08 セントラルタワー
バラムには、全寮制の魔法士専門学校がある。
その学校では電気椅子に座らされ、足と胴体、腕もベルトで固定された。そして数時間、まだ少年だったクライヴは、たった一人の少女のことを思い浮かべて苦痛に耐え続けた。
魔法士の養成学校が皆そうというわけではない。むしろクライヴの通っていた学校だけが異常なのだ。教師の殆どが人間で、魔法士をヒトと思わない。だから非人道的な訓練も平気で受けさせられる。
だが数々の人気ヒーローはここを出ている。だから辞めずに耐え続けた。
何もかもシャロンのためだった。
卒業までいられる生徒はごくわずか。そのうち、クライヴは一番の成績をとっての卒業だった。
クライヴは天才ではない。努力を惜しまず、逃げなかっただけだ。そんな苦労をしても、圧倒的な才能を持って産まれてきたシャロンには敵わない。
守ってあげたいと思っていたのは自分だけで、実際、シャロンにクライヴは必要ないのだ
「シャロンは、本当に強いな……」
実戦のトレーニングに誘ったシャロンがクライヴを氷の檻に閉じ込める。氷も元は水だからと融解し、操る技を身に着けたカナタと違い、クライヴはその隙間から電撃を放つしかない。硬い氷を溶かしたり破壊するのは、体力と魔力を無駄に消費してしまう。
隙間から電気を放てたとしても、シャロンに本気で攻撃などできるはずもなく、すぐに降参を願い出る。クライヴはシャロンにめっぽう弱い。
「おっと、俺この後ジムの予約とってるんだった……今度は俺ひとりで掃除するから、今日は頼んでいいか?」
「ああ、もちろん」
「ありがとう。それじゃあ、二人とも、また明日!」
爽やかに笑って手を振ったカナタを見送り、クライヴはシャロンと二人きりでホールの掃除をした。
お嬢様育ちで家事など全くできなさそうなシャロンだが、掃除はやけに手際が良い。
二人でいると気まずいが、クライヴは罪悪感と同時に胸の高鳴りを感じる。
「シャロン……その、最近、嫌なことばかりだったよね……。何か、お詫びになるようなことがあったら、言ってくれないか?」
掃除用具をロッカーに戻したシャロンが振り返る。
自分で傷付けておきながら、目の前でドローンに危害を加えられ、そのうえ運動着を盗まれたシャロンを哀れに思った。話を聞いてやろうともしなかった自分にも苛立つし、己が最も憎い。
最も身近にありながら、彼女を傷付けた存在と気付かされ、情けなく、罪を償いたいと思った。
水色の宝石のような瞳に心を奪われ、息がつまる。
「……お詫び、いらない」
「そ、そうか……」
俯いたクライヴに、シャロンが歩み寄る。白い小さな手がクライヴの袖をつまみ、ちょんと引っ張ったので顔を上げると、大きな瞳にまっすぐ見つめられていた。
あれほど口汚く侮辱し、名誉を傷付けた自分に向けられている彼女の瞳が、これほどまで美しく澄んでいて、優しくて良いのだろうか?
睨まれ、恨まれ、怯えられても仕方がないことをしたのに。
「どこか、連れて行って。外」
「え?」
「ヒューゴとカナタは、喫茶店や『ゲーセン』に連れて行ってくれた。クライヴも、好きな場所、教えて」
――小動物ふれあいカフェ
着替えた後、成り行きでなぜか手を繋いだまま、クライヴはシャロンを行きつけのカフェに連れてきた。
初めは猫カフェも良いと考えたが、猫は常連客にはじゃれるものの、初来店の客には警戒することが多い。
人慣れしたモルモットやウサギ、デグーやチンチラは大人しく、シャロンでもおやつを与えたりくらいはできるだろうと考えた。
案の定、動物とあまり触れ合わないシャロンは、小動物を前に彼らと同様にぴたっと固まっている。
クライヴもいつもならば小動物たちをこしょこしょと撫でてふわふわを満喫するところだが、今日はシャロンの方を優先し、隣で見守ることにした。
店員の勧めで、店でも特に落ち着いた性格のウサギをシャロンの膝に乗せて貰うと、彼女は少し困ったような顔でちらちらと見上げてきた。
その、自分を頼るような眼差しにクライヴは胸をときめかせる。昔の、あの頃と似た気持ちだ。
「大丈夫。怖くない。可愛いくてお利口だよ」
「で、でも……こんなに、弱々しい生き物……触ったりしたら……」
クライヴは狼狽するシャロンを見ることに慣れていない。そんな顔もするのかと、ウサギよりそちらに目が行ってしまう。
ウサギに刺激を与えぬよう、動かないようにしているシャロンまでウサギに見えてくる。
「頭から背中にかけて、毛並みに沿って撫でてあげるんだ。怖がると、このこも不安になるからリラックスして……」
「うん……さ、触る……触る、ね……」
シャロンはウサギに声をかけてから、言われたとおりに優しく撫でる。その表情から、少しずつ緊張が消えていって、クライヴも安堵した。
シャロンはいつも表情の変化が分かりづらいが、今は口元が僅かに綻んで、目元も優しげに伏せられている。
やはり連れてきて良かった。
こういったふれあいカフェは、ほとんどの魔法使いは入店を断られる。回復魔法士はむしろその恩恵にあやかろうと割引などもあるようだが、クライヴとシャロンは絶対に断られる部類だろう。
魔法使いへの差別意識が低い、または魔法使いの経営する店を調べあげて通い、こうしてシャロンも連れてこられたクライヴは自らを褒める。
ふわふわとした小動物は、幼い頃のシャロンと同様にクライヴを癒やし、自信を付けさせてくれるのだ。
「かわいい……」
そう呟くシャロンもかなり可愛いのだが、本人は気付いているのだろうか。可愛いことを自覚しているだろうに、時々よくわかっていないような言動をとられる。
「ありがとうございます。このこは躾けられているので、人を噛んだりしないんですよ〜」
いかにも初心者であるシャロンへ、同じ魔法使いである店主が微笑みかける。そして店主の微笑ましい動物の話に、クライヴはウサギに対して微笑みかける。
「すごいね、可愛くてお利口さんなんだね」
つい呑気な声でウサギに話しかけたクライヴと正反対に、シャロンがみるみる青ざめていく。
その異様な様子に、寝そべってリラックスしていたウサギも顔を上げた。
「し、つけ……」
「シャロン、顔色が……貧血かな……そろそろお暇しようか。お会計良いですか?」
「あっ、はい、かしこまりました。お客様、大丈夫ですか? はーい、シフォンくん、お姉さんとバイバイのお時間ですよ〜」
店を出て、あまり移動時間を取れない様子のシャロンをどうすべきか悩む。
クライヴは一度自分の部屋でシャロンに声を荒げるなどの危害を加えた。いくら近くとも、そんな場所に連れて行くのは躊躇われる。
「えっと、病院行く? か、かかりつけ医とか……た、タワーの救護室がいいのかな……」
「……行かない」
「僕がタクシーを呼ぶよ、車乗れそう?」
「やだ」
「えっと……喫茶店……?」
「クライヴの部屋……行きたい」
本当に良いのか? シャロンは嫌ではないのか?
そう思いながら、シャロンに逆らえないクライヴはすぐ近い場所にあるマンションへ向かうことにした。
シャロンは想像していたよりもずっと落ち着いた様子で、何の躊躇いもなくクライヴの部屋に入った。
靴を脱ぐタイプの物件は慣れていないだろうに、脱いだ靴を玄関の隅に揃えて置いた後、クライヴの手首のあたりに指先で直に触れる。
クライヴはつい耳まで赤くして、リビングまでシャロンを連れてくると、コップと水をとりにキッチンへ向かった。
小さなダイニングテーブルを挟むように、2つの椅子のうち、日の当たらない方にシャロンは座った。
顔はまだ真っ青だが、少しだけましにもなったように思う。
「大丈夫?」
「……ウサギも、躾をされるの? あんなに、小さいのに」
「シャロン?」
「あんなに弱々しいのに……」
ウサギの躾といったら、トイレで用を足したら褒めるとか、大人しく抱っこされていたらおやつをあげるといったところだろうが、シャロンは何か間違えているようだ。
だが、なぜそんな勘違いをするのだろう。
「シャロン、ウサギは褒めて育てるんだ。ウサギだけじゃない。あのカフェにいた動物はみんな、褒めて育てるってやり方で躾けられてるから、だから人を怖がらないで触らせてくれるんだよ」
「褒めて、育てる……」
「良い子にできたら撫でたり、ご褒美をあげるんだ。悪いことをしたらご褒美が貰えないから、だからトイレを覚えたり芸をしたり……ああ、でもトイレは個体差とか種類とか……っ、シャロン?」
ぽろ、とシャロンの目から一粒の雫がこぼれ落ちる。
ウサギを思って流したのであろうその涙は美しくて、もし許されるならば、その華奢な体を抱きしめたくなる。
「あのこたちは、叩かれたりしない? 痛いこと、されない?」
「……シャロンは、叩かれるの? 痛いこと、されてるの?」
椅子に座るシャロンの前に跪き、震えている冷たい手を両手で包み込む。
そこで、クライヴはふと、シャロンが夏にも関わらずずっと長袖を着ていることが気になり始める。
氷の魔法使いだからそれが当たり前のことなのかと、今まで気にも留めなかった。実際、カナタやクライヴもケガ防止に長袖を着る訓練もある。だが、クライヴがいたあの学校で一年中長袖を着ている者の腕には……
「シャロン、腕を見せてくれる?」
なるべく優しい声をかけたつもりだ。
だが、シャロンは目を見開いて、明らかに狼狽え始めている。
「いや。見せない」
「どうして? シャロン、腕に何か……」
「だめ……嫌われるの、嫌」
「嫌わない。好きだよ、シャロン。僕は君がどんなこでもずっと、ずっと好きだから……これからも、嫌いにならない」
「でも、この前、大嫌いって言った」
「すまない……あれは、僕が……君のこと、大好きなことを、誤魔化したんだ……自分のことしか考えていなくて……ごめん……」
椅子に座っていたシャロンがゆっくりと立ち上がり、クライヴの前に来て顔を覗き込んでくる。
「今の好きは、ほんとう?」
「うん……好きだよ、ずっと君が……なのに、僕は逆恨みして君を……」
「私、もうクライヴのこと、自由にしてあげられないよ? それでも、好き?」
まるで映画で男が女に言う台詞のようだ。鎖のような言葉は恐ろしいはずなのに、胸がドキドキして止まない。
「もう、どこか遠くに行ったりしない?」
クライヴはそこで、ようやくシャロンの感情に気が付く。
じわりと涙腺が熱くなり、視界がぼやける。
「僕が寮に入って……君を、寂しい気持ちにさせた……?」
「毎日会いたい……毎日、一緒がいい……クライヴの笑ってる顔、ずっと見てたい。でもクライヴは、子供、いらない? 自由でいたい?」
衣擦れの音がして、想像よりも温かい体がくっついてくる。
クライヴの胸にある雪のように白い頭におずおずと手を乗せ、ゆっくりと撫でる。小さな動物にするように、クライヴは壊さないように優しくそれを繰り返した。
「僕は、子供に将来を押し付けるのは、まだ反対なんだ。でも、君と本当の家族になりたいよ。君のことを愛してる。君とずっと一緒にいたいと思ってる」
シャロンがすりすりと額を擦りつけてくるのが可愛い。
傷付けないよう、苦しくないように抱きしめてみると、シャロンの手も背中へ回ってきた。
なんだこれは。と不安になるくらいの幸福が押し寄せてきて、思考が止まった。
腕の中にいる愛おしいものの息遣いやぬくもりが、クライヴの脳までとろりと溶かしていくようだ。
「愛してる? ほんとう?」
「うん、愛してるよ」
いらないと言われたのも、シャロンなりにクライヴを自由にしておきたいとか、嫌われていると思い込んで言ったことだと気付くと、なぜだかそれすら愛おしくて堪らなくなる。
よく考えてみれば、シャロンは言葉を選ぶのがあまりにも下手なのだ。「いらない」が、「一人で大丈夫」を意味していると、もっと早く気付くべきだった。
シャロンは、一人は大丈夫でないのだ。
罵倒されて喜ぶ趣味など無いはずだが、シャロンにお前は弱いと言われても納得がいくし、氷の檻に閉じ込められると、所有されたような気持ちになって少し、嬉しくなる。
もぞもぞとシャロンが動くので、クライヴは腕の力を弱めた。
シャロンの小さな手が肩に乗り、彼女の顔がずいっと近寄ってくる。
「えっ、あっ……」
ふにゅ、と柔らかいものがクライヴの頬にくっつけられた。
「ああっ……うそっ……」
バランスを崩して床に尻もちをつき、情けない声を漏らしたクライヴに、シャロンがのしかかってくる。
床に倒されたクライヴの顔のいろいろなところに、シャロンはちゅっちゅと唇をくっつけた。
「愛してると、キス、するんでしょう? 私、クライヴのこと、大好き」
「そ、そうだけど、ああっ、だめだよ、シャロン、待って……」
こんな華奢な少女のような女に襲われてしまうなんて、情けないのと同時に喜ぶ自分がいる。
なぜか唇を避けた場所ばかりに口付けを落とされて、クライヴはむずむずと歯痒く、理性が失われていくのを感じる。
「クライヴ……愛してると、キス、するんでしょう?」
同じ言葉を繰り返したのが、おねだりをされているのだと気付いてしまうと、もう抑えきれなくなってしまった。
バクバクと心臓が煩く、顔も耳も全部が熱い。
のしかかってくるシャロンごと体を起こし、抱き上げた体を側にあるベッドに座らせる。
クライヴはまだ残っている理性と相談しながら、ゆっくりとシャロンに近寄り、その薄桃色の唇に己の唇を重ねた。
離すと、もっとしてと欲しいと言うように、シャロンの腕がクライヴの首の後ろに絡んで引き戻そうとする。
それに抗えるはずもなく、クライヴはシャロンの唇に耽溺した。吸い付いて、唇に挟んで、何度も何度も重ねる。
深い口付けから空気を求めて逃れたシャロンに、恐怖や不快な感情は見られない。ぽっと赤く色づいた頬が愛らしい。
「シャロン……大好きだよ……愛してる」
「……うれしい……こんなに嬉しいの、初めて」
とろんと溶けた瞳で見つめられる。その人形のように整った顔が綻んで、雪解けの季節が訪れたかのような暖かい微笑が浮かんだ。
クライヴはたまらず唾を飲み込み、柔肌に手のひらを重ねた。