30 グリズリービーチ
カナタのすぐ真下。水面に浮いた一本の腕から、じわりと赤色が広がる
叫びそうになるが、なんとか耐えた直後、今度は視界の隅から別の白いものが飛び出した。
「ッ!」
一瞬敵と見紛うも、瞬時にその白色が蟹のものではなく、うっすら水色にも見える雪色の髪と気付き、カナタはぐっと押し黙ったまま警戒を解く。
白く、凛とした佇まい。感情をあまり見られなくなったその顔は冷たく、落ち着き払っている。
泳ぐのも不得意で海では不利であるにも関わらず、カナタの元まで来たシャロンがこうも落ち着いているのだから、自分も怒りに身を任せて叫んでいる場合ではない。
カナタは呼吸を整え、動かなくなった方のモンスターが脱皮した残骸と気付いて捨て置いた。脱皮後にヒューゴへ攻撃した本体の方は、まだ肉体が柔らかいようで自身も損傷を受けて動きを止めている。
「カナタ、ヒューゴは平気。退却して。プロが来た」
冷たいようで優しい声に、カナタは頷いた。
シャロンは水面に浮いていたヒューゴの腕を何の躊躇いもなく手に取り、パーカーを血で濡らしている。
ヒューゴの体は見当たらないが、今はシャロンの言葉を信じることにした。
「シャロン、ヒューゴの腕の傷口を冷やしてやって欲しい。今、シャロンを空中に浮かせるから」
「うん、わかった」
シャロンが魔法を海中で使うのは危険だ。だから、シャロンが返事をすると、その華奢な体を噴水のように勢いよく噴き上げさせた水に乗せて空中へ放った。
宙に舞い上がったシャロンは驚いたりもせず、至極当然のように空中にある水だけを凍らせて足場にし、さらにそれを起点に氷の道を伸ばして雪うさぎのように華麗に砂浜へと駆けていく。
カナタもウォータージェットのように海水を操って水上を駆けて退却した。
砂浜に上がると、数人のヒーローとすれ違いになった。
頭を下げるカナタを横目に見る者が数人、そして肩を優しく叩いて笑いかけてきた男が1人いた。
「やあ、頑張ったね。ご苦労さま。後は私達に任せて」
「はいっ……って……ジェ、ジェラードさんっ……!?」
「おや、私を知っているのか。光栄だよ。娘が世話になってるみたいだね……ふふっ、また、後でね」
さらり。雪を紡いだ絹糸のような美しい白い髪が揺れる。微笑むように薄く細められた瞳も何もかもが、シャロンと似ていて美しい。まるで芸術品のようだ。
同性を相手に見惚れていたカナタに、その娘が声をかけた。
「カナタ、怪我はない?」
「俺は大丈夫……先輩は……」
「ヒューゴは、腕とれても平気」
「そ、そっか……」
青白いというか、紫というか、正直あまり見ていて気分の良くない色に変色してきているヒューゴの腕に眉をひそめる。
あの時、自分という足手まといさえいなければ、もしかしたらヒューゴは無事で済んだかもしれない。そう思うと、とても平気ではいられない。モンスターと対峙していた時には緊張からか、かえって落ち着いていたが、こうして時間を置くと沈鬱に眉間にしわが寄った。
モンスターはあっけなく討伐され、凍った状態でいくつかに切り分けられて、トラックの荷台に積まれた。これからタワー内にある研究室に持ち込まれるのだ。
海の家に戻ったカナタ、シャロン、クライヴ。その3人の元にジェラードがやって来たのは、警報が解除されてすぐのことだった。
「やあ、久しぶりだね、クライヴ」
「はい。お久しぶりです、ジェラードさん」
「君が……カナタ君、だね」
「はっ、はい!」
「シャロンから聞いているよ。君たち3人でチームなんだね」
にこやかなジェラードに、カナタは浮かない顔で目を伏せる。
「あの、ヒューゴせん……教官は……」
「ああ、彼なら」
振り返ったジェラードの背中の先、海の家の出入り口のところに、へらへらと笑う男がいる。もげた片腕の傷口を無事な方の手で押さえたヒューゴだった。
「俺のうで〜」
「シャロン、渡してあげなさい」
「はい」
シャロンが急ぎ足でヒューゴの側に行き、傷まないよう冷やしておいた腕を差し出す。
「おっ、サンキュー。これなら治すの楽に済むぜ」
傷口に腕の断面を近付けると、みるみるうちに繋がって元の形に戻っていく。
境目にある裂傷のような線もやがて塞がって見えなくなった。
「先輩、痛みとかは」
「もう全然ねぇよ。あれ、もしかして心配してくれたのか?」
「当たり前じゃないですか!」
カナタだけではない。シャロンがヒューゴの腕を持っているのを見て、ずっとそわそわしていたのはクライヴも同じだ。
そんなクライヴの何か言いたげな眼差しに気付いて、ヒューゴがきょとんとする。
「ンだよ、お前も俺のこと心配してんの? そんな顔すんな。それよりカナタ、わりィな。腕探しながら逃げるので精一杯でさ。怪我してねェか?」
「いえ、大丈夫です。俺が先輩の足引っ張ってたんで……腕取れたり、申し訳ないです」
「あー? んなことねぇだろ。まあでも、シャロンが一番頑張ったよな〜」
へらへらと笑いながら、ヒューゴが治ったばかりの腕をシャロンへ伸ばす。
しかしその手はシャロンに触れる前に、ずっと優しく微笑んでいたジェラードが素早く掴んで止めた。
「ヒューゴ、意味もなく年頃の娘に触るものではないよ」
「あ、いや〜、これは……」
「まさか、普段からこうなのかい?」
ジェラードは笑っているが、その目は殺気を放っているように見えた。ひくひくと引きつった笑い方をするヒューゴに、クライヴがため息をつく。
「いつも、ですよ」
クライヴの言葉にジェラードが肩を揺らして笑う。逆の手でシャロンを庇うように抱き寄せて、ヒューゴの手首を捻り上げた。
「あだだだだっ、まじっ、まじですみませんって!」
「まったく、油断も隙もないな。シャロン、こういう時は抵抗をしなさい。そして、必ず私に相談するんだ」
「はい、パパ」
シャロンが返事をすると、ジェラードがにこりと微笑み、ヒューゴを解放した。
「……ところでヒューゴ、大切なペンダントは見つかったのかい」
「……ああ、もちろん、見つけましたよ」
「ふふ、それは良かったね。さて、私もタワーに戻らなくては……シャロン、くれぐれも粗相の無いようにね」
「はい」
疲れが出たのか、少し青白く見えるシャロンから離れたジェラードが手を振った。
カナタには2人の様子があまり家族というような仲睦まじいものには思えなかったが、家庭などそれぞれだし、シャロンくらいの歳になると異性の親に少しよそよそしくなったりもするかもしれない。
「あー、非番なのに疲れたな。ついてないぜ、ほんと」
両手が揃い、ようやくチェーンの切れたネックレスをポケットから取り出してまじまじと観察できるようになったヒューゴがため息をつく。
つられたようにカナタも並々ならぬ疲労感を自覚した。
クライヴも半濡れの髪を掻き上げ、呆れたような、疲れたような、長いため息をこぼす。
海の家には再び、ラーメンの匂いが広がりつつあった。




