24 シープストリート
夏が近い。
暦の上ではまだ本格的に始まってはいないはずだが、温度計は既に夏が来てしまっていることを示している。
朝食である固形食とビタミン剤を水で喉へ流し込んでから、隠し持っていたコーヒー味のキャンディーの包装を破って口に含み、シャロンはふらりと家を出た。
昨晩も遅かったので、少し寝不足気味だ。
シャロンは、定期的に医師を家に呼ぶ。
1人は初潮を迎えてから定期的に診療に来る婦人科医。そしてもう1人は、数年前から頻繁に来るようになった医師で、シャロンの健康管理はほぼ彼が担当している。
婦人科医の方は全くコミュニケーションは取らず、ただ診察をするだけだが、もう一人の方は夜間に度々体調を崩すシャロンをよく治療しに来てくれる。
昨晩も酷い痛みで、彼が来て治療をしてくれるまで眠ることができなかった。
しかし痛みが治まっても、睡眠時間が少ない分肉体への負荷は避けられない。
傷のない疲労は、あの医師には治せないのだ。
ヒーラーのボドワンならば疲労感を忘れさせてくれるかもしれないが、彼は以前のようにシャロンに好意を抱いておらず、あまり関わりがなくなってしまった。
何より、ヒーラーとは無闇に接触してはいけない。シャロンはアタッカーと呼ばれるヒーローの子を産まねばならないのだ。
今日は、パトロール研修の日。
シャロンは密かに、カナタやヒューゴ、クライヴと外を歩くことを楽しいと感じるようになっていた。
だから眠いと言って気を遣わせたくないし、休みを取るのも取らされるのも嫌だ。
わざわざ相談する理由はない。
「まただ。もう10分も過ぎてる……」
ヒューゴの遅刻にも流石に慣れたようで、クライヴは呆れてはいるものの、そこまで苛立った様子を見せない。
八つ当たりをされないことに安堵して、シャロンはのんびりと地面に視線を向けて思考を止めた。
そして結局、ヒューゴが現れたのは集合時間の20分後だった。
「なぜいつも時間通りに来ない!?」
「わりい! 髪型はキマってたんだけど、どうも肌の調子がな。シャツもシワだらけでさァ」
「もっと早く支度を終える努力をしろ! シャツのシワは昨晩のうちに」
「いやいや、夜は超忙しいんだよ俺! 息子がさ……」
「は? 息子? ちゃんと養育費は払っているんだろうな?」
「いや〜、息子っつうのはさあ……お前にもあんじゃん、ここにホラ」
「は?」
シャロンにもよくわからないやりとりに、カナタが苦々しい顔で二人の間に割り込む。
クライヴの方を見ているカナタは困ったような笑顔だったが、ヒューゴの方を向いた瞬間鬼のような顔をするので、シャロンまで寝不足なことを怒られているような気持ちになってしまい、つい、固まる。
「先輩、いつもいつもセクハラだって言ってますよねえ」
「えっ、お、俺、今日まだシャロンには何も」
「クライヴに対してもですよ!」
カナタが寝坊に関して怒っているのではないとわかると、ほっと肩の力を緩めていく。それにしても般若のようなカナタの顔は恐ろしかった。
25分遅れでパトロールを開始すると、つい先程まで不機嫌だったクライヴは別人のように優しげな顔になる。
クライヴは大衆に向けて爽やかで優しく、ニーズに合わせたヒーローを演じているのだ。
シャロンもそれを大切なことであるとは思うが、もう以前のようには笑えない。
挫折を味わうと、人間は簡単には立ち直れない。不思議なことに、それが自分にも当てはまっていた。
だから、演技の得意なクライヴのことは尊敬している。
25分も遅れて開始した分、パトロールも延長して終了となる。たまたま午後に座学が無かったため、特に問題もない。
昼食のためにセントラルタワーの食堂へ行くと、いつもこの時間ならまだ賑わっているはずの一帯が、なぜか静かで人が少ない。
カウンターで注文したものを待ちながら、それぞれ頭上に疑問符を浮かべる。
「なんだか、やけに空いてますね」
「つーか、なんか熱くね?」
カナタとヒューゴのやりとりの後、クライヴがセロハンテープで壁に貼られた紙に気付き、内容を読み上げる。
「エアコン故障中……」
やたらと人が去って行き、休憩を短く終えるのは、どうやらエアコンが壊れて室温が上がって来ているかららしい。
今朝の時点でそんな連絡はなかったが、4人で顔を見合わせたその瞬間、スマートフォンが司令部からの通知で同時に鳴った。
内容を確認するに、つい先程故障したらしい。
「何もかもヒューゴのせいだ」
そう漏らすクライヴの声に、シャロンはぱちぱちと瞬きをしながら受け取ったトレーをテーブルに置く。
トレーニングルームの予約時間に間に合わず、渋々4人で食事をすることになったクライヴのしょぼくれた顔を眺めながら、シャロンは昼食の白身魚のフライを口に運ぶ。
カリッと香ばしい衣の中からふわふわと柔らかい魚の身が溢れ、ほろりと口内で溶ける。すなわち美味である。
「ごめんなクライヴ〜、機嫌直せって」
食堂はどんどんと蒸し暑くなっていって、シャロンを除いた3人が汗を垂らし、手を扇のようにして仰いでいた。
トレーニングルームなど自宅にも設備があるので、ジェラードに頼めば養子であるクライヴは使うことができるはずだ。
タワーの設備にこだわりでもあるのだろうか。それとも、エアコンの故障についてもヒューゴに原因があるとでも言うのか。
確かに、ヒューゴが時間通りに来ていれば、エアコンが故障する前に食事ができたかもしれないが。
クライヴが不機嫌になることを疑問に思いつつ、シャロンはそれを口にはしない。最近、何か話すたびにクライヴが怒るので、シャロンもシャロンなりに気遣っているのだ。
「あっち〜〜っ、ざる蕎麦があっという間にぬるくなっちまうぜ……ま、こんな時にまでカレーを頼むカナタよりマシか……」
「……俺はなぜカレーを頼んでしまうんだろうか」
「大丈夫? 僕の素麺と……半分くらいなら交換しても良いけど……」
「いや、俺はカレーを食べると決めたんだ。海の家でも、あえてラーメンやカレーを食べるだろ。カレーは暑くても美味い、カレーはすごい、俺はカレーが大好きだ」
しとどに汗を垂らす3人に、シャロンは揚げたての熱々なフライを頬張り、再びぱちぱちと目を瞬かせる。
こくんと喉を鳴らして飲み込んで、「んー」と頭を傾げた。
「3人は、寒いのが、好き……?」
「そうだな〜、今はスキーとかしてぇ気分だな……」
「俺も雪見カレーが食べたい」
返答をしないクライヴにも視線を投げる。たらりと汗を流した彼も、否定をしないということはそうなのだろう。
3人が喜ぶ顔を想像し、シャロンは眉尻をきりっとあげる。
ピキッ、パキッ――
側にいる3人が同時に箸やスプーンを持つ手を止めた。
上手く魔力をコントロールし、シャロンは4人で座っている椅子とテーブル、それを中心に半径1メートル以内の床を凍りつかせていく。
カナタの望む通り、限定したその範囲だけに雪も降らせて、雪見カレーも実現させた。
もうか弱いふりをしなくても良いので、思い切って人体でも耐えられる程度の寒さを出してみる。
そして褒めて貰える期待を胸に、カナタとヒューゴを順番に見つめた。クライヴは恐らく褒めてはくれないだろう。
「しゃ、シャロンはやっぱ、天才だなぁ、ほ、ほほんとに雪見カレーが食えるよ。う、嬉しいな」
「お、俺のぬるくなってた蕎麦も、こここの通りだぜ……」
二人がぶるぶる震えるほど喜ぶのを見て、シャロンも少し表情を緩める。
それからクライヴに視線を向けると、ギロリと鋭い眼光がシャロンに向けられた。
「さ、寒い。元に戻せっ! やりすぎだ!」
「……でも、雪見カレー」
「今度は天然ぶって、人を殺めるつもりか!? そもそも、何でもない時にこんなに広く凍らせて……雪まで降らせて……魔力を無駄遣いするな! ただでさえ今日は朝から顔色が……はっ! い、いいから、魔法を解け!」
「……元に、戻す」
怒られてしまった。人の感情は難しい。
魔法を解いて氷を消滅させると、ヒューゴが蕎麦をシャリシャリと食べながらにこにこと笑った。
「はは……なあ、明日休みだろ? みんなで海行かねぇ?」
「お、良いですね。シャロンはどうする?」
「泳げない」
「大丈夫大丈夫、カナタがいるし、俺なんか人工呼吸めちゃくちゃ上手いからさ」
「なら、行く」
「な、なら!? ゴホッ!」
「カナタ、水! 水飲んで!」
氷の魔力は、水が多すぎる場所で放出するとコントロールを失い、水中に吸い尽くされる可能性がある。
魔力の枯渇は死に至る場合もあるので、海の中で魔法は使えない。
だが水の魔法士のカナタは違う。わざわざ水を生み出さずに済むので、むしろ海の中では普段よりも魔力の消費を抑えることができる。
クライヴもシャロンと同じ理由で海の中で魔法を使えない。真水ならばともかく、塩や不純物の多い海の水は電気を通すので、魔力を吸いつくされてしまうのだ。
「なら……ならって……人工、呼吸……だぞ……」
カナタの声に、シャロンは頭の中で繰り広げていた海での戦闘シミュレーションを霧を払うようにかき消す。
「大丈夫だよ、カナタ。僕が人工呼吸器持っていくから」
「そうだぞ、安心しろよ、カナタ。俺は性別とか年齢、ルックスも気にせず、息をしてても人工呼吸してやるぜ。これでセクハラじゃなくなるだろ」
また男たちで何やら揉めているが、純粋に明日という未来に対しての期待や喜びだけを感じ、シャロンは口元を緩めて目を伏せた。