01 自宅
■前編のあらすじ
ヒーローを目指して研修を受けるシャロンは、チームメイトであるカナタとクライヴ、教官のヒューゴと共にパトロール中、誘拐事件に巻き込まれてしまう。
しかしそれは男の気を引くためのもので、その後もわざと転んだり、買ったクッキーを手作りと偽ったりと嘘のシャロンを演じ続けた。
嘘を吐いていたことが発覚し、男たちに嫌われたことで【優秀な子供を作る計画】が頓挫する。
追い詰められたシャロンは、蓄積されたストレスから実戦演習で理性を失い暴走してしまった。
その暴走を止めたヒューゴに、シャロンは心を開き始める。
つらくて寂しい夜、シャロンはある人物を想う。その時口にした名は【ヒューゴ】だった。
「ヒューゴ……」
名を囁いてみるだけで、ふんわりと胸が温かくなる。
姿が見えなくても、いつもシャロンを守ってくれているような感覚があり、不思議だが周りを見回してしまった。
医者の置いていった残り香のせいか。バニラのような、ごくありふれた香水が鼻を通ってシャロンの心まで甘く疼かせる。
ヒューゴも医者も回復魔法士だ。世の中に存在している魔法士の多くが回復魔法士で、中には自分の体しか治せないもの、他人の体を治せても、ちょっとした擦り傷までの者もいる。
あの医者はかなりの有能で、皮膚の奥の臓器や骨折まで治すことができた。
その分体力や魔力、病気などは治せないのだそうだ。
ヒューゴと同じ、ありふれた魔法だ。
いつの間にか眠りに落ちていたのか、シャロンは何年か前の日のことを回想し、その夢の中にいた。
傷を治してもらったばかりの少女のシャロンは、アイマスクをしたまま医者の方へ手を伸ばした。
きゅっと掴んだのは少し硬い生地でできた上着の裾のようだった。
幼さゆえの、ほんの好奇心からの行動だ。
当時、シャロンが知っている人物はジェラードとクライヴ、婦人科医、そしてこの医者だけだった。
クライヴが全寮制の学校へ行ってしまい、シャロンのあるようで無いような心を守ってくれたのはこの男だけになっていた。
その日人間として生きるのに必要な知識を得るために教科書や辞書などを読んでいたシャロンは、ある単語がどうしても頭に引っかかって、そのことを男に尋ねてみようと思った。
ジェラードや婦人科医であれば無視して部屋を出ていったであろう。しかし医者だから『先生』と呼んでいるその男は足を止め、無言のままシャロンの頭をぽすぽすと撫でた。
それがなんとも心地よく、嬉しくて、アイマスクをとってその姿を見たいという思いが生まれる。
普段息を止めていた心が少しだけ目を覚まし、クライヴの笑顔を見た時と同じように、相手への純粋な好感が脳にふわふわとした幸福感をもたらす。
「先生、キスとは、何? どんなことをするの?」
教科書に掲載されていた文学作品の中に出てきた単語で、シャロンの所持している辞書を見てもあまり意味がわからなかった。
口づけのこと、という解説だけで、何をしたのか具体的に理解ができなかったのだ。
「辞書にも詳細が書いていなかった」
何をしたのか、どうしてそうするのかもわからない。教科書の中でキスは、眠る前の子供に母親が額へしていたとだけ記憶している。
医者は黙っていた。ジェラードから、シャロンと会話をしないようにと言われているのだろう。
医者がシャロンの座っている診察台に腰をかけたのか、ぎしっと揺れて音がする。
答えはしないが、話を聞いてはくれるようだ。
「キス、何?」
「……好きな相手にするもの、だよ」
小さい声だが、返事があった。聞き慣れないその声にシャロンはアイマスクの下でぱちぱちと瞬きをした。婦人科医よりも若い声に聞こえた。
もっと話したい。声を聞きたい。知らないことをたくさん知りたい。
「好き……? どうやって、するの」
「唇くっつけるだけ」
「唇を……」
人差し指で自分の唇をぷにぷにと触り、どんなものかと一考。
とても柔らかそうだ。しかし歯が当たれば痛いかもしれない。
またぎしっと音がして、医者が立ち上がった。
「先生、せんせ……」
もっと一緒にいて欲しいのに、クライヴもこの男もすぐどこかへ行ってしまう。
手探りで治療台から片足、もう片足と、落ちないようにゆっくり降りて、気配を追って冷たい床をぺたぺたと歩く。
「先生、キス、してみたいの」
「……だーめ」
シャロンは足を止め、遠ざかっていく男の気配に小さく項垂れる。
なぜいけないのか。それは『好き』ではないからだろう。
好きというものがよくわからない、今より少し幼げなシャロンの胸が、ちくりと痛んだ。