10 セントラルタワー
申請書を出す前に、カナタはシャロンと共にジェラードに会いに行くことにした。挨拶をし、けじめをつけなければと思ったのだ。
ジェラードの執務室は特別に一室タワー内に設けられている。芸能活動なども行うので、事務所や応接間としても必要なのだろう。
直々に本人に招き入れられた部屋には美しい装飾のカーペットが敷かれ、いかにも高級そうなテーブルとソファがあった。
実の娘であるシャロンに対して好きでもない男との婚姻を強いたり、食べる物までも理想を押し付けたジェラードのことをカナタは軽蔑していた。
皆が憧れるヒーローであり、バラムから離れた田舎に生まれ育ったカナタですら、子供の頃からメディアを通して目にしたことがあった人物なので残念でもある。
もともとカナタは、この街でジェラードに守られてきた人々ほど彼を敬慕してはいない。
だからこそシャロンが彼とあまり良い親子関係ではないと察して、彼を疑うことができた。ジェラードよりも先にシャロンと深く関わったから気付くことができた。
正直、憎い。シャロンを苦しめたことは許せないと思う。
だがシャロンの今後の幸せのためを思うと、実の親との関係を悪化させるのは良くない。
決して金目当てというわけではないが、シャロンにとって唯一の肉親を、カナタは無理矢理取り上げたいとは思わない。
シャロンが望むのなら、彼女を連れて田舎に戻っても良い。例え二度と都会で夢であったヒーローとして活躍できなかったとしても。だがシャロンがそれを望んでいないなら、彼女の父親とも良好な関係を保ち、合意のもとで平穏に暮らすべきだ。
シャロンの感情は非常に分かりづらい。だが、好きなものを前にした時や嬉しい時、わずかに表情が和らぐことをカナタは知っている。
ジェラードを前にしたシャロンはむしろ、目に見えるほどはっきりと微笑みを浮かべた。口元だけ見れば父親に会えて嬉しそうだが、目はほとんどどこかへ逸らされて、遠くを見ているようだった。
緊張しているのだろう。
カナタは一度勧められるがままソファに腰掛けたが、立ち上がって深々と頭を下げた。
「ジェラードさん、昨日はシャロンさんを一晩中連れ回してしまい、本当に、申し訳ございませんでした!」
「ふふ、良いよ。むしろ喜ばしいことだ。私も昨日ちゃんと連絡を貰って了承をしたことだし……顔をお上げ。椅子にも座って……君たちくらいの年にもなれば、外泊くらい当たり前だろう」
ジェラードは優しげな口調で言い、柔らかな笑顔を浮かべている。彼だけを見ていると、怖いとなんて微塵も思わないかもしれない。
だが、いつも高圧的で怒っていたクライヴにはあまり怯えないのに、シャロンは父親を怖いと言ったのだ。
カナタが自分の母親に抱いている、怒ったら怖いとか、そんなものとは比べ物にならないほどにシャロンにとっては恐ろしいのだろう。
ジェラードは始終穏やかで、全くその印象を崩さない。カナタとシャロンを気遣い、同棲するにあたって必要なものについても考えを口にした。
すぐに同棲したい。急な話だが、もうすぐにでも引っ越しの手配をしたいとカナタが切り出しても、ジェラードは止めるどころか賛同し、いくつか家族寮の資料を部下に用意させた。
カナタはつい、彼への警戒を薄れさせてしまう。
あまりにも親身になって話を聞き、シャロンとの仲を応援してくれるので、優しい父親というような印象をうっかりと抱いてしまう。
その度、シャロンが裏庭で見せた怯えたような姿を思い出し、信頼感を寄せすぎないよう注意する。
逆に怪しいのではないか。娘が家を出ていくというのに、むしろ淡白すぎるのではないか。
その疑念はまさに的中し、ジェラードは聖母像のような柔らかい笑顔のまま言った。
「良かったよ、私の言ったとおり君を選んでくれて。君のこと、本当に心から期待しているんだ。水と氷はとても相性がいいから、もしもこの2つの特性を組み合わせた魔法を使える子が産まれたら、ヒーロー界の新たな希望になるだろう。心から、おめでとう。ふふ、孫を抱けるのが、今から楽しみでならないよ」
事情を知らぬ者が聞けば、微笑ましい台詞かもしれない。我が子の婚姻を祝福し、孫の誕生を願う者はこの世に数多くいる。
だがこの言葉がシャロンにとっては重荷だった。心を閉じ込める枷だった。これが軛となって、シャロンは嘘をついてまで男の気を引く羽目になり、義理の兄にさえ憎まれる道へ進まされたのだ。
それでも、カナタは耐える。良い関係を築かねばならない。
「自分も、そうなったらいいなと、思います」
カナタはまだシャロンを抱こうなんざ考えていない。
欲を言うなら、本当の意味で夫婦となりたいし、愛し合う仲になれたらと思う。
だが、それはシャロンが望まない限り、叶わなくていい夢だ。カナタにとっては自分の恋よりも、ずっと、シャロンの気持ちが大事だ。
クライヴが言っていたように、シャロンはシャロンが好む相手と愛し合うべきだし、子供の将来を決めつけたくもない。
だが、今はそれを言わない。時には嘘で守られるものもある。
「まったく、すぐにでも一緒になりたいだなんてお熱いな。仲良しで羨ましいよ。この家族寮は、もともとこんなこともあるかと思って空けておいたんだ。職権乱用だって怒られてしまうかもしれないから、他のみんなには内緒だよ」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。親バカかもしれないが、手塩にかけて育てた、本当に可愛い娘なんだ。良い妻になると思う。どうぞよろしく」
それからは本当に何もかもがあっという間に、順調に進んだ。
シャロンはその晩から新居の方へ移り住み、荷物は業者によって迅速に運び込まれた。
カナタもヒューゴの車で荷物を運んで貰い、翌日には共同生活が開始した。