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塗り麻酔しか手に入らなかった。
ヒューゴは薬で眠ったシャロンの拘束を解き、色と色とが入り混じる、お世辞にも綺麗とは言えない腕にそれを塗る。
裂傷や刺し傷、ケロイドが放置されて、なんとも醜いが、今ではもう見慣れた肌だ。気持ちが悪いとも思わない。
深かった傷の跡は、表面だけを綺麗に治しても肌の色に違いが出ることがある。だから少し重い火傷を負わせなければならない。
「すぐ、終わらせるからな」
独り言を漏らして、腕だけでなく脇腹や背中の傷跡にバーナーやそれで熱した金属の棒で火傷を負わせる。爛れた部分をすぐに治して、また次の皮膚へと作業を進めた。
やがて傷一つなくなったシャロンの体を眺め、一度背伸びをして大きな欠伸をする。
2日ほど前にシャロンを連れ去り、彼女の目が覚めるまで一睡もせずにいた。その前も数日、準備で忙しかったのでほとんど寝ていない。
回復魔法を使えるからか、生まれ持った体質か、はたまた育った環境のせいなのか、ヒューゴは昔から睡眠を毎日取らなくても問題が無い。
だが今日のように魔力を酷使すると流石に疲れが出た。
予め用意していた紙袋をガサガサと漁り、ネイビーのワンピースドレスを取り出す。花をモチーフにしたレースを使いつつ、ボリューム感を抑えたデザインで、シャロンが普段着ているものより落ち着いた印象のデザインだった。
ヒューゴがシャロンに出会ったのは、およそ5年ほど前のことだ。
当時はヒューゴもまだ研修生で、収入もなく、将来にも特に希望を見いだせずに適当に暮らしていた。
ただ顔立ちが整っているので、わざわざ自分で金を出さなくても、言い寄ってくる女たちが食事や衣服、装飾品に消耗品まで貢いでくれる。そのため困窮しているわけでもない。
孤児であるが故に奨学金も無利子で、返済期限は大分先。滞納金の発生しないギリギリで少しずつ返せばよかった。
ギャンブルで負けたら女が押し付けていったブランド品を質屋に入れれば良いし、そこまでギャンブルにのめり込んでいるわけでもないので、本当に困ったらそれをやめればいいだけだ。
女は無償で施しを続けてくれるものではない。それなりの対価を求めてやってくる。
性的な行為は好んでしているのでむしろ構わないが、それ以外の時間を共に過ごすことを強要されるのが、何よりも面倒だと思った。
女以外で金銭を提供してくれる何かを求めてふらふらとしていると、違法薬物密売の手助けや病院で受け入れを拒否される反社会組織関係者の治療、売春婦の治療に送迎など様々な仕事があった。
多くの住人や企業が立ち退きを命じられ、人の消えた第3区の旧市街はそれらの温床であった。
止められた電気や水道なども、少し弄って違法に使えるようにしてしまう。ならず者たちが蔓延る世界はヒューゴにとっては居心地が良かった。
成り行きで進んだヒーローの道など外れて、そのように生きても構わないかもしれないと思い始めた。丁度その頃、しつこく付き纏ってくる女から逃げ込んだセントラルタワーでジェラードに呼び止められた。
「君、なかなか危ないアルバイトをしているみたいだね」
「いやいや〜、すみません、天涯孤独で頼れる実家も無いんスよ〜、今回だけは見逃してくれません?」
ヒーラーの借りることができる寮は少なく、家賃補助も微々たるものだ。そのくせプロになっても給与は他のヒーローに比べると少ないし、いつやめたところで構わない。
だがなんとなく、下手に騒ぎを起こしたいわけでもないし、できる限り穏便にこの場を去りたいと思った。
「ねえ君、今夜うちに来ないかい? 私は君の力になれそうだし、君にも私の力になってほしい」
「ん〜? バイトの紹介ッスか? 俺、接客とか……夜勤とかァ、超得意ですよ」
ジェラードはバラムで一番人気のヒーローで顔立ちも良いのに、浮いた話が一切無い。独身か既婚者かという情報もないが、そもそも恋愛対象が女性とも限らない。
金さえ貰えるなら相手が男でも抱けるし、抱かれても良い。ヒューゴにとって共寝は得意なコミュニケーションの一つで、楽しく金を稼げるものでしかなかった。
ヒューゴは、男にしてはなかなか好みの顔をしているジェラードに笑いかける。内心では「ラッキー」とガッツポーズさえしていた。
ジェラードは表情一つ変えず、爽やかに微笑んだままだった。
「バイトと言えばそうなるね。報酬も良いから、期待していて」
「はいはーい! ありがとうございます!」
その日の夜、ジェラードに言われた通りにヒューゴは彼の家を訪ねた。
ハウスキーパーでも雇っているのだろう。家の中は清潔で、飾ってあるものはどれも季節感にも合っているし、塵一つ落ちていない。
夕食も馳走になり、やはり天涯孤独というワードで情に訴えかけておいて良かった。そう、のほほんと過ごしていたヒューゴに、「さて」とジェラードが切り出す。
「そろそろいいかな」
「はい。ごちそうさんでした。で、俺は何するんです?」
「……まずは、君と交わしたい契約と報酬について話した方が良いんじゃないかと思ってね。これが今回の分だよ」
ジェラードがヒューゴに手渡した封筒の厚みに、げっと苦々しく笑う。
紙幣ではなく、妙な紙でも入ってるんじゃないかと中身を除くと、悪事で手に入れたよりもかなり多い金額が入っていた。
これはかなり、関わったらまずいことに頭をつっこんでしまったようだ。
バラムはスマートフォンや専用端末、カード、マイクロチップの類での支払いが普及している。ヒューゴがそれまでやってきた仕事で現金支給だったのは、特に危ない内容でほぼ犯罪行為そのものだった。
誘拐や人身売買、または殺しか……そのくらい大変な仕事に違いない。
「ここでビビって逃げたら、俺、どうなりますかね」
「……君を探すなんて、私くらいだろう。君は身よりも無いし……それに、あの時の生き残りらしいね。自殺の理由には十分だよ」
「うわっ、こえぇ……ハハッ、ジェラードさんは何でもお見通しってことッスねェ……」
――あの時の生き残り。
ヒューゴがまだ少年だった頃、バラム市では大きな事件があった。魔法士、ヒーロー虐殺事件だ。魔女狩り、異端審問と呼ぶものもいる。
バラムからずっと離れた、砂ばかりのスラム街で親に売られたヒューゴは、その異端審問推進協会と名乗る組織で少年兵として育てられた。
回復魔法が使える少年少女は協会員の治療、夜の奉仕はもちろんだが、自爆テロ用の兵として消費されていた。
運が良ければ生きてアジトに戻ってまた働くことができる。そのため異端とされる魔法使いの中でも、回復魔法を使う者は生きることを許されていた。
また協会内で回復系の魔法使いは、前世で魔法を使ったことによる業苦を背負う者ともされ、憐れむべき存在であった。だから、前世の罪を清めるために働く回復系魔法使いの子どもたちは処刑されない。
ヒューゴは生命体が死ぬことは終わりであり、活動を終えた生命体はただの肉叢でしかないと思う。
記憶は脳に保存された経験に過ぎず、魂は存在しない。生き物は別の個体へ生まれ変わることなどないと、幼いながらに結論づけていた。
しかし人一倍、その事実に懐疑的でもあった。魔法は科学では説明がつかないものの総称だからである。
親代わりに自分を育てた協会を慕う子どもたちの中、ヒューゴは達観していた。
背負わされた爆弾は起爆前に投げ捨てて、五体満足でとりあえず協会に戻ればいい。敵側の組織に捕まったら、女のような顔で媚びれば生き延びることができるだろう。
死地で生きていたヒューゴは楽を求め、安寧を欲していた。
身近な誰かの死も悲しくない。むしろ動かなくなった同胞を数えて、その日の夕食の配分が増えることを喜んでいた。
死ぬかもしれないという危機感は、ヒューゴの筋力の箍を壊してしまった。自衛のための制御など、筋肉が裂けようが、骨が砕けようが、すぐに治せるヒューゴには何の意味もないのだ。
自分を可哀想な子供であると気付いたころ、バラムでの争いが始まった。
これまでの田舎とは違い、先進的な大都市バラムでのテロ行為は、有能なヒーローの存在もあって計画よりも早くに終わった。
次々捕らえられていく協会の人間たちを尻目に、ヒューゴは栄養不足で幼く見える容姿を盾にして泣きじゃくる演技をした。
すると優しい顔をしたヒーローたちがすかさずヒューゴを慰め、抱き上げ、平和を訴える。
「君には私達がついている! もう心配はないよ!」
「悪い大人たちはもう我々がやっつけたよ! さあ、笑って!」
嗚呼、なんて眩しく綺麗で、煩わしい存在なのだろうか。
自分に優しくしてくれる人間は総じて好きだ。だが笑顔よりも醜い顔の方が面白い。
平穏は好きだ。しかし退屈な日々というのも苦痛だろう。
透き通ったガラス瓶は、瓶の形をしている時より、割った時の方が美しい。キラキラの破片は夜空のようなのだ。
綺麗なものは、壊れるともっと綺麗に見える。ヒューゴは何度でも治せて壊せる肉体を持つ人間が好きだ。たくさんたくさん壊したい。
そんな風に思いながら生き延びてきた。
恐らく他の生き残りの子供たちは無差別に人を殺した罪を白状し、今は高い塀に囲まれた精神病院か、とっくに命を絶っていることだろう。
ヒューゴは罪を隠し、トラウマを抱えながらも明るく笑う無害な少年を演じた。
「まあでも、こんだけ貰えんならやりますよ。なんでも」
「ありがとう。君ならそう言ってくれると信じていたよ」
まるで天使のように微笑むジェラードの後を歩き、怪しげな隠し通路を通って地下室へ入る。
2人分の足音、ブーンとなり続ける機械音。
それらの先に、ぽとりと床に落ちている少女の体があった。
ピンク色のみぞれと、ガラスの樹木に見える氷の刃。
少女の赤い腕は氷漬けで、雪に落ちたカメリアの花のようだ。
「治してほしいんだ、娘の傷を。定期的に」
後に、ヒューゴはこの少女との出会いが己にとって運命的なものであったと気付く。
大切に大切に慈しみ、愛おしんで、壊したい。
世界で一番綺麗な人の壊れていく様は、どれほど美しいのだろう。
雪色の少女の『赤』は、ヒューゴの胸の中で炎のように強く輝いていた。