06 自宅
「おはよう」
思えば、シャロンの絶望の始まりはこの挨拶からだった。
始まりの日は、たくさんの興味、好奇心に溢れていた。だが今は違う。二度と目覚めたくない、そう思って目を閉じたのに。
「君は役目をこなすどころか、私にとんだ恥をかかせてくれたね……君は親から貰った体を大切にしなかった。君は、候補者以外にその体を安売りしたね。私のものなのに」
地下室で再び目覚めたシャロンは、声を震わせているジェラードを見て、はくはくと口を動かした。
――役目。
それは子を産むこと。子種を作ることができないジェラードのために、彼の後を継ぐ子を産むことだ。
ジェラードには大きな夢がある。
無能なヒトの支配する世界を、正しい形に変えるという夢だ。
脆弱な無能は、魔法使いによって支配され、守られて健やかに生きる。魔法使いこそが支配者として相応しい。邪な力を持った化け物などという差別は間違っている。だから、正しい方向へ世界を変えたいというのだ。
そのためには力を見せつけ、どちらが上かを知らしめなければならない。
王に相応しい者を新たな象徴とし、無能な一般市民に思い知らせる。これまでいかに魔法使いが耐えてきたか。どれだけ圧倒的に強い力を持っているのか。
だからシャロンは、才能に恵まれた男と結ばれねばならなかった。
神に選ばれた存在であるジェラードと、選ばれしヒーローの血を継ぐ、誰しもに英雄と称えられる子を産まねばならなかった。
その最初の相手に選んだのはクライヴだった。
クライヴと同い年くらいの外見に生まれたシャロンは、クライヴのために。クライヴもまたシャロンのために存在すべきだった。
だがクライヴは家を出ていって、ずっと帰ってくることはなかった。
その間にジェラードは別の候補者を見つけては、各地から引き抜いてきた。
その労力も全て、自分は無駄にしてしまったのだろうか。
だが、なぜこれほど苦しんでいるのに、ジェラードに従わねばならないのか。そんな疑問が浮かぶ。
シャロンはジェラードのもの。ジェラードの分身であり彼自身。だからその意思に従ってきた。しかしシャロンが彼自身であるのならば、シャロンの失敗の責任は彼にもあるのではないか。苦しみも共有し、唯一の家族として愛してくれても良いのではないか。
「パパも、私のことが、嫌い?」
「……なぜ問う? その問いは、問いかけること自体が間違っている。私はお前を別の個体として見ていない。好きも嫌いもない」
なぜ皆、自分のことを愛さないのだろう。
「パパ……私は……パパのことが……」
嫌い、かもしれない。シャロンは己自身にも愛されない。つまり、同じであるジェラードのことも、今は愛せない。
シャロンは度々血だらけになる。
ジェラードの言いつけを守れなかった時、ジェラードの願いを叶えられなかった時、彼が何か嫌な目にあった時。
無抵抗なシャロンを氷の銃弾で、刃で、針で……ジェラードは躾だとか仕置きだと称して傷付ける。
傷だらけになったシャロンは自分で、あるいはジェラードにアイマスクをさせられて、排水口のある地下室にいる。
罰を受けた日は必ず先生と呼んでいる回復魔法士が医者として来て、シャロンの傷を癒やしてくれる。
医師との交流は禁じられている。アイマスクをするのも、彼と目を合わせたりしないようにするためだ。
だが治療の後、シャロンの頭をぽんと撫で、手にコーヒーキャンディを握らせて帰っていく彼へ、何の感情も抱かないわけがない。
シャロンにとっては、もう、あの医師の方が本当の親のような存在だ。唯一シャロンを労ってくれるのだ。
だから……
「先生……私、パパが……きらい、かも、しれ……ゲホッ、ゴホッ」
喋ると口から血が出て来てしまい、上手く続けられない。
医師との会話も禁じられている。禁じられているが、定期検診に来る婦人科医とは違い、彼とは一度話したことがある。
だからシャロンは、たまにこうして一方的に話しかける。
医師はシャロンの治療を終えると、これ以上肌が冷えぬようにとブランケットをかけてくれた。
いつもならばキャンディを手に握らせて、もう帰ってしまうが、まだ医師はそばにいる。その気配がする方へシャロンは目隠しをした顔を上げた。
「研修先の教官が、好かれるためには、自分からも好いた方がいいと教えてくれた。そうしたら、いろんなことを考えるようになった。好きが何かわかった。そうしたら、嫌いが何かも……」
医師の大きな手がシャロンの頭にぽすんと置かれ、優しい手付きで撫でられる。彼に撫でられるとほっとする。
「……先生がパパなら良かった。先生のことは、好き」
顔も知らないのに、そう思う。この人が父親ならば、怪我をすぐに治してもらえる。言うことを聞いてあげたいと思う。殴られたって構わない。きっと殴った後くらいは優しくしてくれる。
医師はシャロンの言葉に一瞬手を止めたが、再び髪がくしゃくしゃになるほどに撫で始めた。
それからシャロンの背中もぽんぽんと撫で、ゆっくりと耳元に顔を近付けてくる。
「……なら、殺してやるよ」
夜の、隙間風のような囁き声。
そしてシャロンの手にコーヒーキャンディを握らせ、医師はいつもと同じようにその場から立ち去る。
ドアの閉まる音に、シャロンはごくっと息を呑んだ。
止めるべきだ。だが、それができない。
シャロンは恐怖という感情に気が付いた。足が震えて、彼の後を追えなかった。
もしもジェラードの断末魔が聞こえてきたら自分のせいだ。
だがそれはいつまでたっても聞こえてこない。
きっとジョークだったのだろう。そう自分に言い聞かせ、シャロンは眠りについた。