04 シープストリート
家を出る前にこっそりと口に入れたキャンディーは、もう随分小さくなっている。
甘さの後にほんのり苦味のあるキャンディーは、最後まで噛まずに口に入れたままにして、シャロンは挨拶の言葉を考えていた。
考え事をすると、飴が舌の上から無くなったことに気付くのを遅らせることができるのだ。
「おはよう、クライヴ。早いね」
集合時間の15分前、シャロンはビルや飲食店の建ち並ぶ市街地の影にひっそりとある、古いヒツジ像の前へと到着する。
15分も早く来たというのに、すでにクライヴが待ちくたびれたような顔で立っていた。
汚れやシワなども一切無い、新品同様の運動着を身に着けたクライヴは、シャロンの格好を見るなり眉間に深いしわを刻んだ。
まだ研究生ゆえに制服がなく、『動きやすい格好』としか指定がない。朝、シャロンは動きやすい生地でできた薄紫色のワンピースを選んだ。
手首はしっかりとボタンが閉まっているし、華美な装飾もないものだ。それに、応急処置などに使う道具を、ジェラードがモデルとして起用されているブランドのトートバッグに詰めても来た。
育成校の女子生徒も制服はスカートが主流だ。支給品の制服も、内勤のスタッフはスカートを選択することができる。
可愛らしい格好の方が人は気分がいい。だからシャロンは毎日スカートを履いている。
人に良い印象を与えるために選んだ、新品同様の清潔なワンピースは歩くとともにひらりと裾を揺らす。
「そんな格好で、遊びにでも来たの?」
クライヴの言葉にこてんと頭を傾げる。
みるみる怒りの感情を大きくするクライヴの耳が赤くなっていく。
怒鳴られそうだ。そう思い身構えると、丁度そこにカナタが駆け込んできた。
「おはよう。2人とも早いな」
「あっ、おはよう。カナタも早いね」
「……おはよう」
クライヴとは対照的に、カナタはシャロンにも好意的な笑顔を浮かべる。
シャロンの白くて艷やかな髪がさらりと揺れるのを目で追ったカナタは、指で赤らむ頬を掻くような素振りをした。
「その……なんだ、えっと……シャロンは今日も綺麗だな」
「……そうかな? えへへ、嬉しい。ありがとう」
「こっ、このビッチが……」
「ちょっ、おいっ、クライヴ」
今にも喧嘩になりそうな雰囲気だったが、クライヴの怒りの矛先はカナタではなくシャロンに向いている。
カナタはしばらくじっと怪訝な面持ちでクライヴを見ていたが、困ったような顔でシャロンの顔を覗き込んだ。
「クライヴの言ったこと、あんまり気にするなよ」
「うーん、でも……びっちって何?」
かっと見開かれた2人分の目。それから沈黙が流れて、シャロンは意味を言うのも憚られるような非難の言葉を浴びせられたことに気付き、苦笑する。
クライヴはきっと心の底からシャロンに嫌悪感を抱いており、ただのからかいや意地悪といったものではない。彼の懐くものは大きくて深い憎悪なのだろう。
それからは時々カナタがなんとか空気を和ませようと天気や昨晩の食事、流行りの音楽、子供の頃の話をしていた。
シャロンを楽しませようと話をしてくれるカナタに、にこりと微笑みかける。
クライヴもカナタと趣味が合うようで、時々会話に混ざり、ほんの少しだが機嫌を良くした。しかしそれも束の間であった。約束の時間を5分……10分と過ぎたところで、再びクライヴは苛々と声を上げた。
「あいつはなぜ来ない?」
「確かにおかしいな。特に連絡とかは来てないが……」
教官としてどうなのか。そのような言葉を漏らして苛立ちを隠せない様子のクライヴ。一方でカナタは素早くスマートフォンを操作して、ヒューゴに連絡をとっているようだった。
それからまた5分ほどして、ようやくヒューゴは現れた。
私服のような上着の下に今日もネクタイはなく、首元にはきらりと銀のペンダントのチェーンが光る。
ヒューゴの髪は昨日と変わらず、わざと毛先が無造作に散らばるようにヘアワックスでセットされていて、靴は支給品でも歩きやすそうなものでもなく、よく手入れされたブランドの革靴だ。
「お前、教官としての自覚はあるのか!?」
クライヴの問いに、ヒューゴは両手を合わせて拝むように頭を下げた。
その様子では、どちらが教官で研修生かもわからなくなりそうだ。
「わりい! 昨日寝んの遅くてさ、寝坊しちまった」
「寝坊だと? 夜遅くまで一体何をしていた!?」
「へへへ、女の子の家でちょ〜っとな」
「はっ、恥を知れ! 常に5分前行動を意識しろ! 遅れる時は事前に連絡も入れろ!」
クライヴの鋭い声に、ヒューゴは怯むこともなくヘラヘラと謝罪を続ける。
言いたいことを全てクライヴが言ってしまったので、フォローに回ることにしたカナタは話題を変えようと必死だ。
「クライヴ、とりあえず深呼吸しろ。せ、先輩は、そろそろパトロール訓練の指示をお願いします」
「んー? ああ、まあ適当にその辺歩いていればいいからさ、いこーぜ」
シャロンよりもよっぽど遊びに来たかのような態度のヒューゴに、流石にもう怒り疲れたクライヴがため息をつく。
すでに疲労困憊の様子のクライヴとカナタ、笑顔の耐えないシャロンの3人は、上着のポケットに手を突っ込んだまま歩くヒューゴの背を追った。
初めてのパトロール。シャロンはほんの少しはしゃいで、その足取りは軽い。
人通りの多い場所に出るなり、それまで不機嫌だったクライヴは、まるで別人のように柔らかい印象の笑顔を浮かべた。一方、カナタの方が緊張からか口を固く結んで、少し無愛想な顔にも見えた。
制服を着ていないからというのもあるだろうが、丁度今若い女性にシャロンのように白い髪色が流行していることもあり、研修生たちが目立つことはない。
ジェラードが街を歩く時とは違い、私服の研修生と、上着を羽織るヒューゴの姿にヒーローだと気付いて手を振る者はいない。たまに整った顔をしているクライヴやシャロンを見てひそひそと話す者はいたが、ただそれだけだった。
「今日も平和だなぁ。な〜そろそろ昼飯行こうぜ。シャロンは何食いたい?」
「うーん、特に食べたいものは無いかな。わたし、みんなの好きなものを教えて欲しい!」
「あっ、俺もおすすめの店とかあったら聞きたいです」
「カナタは、まだこっちに来たばかりだもんね」
民間人が多いからか一応愛想笑いを浮かべているクライヴは、返事をせず黙ったままだ。
シャロンはクライヴに笑いかけて、もう一度問う。
「おすすめのお店があったら教えて?」
「……そこの、ショッピングモールの裏にあるバーガーショップ」
商業ビルを指差したクライヴにカナタが目を大きく見開いた。
「クライヴもハンバーガーとか食べるのか? バラムのハンバーガーは、ジャンクではないということなのか?」
「カナタは、僕を一体何だと思ってるんだよ……普通に安くて味も良いところだよ。おすすめはチーズ増し増しバーガーかな」
クライヴの表情が少し緩んだので、シャロンも合わせて笑おうとしたその瞬間、肩にドンと通行人がぶつかった。
ここで咄嗟に謝るべきだったが、シャロンはそこまで思考が追いつかず、反応が遅れてしまった。
無言で通り過ぎていく男の背中を横目にどうすべきか考えていると、他愛ない会話を続けるクライヴとカナタに向かって、ヒューゴが初めて指示を下した。
「今シャロンに当たった白いキャップの男を確保しろ」
その、ほんの一瞬のうちに忠実に反応し、言われたとおりに動いたのはカナタだった。
その身のこなしは富んだ脚力、生まれ持った運動能力ゆえのものか。
他の誰かにぶつかることも無く、人と人の間をすり抜け、白いキャップの男の肩に「すみません、ちょっと良いですか」と手を乗せたカナタを目にするまで、息をする暇もなかった。
シャロンがようやく一度吸い込んだ息を吐き出して、ぱちりと瞬きをする。
クライヴもただ黙ってその様子を見ていた。
状況を理解しているのか、いないのか。驚いているのは男を確保しろと命令があったからか、それともヒューゴの声が低く冷たいものだったからか、はたまたカナタの身のこなしに感心しているのか……。
シャロンは少し思考を巡らせてから、ようやく声を発した。
「どうして捕まえるの……?」
白いキャップの男が明らかに怪しく慌てふためく姿に、クライヴの視線がシャロンへ向けられる。
「鞄の中……」
「え? うん……」
クライヴに言われた通りにトートバッグの中に目をやれば、無くなっていたものは財布だった。
手慣れた感じは、恐らく常習犯だろう。
「放せよ! クソ、なんなんだお前っ! 急に……頭おかしいだろ!」
大声を上げる男の方へ、悠長な歩き方で上着を脱ぎながら進むヒューゴに、ようやくヒーローがいると気付いた民衆がザワザワと声を上げ始める。
「ひ、ヒーローだったのかよ! 最低だな! 私服とか卑怯だろ!」
「こいつらはまだ研修生なんだよ。俺はちょーっとさみいからこれ着てただけ。君、現行犯だからさ、悪いけど署まで同行してくれよ」
にっと笑うヒューゴに、男は「クソ!」と悪態をついて、大人しくなった。
「アンタ、スリだったのか……」
驚いたことにカナタは指示通りに動いただけで、何が何なのかわかっていなかったようだ。
ただ、反射的に上官に従うように、訓練校で厳しく指導されたのだろう。
「わたし、お財布を盗られたなんて全然気付かなかったよ。ヒューゴはやっぱり本物のヒーローなんだね」
「俺カッコイイだろ? さーて、交番行ったらまじでランチにしような〜」