10 クライヴの部屋
花と石鹸を混ぜたような香りがするクライヴのベッドがあまりにも心地よく、シャロンはいつの間にか眠っていたようだった。
目が覚め、シャロンは見慣れない天井と、被っているキルトケットの感触に瞬きをする。
きょろきょろと辺りを見回して、そこがクライヴの部屋だと気付くと、ベッドを降りてそわそわと時計を探した。
部屋はカーテンが締められ、照明がついている。ラックにある置き時計を見て、シャロンはとっくに門限が過ぎていることに気が付くと視線を床に落とした。
門限である18時を過ぎる場合は、必ず理由の連絡をするようにと言われている。
「あっ……おはよう。その……具合は大丈夫?」
「ん……問題ない……」
確かに最近は嫌なことばかり起きていたが、今日は特別幸せだった。
この記憶があれば、これから帰宅してジェラードにどんな仕置きを受けようとも耐えられるような気がする。
ポーチからスマートフォンを取り出したシャロンの横にクライヴが寄ってくる。
父親からの連絡の通知もなく、自分からなんと連絡するかを考えていたシャロンの背中を温かい手がさすった。
「シャロン、ジェラードさんには僕から連絡を入れておいた。君はもう、あの家に無理に帰らなくていい。帰る時は、僕も一緒に行く」
シャロンは驚き、わずかに目を見開いた。それからクライヴの手が恐る恐るシャロンの頭に触れて、そっと撫でてくれるのに心地よさを感じて目を伏せる。
「私はパパの一部なのに、離れてもいいの?」
「シャロンはシャロンだよ。子供は、親の所有物ではない。自分の身の一部のように思っていたとしても、シャロンにはシャロンの心をがあるだろう?」
「……でもクライヴ、本当は、私は」
シャロンは言いかけて、やめる。
言ったところで、メリットがない。
クライヴの言うとおり、シャロンは物覚えのついたあの日から、ジェラードと異なる自我を持っている。
「クライヴ、あのね、好き」
「へっ!? ぼ、僕も、君のことが好き……大好きだよ。シャロン、お腹は空いていない? 一緒に食べようと思って、その……作ってみたんだ」
「食べる」
キッチンとダイニングテーブルには、クライヴが気合いを入れすぎて、少し……いや、多すぎるほどに様々な料理が並んでいた。
「……カナタも呼ぼうか」
「うん」
このところ、モンスターの出現頻度が高くなってきている。その結果、モンスターの共通点がはっきりとしていった。
最近市内で現れたモンスターは、どれもが小型動物を寄せ集めて巨大化させたような生命体だった。警察側の専門家がその遺伝子などを調べたところ、母体となる体に、同じ種の動物が複数合成されている状態だそうだ。
そして驚くことに、合成されている動物の全てが、皆同じ遺伝子を持ったクローンであった。
母体からクローンを生み出す途中の産物なのか、はたまたクローン同士の体を魔法か何らかの形で合成し一つにまとめたのかは定かではない。ただ、クローンの作成を行えるということだけは事実だった。
クローンを作成する装置の所持はバラムでは原則禁止されている。一部、研究目的に所持を認可されていた機関へ捜査が入ったものの、稼働中、また最近稼働した形跡のあるものは無かったという。
犯人はクローンを生み出す魔法……つまり、危険な魔法を使う可能性がある。炎や水、草木を操る魔法があるのだから、生き物の遺伝子を操る者がいても不思議ではない。
母体となる一体を巨大化させたうえ、生殖以外の方法で産み出そうとしているのではないか。その途中の段階で今はヒーローがなんとかモンスターを処理しているが、そのうち巨大化した動物の体からあの頭たちが独立化し、生物兵器となって量産されるのではないか。
その脅威がどれほどのものか、マスコミが憶測を立てて無責任に騒ぎ始める。
また同時に、もう一つ事件も明らかとなった。ヒーローが数人連続して、不可解にも失踪をしているのだ。
己よりも強い何かと戦うことへの恐怖や心労、成果が得られないなどの理由で逃げ出すものはよくいるが、何の前触れもなく、立て続けに行方不明になることは、少し異常と言って良い。それが現段階、判明しているだけで男性が3名。
皆忽然と、その日の夕食の支度をしていたり、買い物からそのまま帰って来ていなかったりと妙な消え方をしている。
一般人であれば警察が捜査を始める案件だが、魔法が使えるうえ、その道のプロであるヒーローがまさか被害者になっているとは考えもしないのだろう。ニュースにすらならない。
失踪した3名の中には、まだ無名な研修生もいた。人気のある炎の魔法士で容姿も整っており、ヒーロー内部でも将来を期待されていたウドムだった。
シャロンがクライヴの部屋に居候を始めてから、ジェラードから連絡が来たことはない。
研修の間に数回ジェラードに出くわしたが、外であるためか、彼は理想の父親を演じて常に微笑んでいた。
「私が過干渉だから、とうとうシャロンが家出してしまったよ……洗濯物を一緒にするのも、だめだったのかもしれない……」
そう周りのヒーローや講師に話す姿に、シャロンとクライヴを除いた人々も釣られて微笑む。
会う度にあまりにも自然と、優しい笑顔で挨拶をされるので、シャロンも少しずつ彼に対する恐怖の感情を薄れさせていく。
それでも彼に負わされた傷跡に服の上から触れると、妙に冷静に、恨みや憎しみが何たるかを知る。
怯える時間が無くなっていき、クライヴとの生活で暴力を伴わない家族関係が本来正しいものなのだと知るにつれ、シャロンは己の正義についても考えるようになった。
シャロンは、ジェラードの理想が正しいものかはわからない。
だが、彼の行いは間違っている。邪悪だと思う。
そして自分に課せられた、強い子を産み、ジェラードへの供物として捧げるという責務もまた、全うすべきものではないと結論づけた。
これを人々の多くが経験する反抗期というものとも知った。人よりかなり遅れてそれが来たのは、思考を止めていたからかもしれない。
モンスターの出現とヒーローの失踪は続いた。
平穏を装っていた司令部も焦燥し始め、ヒューゴですらも日に日に疲れを見せるようになった。
そんなある日、パトロール研修の集合場所に、シャロンとクライヴ、カナタ、その3人よりも早くに到着しているヒューゴの姿を目にして、さすがのシャロンもぽかんと口を開けた。
「先輩!」
「ヒューゴ!」
口を開けて固まっているシャロンを置いて、カナタが猛スピードで走り出す。クライヴも続くように小走りで向かっていった。
「先輩! まだ10分前ですけどどうしたんです!? というか、髪……髪切ったんですか? 一緒に脳も切れた!?」
「おう! どうよ。まじ俺、超イケメンすぎじゃね? 脳はいつもキレッキレの天才だぜ」
カナタの隣へ並び、シャロンもヒューゴをまじまじと見つめる。
目にかかるほどあった前髪も、外側に跳ねるようにスタイリングされていた襟足も、全てが短くなり、怪しげな雰囲気もほんの少しだけ薄れた。ほんの少しだけ。
「か、格好いいとは思うけど……ガラが悪い。そのピアスを外してみたら良いんじゃないか?」
素直に容姿が良いと認めたクライヴの提案に、ヒューゴはひらりと手のひらを振った。
「良いんだよ、俺チャラチャラしてる方が似合うだろ。な〜、シャロンはどう思う? 俺カッコいい?」
「似合ってる。と、思う」
夏の風が髪を揺らす。
シャロンは少しだけ目を細め、穏やかな時間を嬉しく思って微笑った。