03 自宅
いつもどおりの清潔な居間。いつもと違うのは、客を座らせるためだけに置いてあるソファにカナタが座っている点だけだ。
「え? いいよ」
そうあっさりと答えたジェラードに、カナタは瞠目していた。
「シャロンさんとコンビを結成して良いんですか? シャロンさんと俺でコンビ、ですよ……」
「ヒーローのコンビだろう? 芸人さんは難しいと思うが、2人でヒーローとして活躍してくれるのなら、私も心から応援するよ」
あの喫茶店でシャロンがジェラードに電話をし、そのまま3人で会う約束をしたのが1時間半前。
邸宅にカナタを招き入れたのはおよそ30分ほど前で、ジェラードが帰宅したのがほんの10分ほど前だ。
家事代行業者の用意した紅茶を温かいうちに飲み、勧められるがままクッキーを1枚食べたカナタをシャロンはぼんやり眺めていた。
その短い時間でカナタの要望は叶い、シャロンの使命、運命が変わってしまった。
プロのヒーローになることが決まったシャロンは、明日からそっちの方向で真剣に研修に励まねばならない。
ここでようやくシャロンはヒューゴに買ってもらった運動着が、タワーの洗濯機の中に入ったままであることを思い出したが、言葉にすることはもちろん、顔にも出さない。
シャロンが身に付けていいものは決められている。白やパステルカラー系のワンピース、もしくはそういう系統の色のスカートだ。
これは多くの男にとって可愛く清潔感があると思われる服装であるのだそうで、シャロンの印象を壊さぬためにジェラードが決めた。
他にも食べ物の好みや趣味、特技などもジェラードがプロフィールの内容として考え出したものだ。
だから、ズボン……ましてや運動着などを着ていると知られれば、シャロンはジェラードをまた悲しませてしまうだろう。
それでも嘘をつき通したいのは、カナタが可愛いと褒めてくれたからだ。
シャロンは他人には見せられないような有様の腕に、布越しに触れる。
ジェラードに逆らうのは恐ろしい。だが、シャロンにとってあの運動着は、カナタたちと同等の存在として生きることを許された証のようなものだ。
あれはヒーローを志す仲間の証だ。そのうえカナタが褒めてくれたのだから、シャロンにとってはゲームセンターで撮った写真と、同じくらい大切なものなのだ。
「カナタ君、ところで君……」
ジェラードに名を呼ばれたカナタがごくっと唾を飲み込む。そんなかすかな音を空気に乗せて、シャロンにも緊張が伝わってくるようだ。
「血液型は何型だい?」
「えっ……け、血液型、ですか? 血液型は――」
カナタの返答にジェラードがにこりと笑う。
「へえ、なるほど……実はね、私は最近、血液型占いというものに夢中なんだよ。本まで買ってしまうくらいにね。ええと、カナタ君は平和主義者で物事をよく観察するタイプだろうか……なんて、ふふっ、こんなものはバーナム効果に過ぎないか。ごめんね、おじさんが突然占いなんて。驚かせてしまったかな」
「いえっ、おじさんだなんて! ジェラードさんは全くおじさんではないです」
「そうかな。若者の君にそう見えるのなら、良かった。私たち氷の魔法使いは、老けるのが遅いみたいだね……」
笑うジェラードの視線がシャロンへ移動する。
柔らかな笑顔のまま、その唇が動いて言葉を紡ぐ。
「……もしかすると、カナタ君が次にここに遊びに来てくれる時、シャロンをくださいとか、お義父さんとか……そう言われてしまうのかな」
「えっ」
肩を跳ねさせたカナタの顔が真っ赤に染まり、少し不安げな視線がシャロンを捉えた。
「ああ、私は賛成なんだよ。カナタ君がお婿さんなら、私もシャロンも苦労しないだろうね。カナタくんはしっかりしていて優しそうだし。ねえ、シャロン。君もそう思っているんだろう」
「はい……わたしも、そう思ってるよ、パパ」
微笑むシャロンの返答に満足気にするジェラードだが、一方でカナタは少し納得がいっていないような曖昧な笑顔を浮かべる。
嬉しくないのだろうか。
自分のことを好きと言ってくれたカナタが、今になって婿にはなりたくないと心変わりでもしたのか。
そんな不安になぜだか胸がキリキリと痛んだ。
カナタを屋敷の裏の出入り口から送り出し、踵を返したシャロンは、いつの間にか後ろに立っていたジェラードの気配に背筋が凍った。
肌が粟立ち慄然としているが、それを顔には出さない。
シャロンを睥睨するジェラードも、感情を読み取りづらい真顔のような、笑顔のような表情をしていた。
「今夜、あの医者を呼んでおいたよ」
シャロンが真夏でも長袖を着るのは、腕に醜い傷痕があるからだ。腕だけではない、脇腹や腰、背中にもある。
それも一部新しい無傷の皮膚になって、傷痕とぐちゃぐちゃに入り混じって他人に不快感を与える状態だ。
それはなぜか。
シャロンがジェラードによって躾を受けているから。それが理由だ。
回復魔法を使う医師が来るのは、決まって躾を受けた後。医師が来るようになってから、仕置きは目立たぬ場所だけでなくデコルテや手の先にまで及んでいる。
邸宅の中に戻り、人目が無くなったところでシャロンは髪を鷲掴まれる。
シェルターとして作った地下室は防音対策が万全の、シャロンのもう一つの自室だ。
表向きには可愛らしい花柄の壁紙にアンティークの家具を並べた2階の部屋がシャロンの自室であるが、同じくらいこの地下室で朝を迎えている。
地下室には様々な装置だけでなく、診察台と薬棚といった医務室を兼ねたような空間もあるが、ジェラードがシャロンを放るのは排水口のあるやや広い場所だ。
流れ出た血を掃除しやすいよう、壁紙や絨毯もない。
「その汚い体を、カナタ君に見せるわけにはいかないだろう。汚い皮膚を切り落としておけば、あの医者が治してくれるらしい。良かったね。綺麗になれて嬉しいかい」
既に癒合してしまった傷は治せない。表面を削り取るなどして、上から傷をつけなければならないという説明は過去にも受けていた。
ジェラードの手に氷の剣が生成される。
シャロンは本能的に抱いた恐怖で逃避行動に出る。床を這いずって、少しでも遠く離れたいともがいた。
だがそんなことが許されるわけもなく、ジェラードによって服を鷲掴まれ、引きずり戻されてしまった。
「皮膚を削ぐのと、そもそも肩を切り落とすのとではどっちが効率的なのかな……」
せめて医師が来てからにしてほしい。少しでも痛む時間を減らしてほしい。
そんなシャロンの願いをジェラードが聞き届けることもなく、ザンッと音がしたと同時に右腕が弧を描いて飛んだ。
「ひぎいいイイッ――」
歯を食いしばって、耳障りな悲鳴を上げぬようにとしたが、堪えられるはずがない。
激痛と恐怖に視界もちらつき、己が気を失うまで時間もわずかと確信する。
どうか次に目を覚ます時、体が綺麗な状態であればいい。
「ああ……だが腕は、断面をくっつけるだけだろうか。やっぱり皮膚を削がないと……面倒だね……ああ、実に面倒だ。服も邪魔だ。先に脱がせておくべきだった……っ」
出血多量で死なぬよう、シャロンの肩の断面をジェラードが氷で塞いだ。
発汗し、息を荒げて床にうつ伏せに倒れているシャロンの服に、冷たい剣先を引っ掛けて衣服を切り裂く。
同時に背中の皮膚も裂けているが、彼がそれを気にするはずもなかった。
「ひっ、ぐうううっ――」
いっそのこと気を失ってしまった方が楽だ。
シャロンの失った腕を、まるで鉛筆でも削るように表面を削ぎ落とすジェラードの姿が霞んでいく。
(このまま、眠りたい)
脱力していくシャロンのもう片腕を持ち上げられる。その腕と共に意識が浮上し、シャロンは再び絶望した。
「君は娘じゃない……君は私の子じゃないッ! 君は、君はッ、君は君は君は――ッ!!」
血の匂い、血を踏む音、激痛。
その眩しいほどに赤い世界でも、シャロンと同じ雪色の髪、空色の瞳、掲げられた氷の刃は美しかった。




