなんとなく数えていたが以降は記憶にない。たくさん竹刀でしばかれた。父は叩けば叩くほど興奮して、ますます力が入ってくる。親の期待に応えられない情けなさはとうに通り越し、理不尽に暴力をふるわれることへの憎しみへと変わった。

「暴力と思ってるだろう。だからおまえはいつまで経ってもダメなんだ。これは俺の限

りない愛情なんだぞ! この落ちこぼれめ!」

 いや、どう見ても暴力です。本当にありがとうございました。二十分は竹刀で叩かれ続けたと思う。意識が朦朧とし死ぬかと思った。頭に何箇所コブができただろうか。完全な暴力だが、仮に警察を呼んでも無意味だろう。父と母で上手く口裏を合わせるはずだ。仕返しなどしようものなら逆にこの男は躊躇なく息子に殺されかけたと警察を呼ぶかフルパワーで僕を殺すだろう。これもやはり母と口裏を合わせるはずだ。

 いつかこいつを殺してやる、薄れる意識の中その思いだけでなんとか自分を支え、父が僕のへたりこんだ姿ではなく、単に疲れて飽きてやめるまで乗り切った。

 …父さん。あなたは本当に僕の実の父親なんですか?

 高校時代に発表されたジェネシスの「ノー・サン・オブ・マイン」という曲をラジオで聞いて次の日にCDを買って以来(妹の半分だったが一応お小遣いもくれはした)、事ある度に殴られる時、その曲が何度も何度も頭に流れていた。

 高校は友達でバンドを組むのが流行っていたが勉強でその波に乗り損ねた。クラスメイトがガンズアンドローゼズを競って演奏する代わりに、僕は勉強中FMを聞いて好みな曲

をチェックしては、少ない小遣いの大部分はガンズ以外のCDに消えた。その頃から自分好みの曲を聴きまくる趣味は続いている。音楽は僕のほぼ唯一の救いだった。

 うちにはサエコさえいればいいんだ…おまえとはいつ縁を切ってもいいんだぞ、と父と一対一になった時何度もいわれた。一度後で母親に父にそういわれたと告げても「父さんがそんなこという訳はない。仮に百歩譲っていったとしても、あなたがサエコより全てにおいて不甲斐ないからこそのエールじゃない。頑張りなさい。頑張れば必ずできるのよ」と相手にすらされなかった。

 母親は常に全面的に父親の味方だった。浮気すらされてもまだ味方だった。あたしの愛が足りないから、と呆気なく許したのだ。冗談ではない。全面的に父に問題があったと思う。浮気相手に手切れ金をケチり、キレた相手が日曜の家族での晩飯時に家へ怒鳴りこみ発覚する、というセコさもまた父らしかった。

 母は父にある意味カルト宗教の教祖と出家信者の関係のごとく洗脳されていたので、常に父親に続いて僕を叱った。代わりに妹が二人分褒められた。

 子供がどう思うか考えずに、親の愛という名の人格否定が無条件で免罪符になるのかが僕には釈然としなかった。両親曰く一点の疑問も、一回の軌道修正もなく僕は愛されたのだという。でも妹と終始比べられ身も心も傷つけられた気持ちはどうなるのだろう? なぜミスが許されなかったのだろうか。人である以上ミスをするし、そのミスも含めて愛するのが真の親であり、真の親の愛情ではないのか?

 まあ確かに少しは愛してはいたのだろう…学費を払ってくれたことや小遣いをくれ、一応食べさせてはくれたから…そのこと以外には伝わってこなかったけど。

 夢に関する異常な執心、電車が定時から遅れる、好きなスポーツチームや選手が負ける、何人かで食事をした際必ず自分のオーダーが一番後にくる(酷い時は自分だけオーダーを忘れられることも何度もあった)、仕事の失敗も含めそれらを全部自分の落ち口裏ぼれた運命と障害によるポテンシャルのなさのせいにしては自分を傷つける。あまりここまでは書いてこなかったが、屈折したマインドはこうして出来上がってしまった。


「何度でもいうぞ。発達障害なんて嘘だ。複数のことが一度にこなせない? そんな都合の良い障害なんてあるものか。ヒロシが真面目じゃないからだろう。第一、この完璧な俺の子供に障害なんてある訳がない。ヤブ医者の診断に縋って真剣に努力することから逃げたおまえのいい口実に過ぎん」

「まあまあ」

 僕は宥める。

 今まで散々僕は父を殴ろうと、あるいは殺そうと何度も思ったほどだが、この夢ではなぜかそんな気になれなかった。

「せっかく会えたんだから」

「いいや、許せん。おまえは逃げた卑怯者だ。現にサエコh…」

と妹の名前を食い気味にいわれたところで、母親がそうめんを運んできた。

「今、麺つゆとお椀持ってくるからね」

「またそうめんか、昨日も食べたばかりだぞ」

「いったでしょ、賞味期限間近のを安いからたくさん買ってきちゃったって」

 そういえば暑い。家の冷房は常に弱かった。電気代を気にするような家ということだ。

 母親が持ってきたそうめんのおかげか、父の一方的な思いこみの叱責はそこで途切れた。

「そうめん、おまえも食え」

「はい、麺つゆとお椀」母が僕に渡す。箸はそこにある使ってない割り箸を使ってね。

 コップは? その前に乾杯が先だろうに…

 そうめんが美味しくないのは分かっていた。今日は八月くらいなのだろう、ぬるい水道水に氷がすぐ溶け、麺はその水を吸ってすっかり不味くなっている。麺つゆをつける度に水を吸った麺がつゆをみるみる薄くしていく。実家のそうめんときたらそれはそれは美味しくない。最近ネットでレシピ動画を見るまで、そうめんはまるで興味がない食材だった。

 両親は僕にお酒の一口も飲ませることもなく、代わりにお椀と割り箸が届いた。

「ほら、早く食え」

 乾杯もなく不本意だがそうめんを軽く一掴みしてお椀に入れ、上からストレートタイプの麺つゆをぶっかけて啜る。

 ああ、マズい。


 ×

 

「そんな夢を見たんだ」

 いつもは僕の夢の話をロクに聞きもしないかバカにする妻だが、今日は違った。僕が父親に愛という名の始末におえない虐待を受けていたのを知っているから、時々夢、いや悪夢に出る父親の話の時だけは黙って最後まで聞いてくれる。

「あなたのそこのところだけは同情するわ…ADHDはどうしようもないからともかく、抑うつはきっと親のせいだしね」

 親に愛情がなくて純粋な虐待をされた方がもっと同情されたかもしれない。僕は明後日の方向とはいえ親の自称愛情は受けてきたから「でも許してあげなさいよ、それだけ愛してくれたんだから」ときっと事情を詳細に知らない周りにはいわれるだろう。 

 妻は僕の心を全部とはいわないがそれでも大半を理解してくれた初めての、そして今のところ唯一の人だった。

 馴れ初めを話そう。二十何年か前の話だ。いくつかの化学会社の労組繋がりでクリスマス交流会というのがあった。どうしても周りと波長が合わず、数合わせで参加した僕は仕方なく皆の飲み物を作っていたら、なぜか別の化学会社にいた彼女だけが気にかけ話しかけてくれた。僕は損な役回りも全てこの自分の運の持ってなさに起因すると思っていたから、女性と仲良くするなどと思いもよらなかった。

「あたしで良かったら話してよ。なんでもいいから」

 初めて聞いた言葉。彼女とそれからサシ飲みしながらその言葉に甘えた。生い立ちと趣味だった音楽鑑賞について話したら興味を持ってくれた。洋邦ジャンルを問わず音楽を聴くというと、サラ・ヴォーンやミューズ、オーティス・レディングやポール・モーリア、果ては井上陽水に森進一の襟裳岬に至るまで好きな音楽について会が終わるまで語り尽くした。彼女はドン引きどころか、僕の幅広い音楽の好みに初めてポジティブな反応を示した女性だった。僕は今よりだいぶ痩せていて、少しだけ見栄えも良かったのもあったのだろうが、それが馴れ初めだった。

 出会いから一年近く僕と妻は都内の色々な場所をデートして、より詳しくどういう親の教えを受けたかという話をした。ドン引きするかと思ったが、勇気を持って全部洗いざらい親に愛という名のネグレクトを受けたことを話したら、妻は受け入れてくれた。

「第一印象からどこかかわいそうな人だと思ってたけど、そこまでとはね。でも今日が楽しければチャラになるものよ。それを積み重ねていくうちに少しずつ忘れると思うよ」

 彼女は真摯に聞いてくれた。少しずつ頑丈な氷が溶けるように、僕は妻に心を許していった。話の中で彼女は被害妄想はそれと指摘はしたが、両親のように頭ごなしに否定せず、僕の本当の気持ちを聞いてくれた。彼女のことをツボでも売る詐欺師かと最初は疑ってたが、そのうち詐欺師だとしても全然構わなくなった。最初は恐る恐るだったが、軽口もいいあえるようになった。コーヒーを全く飲まなかった妻が僕とデートを重ねるうちに北欧的浅煎りの豆で淹れたものは積極的に飲むようになった。歳が五歳上だと判明したが全然気にならなかった。何度もカフェに行ったが阿佐ヶ谷姉妹のネタのようにツボも売りつけられることもなかった。

 僕は、知り合って二回目の四月のある晴れた日曜日に柴又へ一緒にいき、矢切の渡しが望める江戸川の堤防へ彼女を連れていった。二人で土手に座って穏やかに流れる水面を眺めながら、僕は心臓バクバクでプロポーズした。

 妻は優しく頷いた。

「いいのかい? 本当にいいのかい?」

「じゃあなんでプロポーズしたのよ。自信もって。結婚しよ」

 僕は何かをいおうとしたが、言葉が見つからない。

「何かいいたいことあるの? すぐ出てこないなら待った方がいい?」

 少し考えて、いいよ君から、といった。

「あなたは、親にいわれるほど酷くはないから。あんなこといわれてきてもじっと我慢して手の一つも出さなかったじゃない」

 手を出せなかった要素もあったけれど。

「あたしは話を聞いていてあなたの優しさを感じたし、何よりそんな親でも愛そうと懸命だったと感じた。あの毒親のいう通りになろうとあなたなりに懸命に努力した。あなたは愛したら愛で返そうとしてくれる人なのよ。どんなに叶わなくてもそこはブレてないでしょう? そういう人、いそうでなかなかいないよ。絶対私は見捨てないから」

 僕も絶対見捨てない。そう心に誓った。

 結婚に関しては親も何もいわなかった。僕一人の時はあれほどいわれた小言も、妻の前では猫被り。外面は二人とも極めて良いのだ。しかし妻は結婚式と父の葬式以外、親と妹には会わなかった。結婚し、暇ができると僕は妻に料理を教わりつつ作るようになった。

 妻はその約十年後、先述したように僕の発達障害と抑うつ病が発覚し転職しても僕とそれまで通り接し決して見捨てなかった。態度も一切変わらなかった。

 もともと精神面では正常じゃない兆しはあったとはいえ医師の診断となると話は別だと思ったが、同じでいてくれた。心から。

「…つらかったね」

 家に帰り医師から障害と抑うつがあることを告げると、たったのその一言だけだった。僕は抱きしめてくれた妻の腕の中で号泣した。

 あれから色々な紆余曲折はあった。いいことも、もちろんつらいことも。被害妄想で何度も自分を責めすぎると、己はもちろん妻も傷つく。傷ついた妻を見て自分だけならともかく妻まで傷つけるのは流石にまずいと思った。

 それからなるべく笑顔でいよう、と思いなるべく傷つけないように父のことは思い出さないように努めてきた。

 ただ、夢への妙な妄想はなかなか捨てきれなかった。なのでとりあえず誰かに話す。主に妻だけど。

「夢は所詮夢よ。目が覚めている世界、この現実を、今から一つずつあなたにもできることを積み重ねればいいんだって。あたしも何回もいうよ。難しいのは分かっている。でもいつものことだけど前向きになって楽しんだもんを積み重ねた人が勝ちだから」

 そういうもんかねえ…僕も頭では分かっているのだ。頭では。

「何か作ろうか? まず食べないと。何がいい? 好きなもの作るよ」

 僕は迷わず「そうめん以外なら」と答えた。

「当たり前でしょ、昨日も朝に食べてたくせに。これでそうめんっていわれたらあたしも怒って作らないところだったわ」

 そうめんで思い出したが白だしのボトルがもう後一本になってたんだった。今年は暑い。大目の在庫だったのに結構消費する。注文しておかなくちゃ。

 今日はカレーの気分だな。

「カレー、キーマカレーが食べたいな」

 そう、キーマカレーは妻のスペシャリテである。

 オッケー、夏野菜のキーマを作るわね、と笑みを浮かべて妻はキッチンへ消えていった。

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