14 セントラルタワー
助手の業務をたまたま通りかかったエリオットに押し付けたヒューゴが無理矢理仲間に加わって、シャロンたち4人はタワー内にある食堂へと訪れた。
壁は一面ガラス張りで、街を見下ろすことができる。眼下に広がる都会の様子に、カナタは「おお」と声を漏らした。
「晴れてる日は、やっぱり綺麗だな」
一般開放されていない食堂の中には、タワー内に従事する職員、ヒーロー、研修生のみがいる。
そのためカレー半額デーの昼でやや混雑しつつも、空席を見つけるのはさほど難しくない。
半額のカレーというのも気にはなったが、シャロンは自身の好きなものであろう、サラダがメインのセットとフルーツジュースを注文した。
カナタ、クライヴ、ヒューゴの3人は当然、半額のカレーを注文した。カナタはご飯を大盛りにし、ヒューゴはコーヒーも付けたようだ。
テーブルに料理の乗ったトレーを置くと、シャロンは座らずにそのままにこりと笑う。
「わたし、お水持ってくるね」
「いい、自分で持ってくる」
「ううん、クライヴは先に食べて。せっかくのカレー冷めちゃうもの。わたしは猫舌だから、このスープを冷ます時間が必要なのです」
腰に手を当てて、誇らしげに言ってみる。
元気が取り柄であるシャロンらしい言動に、カナタは花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「一人で大丈夫なのか?」
「うんっ! 任せて」
こつん、とパンプスを鳴らして歩き始める。
疑心を隠さないクライヴの表情に怯みかけたが、なんとか彼にも好いてもらいたい。そのために、思いつくのはこんなことくらいだ。
ウォーターサーバーから、カップに冷たい水を注ぎ入れる。
こういう場合は往復するのだろうと、とりあえず2つだけ持っていくことにした。
さて、と顔を上げる。
溢さぬように、凍らさぬようにゆったりとした速度で歩きながら、皆の待つ席へ向かう。
その途中で、ウドム、ボドワン、シンイーの3人が正面から歩いてくるのを見つけた。
ボドワンはシャロンを見ると、わかりやすいほど嬉しそうな顔をする。ウドムもじっとシャロンを見つめてから、はっとしたように会釈をした。
その2人の後ろにいたシンイーは、クライヴのようなあからさまな憎悪は無いものの、シャロンを訝しみ、警戒しているような視線を向けてくる。
やはり女は苦手だ。彼女も男ならば良かった。
そしてぺこりと会釈して、笑顔ですれ違おうとしたその瞬間、シャロンはバランスを崩して転倒した。
手に持っていたカップは空中を舞って、散った水がシャロンの体に降りかかる。
水を浴びて転んでいるシャロンの足元に立っているのはシンイーで、その様子から、シンイーの足に引っかかって転んだようにも見える。
シンイーは顔を真っ青にし、驚いたような顔をしていた。
「だ、大丈夫!?」
ボドワンの声に、周りまでざわ付く。
あと少しでたどりつけそうだった席から、カナタたちまで駆け付けたが、床に手をついて起き上がったシャロンを見るなり勢いよく顔を背けた。
シャロンの白いワンピースは水に濡れて、胸と臀部の膨らみに張り付いたところから下着が透けて見えてしまっていた。
「おい、シンイー! 謝れよ!」
ボドワンの言葉に、蒼白のシンイーが口をはくはくと開ける。
「ちっ、ちが……あ、あたしは、何も……」
「だ、大丈夫ですっ、わたし……ドジでごめんなさい。あのう、シンイーさんは、お水かかってませんか?」
シンイーの方へ顔を向けると、ウドムとボドワンも頬を染めてそっぽを向いた。
蒼白のシンイーは返答もできずにあたふたとしている。
「おい」
自分に向けられるクライヴの冷たい声に、シャロンは濡れた髪を指で耳にかけてから顔を上げた。だが、彼の続きの言葉よりも早く、ヒューゴの上着をばさりとかけられ、体を隠す。
「風邪引いちゃうぞ」
「あっ、ありがとう」
洗剤……いや、香水のものだろうか、どこかで嗅いだことのあるような香りが鼻をくすぐる。
それは何か、シャロンの中にあるものを強く揺さぶった。
「ヒューゴの、におい……」
「えっ、俺のセクシーな香りに包まれて、思わずドキドキしちゃったって!? 王子様がシャロン姫をだっこしちゃおっかな〜」
触らないでとどう伝えれば良いのかわからないまま、シャロンはヒューゴに支えられるように立たされた。
手は腰に添えられたが、シャロンの震えに気が付いたのか、すぐに離される。
一度ヒューゴが目を瞠った気がしたが、その顔はすぐにいつもと変わらぬ笑みに塗り替えられる。
あまり、物事は良い方向に動いていないかもしれない。その予感に、シャロンはクライヴの様子を伺い見た。
「謝るのはお前の方だ、シャロン! シンイーに謝れ!」
わなわなと怒りに拳を震わせているクライヴの眼光は、シャロンだけに浴びせられる凶器だ。
こんなことになるとは思っていなかった。
肌も服も、氷よりも冷たく感じる。
クライヴが自分のことなどこれっぽっちも心配したりしないのだと気付いて、足掻くように、シャロンは眉をひそめて悲しそうな顔をする。
何を間違えたのか思い返してもシャロンにはわからない。転んで、濡れたのはシャロンの方なのに。
「このビッチ……関係ない女性まで、お前のくだらない見栄に巻き込むな!」
「っ……ひどいよ、クライヴ……そんなつもりじゃ」
「なら、どういうつもりなんだ?」
「お水を持ってきたら……クライヴにも、良い子って思って貰えると、思って……だから……」
「なら、普通に持ってくれば良かっただろ。もうやめろ。真面目に研修受けてる僕たちを引っ掻き回すな。お前は最低だ。ただ男を漁りに来ただけのお前に、ここにいる資格は無い!」
クライヴに対しては、うまくいかなかった。
だが幸いにも、カナタとウドムは味方に付いてくれたようで、クライヴをシャロンから遠ざけようと間に入る。
カナタはクライヴをなだめ、ウドムはシャロンの濡れた服を乾かそうと、視線を後ろへ向けたまま手をかざした。
その手をシャロンは凝視する。
「……っ」
大きく、力強い手のひらが自分に向けられていることに、ひどい焦燥、恐怖、苛立ちまで感じる。
荒くなりそうな息を抑え込むようにぎりぎりと歯を食いしばり、ヒューゴの上着に縋り付くように目をギュッと瞑って、その襟元を顔へ寄せた。
炎は怖い。熱いものが怖い。
氷の魔法士は恐らく皆そうだ。
だからウドムの行動が親切心、好意から来ていても、殺されてしまうイメージが頭によぎってしまう。目眩を催すほどけたたましい警鐘が、激しく脳内で打ち鳴らされていた。
だが並大抵の精神ならば保てぬような死の妄想は、シャロンにとっては特別なものではない。
シャロンは体の力を抜いて、徐々にそれを受け入れていく。
冷静さを保てたのは、微かに香る男性用の香水のおかげだろう。控えめなバニラと暖かなウッディを組み合わせた、比較的甘いような香りがシャロンの苦痛を紛らわせてくれる。
街やデパート、パーティなどあらゆる場でも嗅いだことがある、ごくありふれた香水だ。
(そう、これは愛情、愛情、愛情、愛情愛情愛情愛情愛情愛情愛情愛情愛情愛情愛情愛情――)
ようやく服が乾いて、ウドムがシャロンから離れた。
彼にシャロンが怯えていることが伝わってしまった。笑顔を貼り付けて「ありがとう」と言ったものの、ウドムはぎこちなく頷いてその場を後にしてしまった。
シャロンは上手く濡れないようにした腕を、自らの爪を突き刺すほど強く握る。
「……」
顔面蒼白のまま、シャロンは落としたプラスチックのカップを拾い上げ、返却口へ持って行こうとした。その時、ボドワンや集まってきた他の男子が数人、シャロンを慰めるような言葉を口にするのが耳に届く。
「大丈夫?」
「俺がやるよ」
「シャロンちゃんは悪くないよ」
全てが失敗に終わってしまったわけではない。だがクライヴには更に嫌われてしまった。
シャロンは眉をひそめたまま、情けない笑顔を浮かべる。
「ううん、わたしがいけないの。ちゃんと前を見て歩かないから……」
前向きなシャロンは、これしきのことでめげないかもしれない。
だが、か弱いシャロンならば落ち込むのだろうか。
シャロンには、シャロンがわからない。




